第32話手を振る人
「さあ、続けようか」
一気に進めることに若干の抵抗感はあるが、いずれは終わるのだ。それが少し早まっただけのこと。
【手を振る人】
親しい人を見つけたときは「おーい」と言いながら腕を上げて手を振るものでしょう。
では、知り合いですらない人が遠くから手を振っていたら?
『3月1日』
渋谷のスクランブル交差点で信号待ちをしていました。それだけなら日記に書くことでもないでしょう。
手を振っている男性がいた。若い――二十歳ぐらいかな。
最初は私に手を振っているとは思わなかった。ずーっと振っている。おかしな人だなと思っていたら目が合った。彼は嬉しそうな顔をしてぶんぶんと激しく手を振った。
信号が青になったら人混みが彼を吞み込んだ。
『3月2日』
また手を振っている男性がいた。昨日と同じ人だ。場所は同じだけど時間帯は違う。やはり目が合うと嬉しそうに目を細めた。
昨日もそうだったけど、周りの人は彼を一切見ていない。気付いていない?
信号が青になるとやはり人混みに呑まれていった。
『3月3日』
今日は実家に帰省。羽田空港でお土産を選んでいると「おーい」って声が聞こえた。
振り返るとやっぱりあの男性がいたけど、この日は無視することにした。目を合わせないことで何か変化が起きるかと期待しての行動だったけど、ずっと「おーい」って声が聞こえてただけ。声は飛行機に乗るまで続いた。
『3月4日』
妹に手を振ってくる男性について相談した。妹とは七歳も年が離れてるけど私の話をよく聞いてくれる、とても優しい妹だ。両親に話したら「そんな馬鹿なこと言ってないで寝なさい」とか言われるだろう。
「たぶん、手を振り返しちゃだめだと思う」
妹は少し考えながらそう言った。
「でも……何もしないでいるのもだめだと思う」
さらに続けた。
「どうすればいいんだろう」
私。
「お姉ちゃんは明後日東京に帰るんだよね。じゃあ明日図書館で調べよう。あと神社でお守りも買おう」
妹の提案に頷いた。
『3月5日』
「あ、いた」
私が声を上げると、妹は「どこに?」と聞いてきた。
「あそこ。屋根の上でおーいって言ってる」
「そうなんだ……私には見えない。本当にお姉ちゃんにしか見えてないんだね」
私にしか見えていない。わかっていたけど、言われると怖い。
もちろん今回も無視をして図書館へ向かった。
怪綺談、都市伝説、呪いの種類、妖怪辞典などオカルト系の本を読み漁ったけど成果はなかった。
「インターネット使えるの?」
「学校で習ったんだ」
私が学校に通っていた頃はパソコン自体なかった。今は専用の教室ができるほど普及しているらしい。
「あ、あった。たぶんこれじゃない?」
『ふりかえしてはいけない ちかづいてきたら「ひとちがいです」といえ』
対処法にはこう書いてあった。全部ひらがななのは雰囲気を出すため?
「本当にこれで効くのかな?」
疑いは拭えぬまま図書館を後にして、神社でお守りを買った。
『3月6日』
おーい
男性は飛行機内にも現れた。
おーい
段々近付いてきている。
私は対処法が書かれたメモ用紙を握りしめてその瞬間を待った。後ろの座席では二人の男性が馬鹿みたいな大声で笑っている。私の声が搔き消されそうで心配だ。
おーい
近付いてきた!
息を吸って口にする。
「ひとちがいです」「俺だよ俺!」
後ろの座席の人と声が重なった。
男性は私を素通りして後ろに座っていた、髪を茶色に染めているヤンキーみたいな人の前に立った。
おーい
「あん?」
ヤンキーの男性は訝しげな表情になって目の前に立った男性を見上げていた。見えている。
おーい
手を振っている。
「なんだよ……うわっ!」
手を振られて、反射的に振り返してしまった男性。
彼の首を目掛けて腕が伸び、標準的な若い男の人が持つ、加減なしの力が首に注がれた。
ヤンキーの顔が徐々に青くなる。様子を見ていた隣の席の人が声を上げる。
瞬く間に周囲がざわつき始め、飛行機内はパニック状態になった。
まだ飛び立つ前で良かった。上空にいたらパニックは今の比ではなかっただろう。
フライトは一時中止。
ヤンキーの容体は知れない。でも強く締められていたから生きているとは思えない。
この日から手を振ってくる男性は現れなくなった。
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