10月2日(日)

 クソが付くほど暑い休日には、俺に決まって下される命令がある。


「晩御飯の買い出し行ってきて~」


 母親という家庭内においての権力者のこの一言に、特に用事のない俺は二つ返事で了解した。俺は反抗期のない孝行息子なのだ。エコバッグと財布を持って、いざ出陣。


 朝。時刻は十時を少し過ぎたところ。雲少なめの空からカンカンと日が照っていた。夏に比べて少し傾いた日が俺の目を細めさせた。道路を行き交う車たちを眩しく光っていた。木も草も、何もかもがキラキラと乱反射していて、至るところ、至る角度から俺の肌を焦がす。気温は三十度。歩いていると身体が熱を持ち、汗が滲んだ。


「おいおい、十月だぞ……?」


 昨日といい、あまりにも暑すぎる。道中、自宅とスーパーとの途中にある小学校で何年ぶりかの運動会が開かれていて、俺は思わず足を止めた。玉入れにはしゃぎまわるちびっこたち。いかにも楽しそうで、無我夢中といった感じ。子供たちの笑顔も日に負けないくらい眩しかった。このクソ暑いなかご苦労なことだった。それを見守る教員と親も、俺のような野次馬観戦者も、みんなご苦労だった。


 ご苦労なやつがもう一人やってきた。そいつはスーパーの方向からパンパンに詰まったエコバッグを両肩に掛け、ちびっこたちを見守っている俺に声をかけてきた。


「やっほ。お元気?」


 振り向くとタツミだった。きっと俺と同じく買い物を頼まれたのだろう。そして俺と同じく孝行娘でご苦労さまだった。


「おう。お使いか? しかしカメラクルーが見当たらないな? ドレミファソラシド~」


「『はじめてのおつかい』じゃないから。そんな歳じゃないから。もちろんはじめてでもないから」


 ちゃんと読み取って突っ込んでくれるのがタツミのいいところ。


「そっちこそ、幼児ばっかり見てると通報されるよ」


 タツミはニヤッと笑って、俺にお返ししてくれた。


「甘いぜタツミ、俺が見ていたのは毛も生え揃わないようなガキじゃない。俺が求めるのは清楚で清らかな大人の女性。清楚で清らかなといえば聖職者。つまり女教師。あとついでにマダム方」


「性食者……?」


「多分字が違うぞ。女教師って言ってんだから無理矢理そっちに持っていくな」


「マンダム……?」


「マダムだって。誰がチャールズ・ブロンソン好きのホモだ。そんな男の世界なんて知りたくないわ。大脱走するぞ」


「ごめん、それはわかんない」


 今の古典ゲイ術的会話はさすがのタツミでも理解できなかったらしい。そりゃそうだ、チャールズ・ブロンソンなんて、俺たちが生まれる前に亡くなってるんだから。


「ま、とにかく俺の性的指向はストレートって話だ」


「ふぅん。こんな暑い中大変だよねぇ」


 冗談話はそこで終わって、タツミは運動場で駆け回るちびっこたちに目を向けた。


「でも楽しそう。私たちにもあんな時期があったんだよね」


 タツミは目を細めて微笑んだ。とても柔らかで温和な笑みだった。俺には今まで一度もみせたことのない顔だった。

 だが、俺はよく似た顔を見たことがあった。幼い頃の記憶が急に蘇ってきた。小さい頃母親と買い物をしたときの記憶だ。夕暮れの帰り道、買ってもらったソフトクリームを舐める俺を母親が微笑みながら見ていた。そのときの表情が、今のタツミとよく似ていた。タツミの横顔が急に大人びて見えてきた。


 小さい頃にしか味わえないものがある。これはそのうちの一つなんだろう。かつて自分にも向けられていたものを、今はそれを傍で見守る側になっていた。もう子供じゃないって自覚はうすうすあった。だけど大人になったって感覚はなかった。でも今は大人になるって意味が、頭じゃなくて感覚で理解できた、そんな気がした。


「タツミ、お前いいお母さんになれるよ」


「えっ、急になに?」


「いや、タツミを見ているとなんとなくそう思ったんだ」


 よくよく、まじまじで見ると本当にそう思う。家着の着古されたシャツに薄い綿のズボン。それに両肩の買い物で詰まったエコバッグとくれば、