十七 議案提出超越権
二〇八〇年、十月十八日、金曜。バクダッド十時。(上海十五時。バンコク十四時。ローマ九時。ティカル一時)。
バクダッドの統合政府ビル周囲は、ビル群を繋ぐ架橋と移動チューブや飛び交うヴィークルの群の下に、ナツメ椰子の緑地が見える。
エネルギー効率のため、多くの都市機能が地球防衛軍基地同様、強固な岩盤の地下に移されている。高緯度になるほどその割合は高いが、熱帯や亜熱帯では徐々に地下へ移されているものの、地質因子により都市機能はまだ地表にある。
「オイラーが私を訪ねて三十日になる。辞職について何か言ってきたかね?」
枢機卿フランク・アンゲロスは統合議長執務室から、百数十階下のバクダッドを見下ろした。
「いや、まだ何も無い。座ってくれ。で、その後は?」
チャン・ミンスクは、アンゲロスにソファーを示して、デスク背後の壁のミニバーカウンターにグラスを二つ置いてウィスキーを満たした。
アンゲロスは窓辺で上着とワイシャツの袖を肘まで上げた。肘に小さな透明な瘡蓋がある。後頭部の首筋近くの髪をよけると、そこにも小さな瘡蓋がある。
「皮膚癌や傷跡じゃない。特殊なケラチン質だ。ミンスクが話したように健康に問題はない。だが少しずつ増えてる。これが現れてから気分爽快だ。胸は手術跡にそって、もっと多いんだ・・・」
「私も手術跡に現れてる・・・」
ミンスクは手を止めた。スーツの上から腎臓移植の手術部位を示した。
ミンスクの手術跡に現れたケラチン質の透明な瘡蓋は、その日の気持ちで小さくなったり大きくなったり変異している。
「我々の他にも、このケラチンシェルが現れた者が居るのか?」
アンゲロスは袖を戻して、ソファーに座った。
「臓器移植された統合議員たちのほぼ全員だ。統合議員の半数以上になる・・・」
ミンスクはグラスを持ってカウンターを離れた。二つのグラスをテーブルに置いて、やってくれと言ってソファーに座った。
「統合議員は自分たちだけに現れた現象を認めない。彼らは今月の統合議会で統合評議会の議案を否決するだろう」
ミンスクはグラスを手にして少量のウィスキーを口に含んだ。林檎ジュースの味がする。体調が良い証拠だ・・・。
一ヶ月前。統合議会は人類が遺伝的多様性を無くして出生率が低下しているのを認めた。どのように公表するか統合評議会の議案待ちだが、統合議員の半数以上に変異が現れた今、統合議会は公表内容を、
「人類に進化が現れて出生率が増加し始めている」
と自分たちに現れた現象を肯定する内容に変更するだろう・・・。
アンゲロスはグラスを持ってミンスクを見つめた。
「突然変異による進化と出生率増加を公表するのか?」
「統合議会が議案を提出すれば、統合評議会は評議せざるを得なくなる。変異が現れたのは統合議員だけだ。一般国民には現れていない。
我々の身体に現れたケラチンシェルは、我々の精神変化で形を変える。逆に応用すれば、これによって精神コントロールできる。
これは長期的には、進化と言うが、現段階は、突然変異そのものだ・・・」
ミンスクは再び少量のウィスキーを口に含んだ。
「やはりトムソの外観は?」
アンゲロスは不審な顔で訊いた。
「おそらくそうだろう」
「弱ったな。一般社会は忘れてるが、一部宗教界には悪魔信仰が残ってる」
アンゲロスはウィスキーを口に含んでグラスをテーブルに置いた。腕を組んで目を伏せ、狂信的カルト集団を思った。同時に金髪碧眼のホイヘンスの顔が浮かんだ。
「この事を、ホイヘンスは知っていたか?」
ミンスクもグラスをテーブルに置いた。
「オイラーは何も話さなかった。無意識領域で理解しているのかも知れない。オイラーを除いて、この事を知っているのは統合評議委員の他に、私だけだったな?」
そう言ってアンゲロスは顔を上げた。
「気づいたのは私とアダムと君だけだ。他の統合議員も統合評議委員も気づいてない」
とミンスク。
「三人だけか」
アンゲロスはミンスクを見つめている。
「そうだ」
そう答えてミンスクは思った。
人類が遺伝的多様性を無くしているのは統計に基づいた判断だ。個々の個体についての判断ではない。そう説明すれば、統合議員に突然変異が現れたと公表しても、問題は無いかも知れない。だが、変異が統合議員だけに現れたのは奇異に思われる。変異がどこまで進行するか疑問を持たれるはずだ・・・。
「先月見た映像のトムソは甲冑を着けた中世の騎士のようだった。実際、どこまで変異できるんだ?」
ミンスクを見つめるアンゲロスの眼差しが鋭くなった。
一ヶ月前の統合議会直前、統合議員フランク・アンゲロスは統合議長チャン・ミンスクに召還された。アンゲロスは統合評議会がマルタ騎士団国のマルタとロードスの領有権を認める議案を統合議会に提出する条件で、オイラー・ホイヘンスの依頼を断るよう説得されて、トムソの映像を見せられていた。
ミンスクはテーブルのグラスを取った。
「骨格に負担がかからぬ限り、自由に変異できるらしい。脱皮するようにシェルを脱いでソウルだけになるのも、身に着けてトムソになるのも可能だ。これは戦艦〈ホイヘンス〉内で行っていただけで、今はしていない」
「なぜだ?」とアンゲロス。
「戦艦〈ホイヘンス〉内のトムソの反乱を防ぐため、ホイヘンスはトムソをマインドコントロールしていた。マインドコントロールするのに、シェルとソウルを分離する必要があった。シェルはソウルを肉体的に、また、記憶的に保護するからだ。
現在のトムソに、マインドコントロールの必要はない」
「では、これが原因で精神に異常を来すことは無いのだな?」
アンゲロスは肘を摩った。
ミンスクはアンゲロスを見つめた。
「精神に異常を来す事は無い。これは我々の精神を平静に保って安定させる。記憶力は無原に拡がる。全ての面で完璧になる・・・。
我々に現れた変異も、トムソの存在も、極秘だぞ。アダムもそう言っていた」
「わかっている・・・」
重大な問題が増えたとアンゲロスは思った。
「さて、話を統合議会が提出するであろう案件に戻そう・・・。
我々の皮膚変化は進行している。いずれ身体がケラチンシェルで覆われる可能性がある。突然変異を公表すれば、統合議員の半数以上がトムソに変異しつつあるのを知らせるようなものだ」
そう言ってミンスクは考えこんだ。
「どうする気だ?」
アンゲロスは統合議員の現状を思った。人類の遺伝子は遺伝的多様性を失って繁殖率が低下している。統合議員の多くが新生児を増やすために若い愛人を抱えている。トムソの出生率は高い。トムソが生まれる可能性は高いのだ。
「統合評議会は、君たちがホイヘンスの依頼を断った見返りに、君たちにマルタとロードスの領有権を与えるつもりだ・・・。
そのように統合評議会が議案提出超越権を行使すれば、統合議員にケラチンシェルが現れた今、統合議会は統合議員に現れているケラチンシェルを公表しない条件で、統合評議会の言い分を聞く。
統合議員の多くに若い愛人が居る。トムソの出生率は高い。人類を混乱させぬように対処するしかない・・・」とミンスク。
アンゲロスは、心に大きな流れを感じた。
「人類は大きく変貌しようとしてる。民族や国家を超えて考えねばならない段階にある。
旧国家時代と違って、個人が望む物は、統合政府が認めれば、大概の物は手に入る。もう、旧国家の形式的領土領有権など意味が無いかも知れない・・・」
「そうだな・・・」
ミンスクはアンゲロスの心境変化を感じた。
「これが我々に未来を授けてくれるのはわかったが、やはり外観が問題だ」
話しながら、アンゲロスは肘を摩っている。
「外観は変異できるんだ。気にしなくていい。ケラチンシェルは子供の時は現れない。
ところで、オイラーに変化が現れていなかったか?」とミンスク。
「わからなかった・・・」
オイラーに変化は現れていなかったような気がするとアンゲロスは思った。
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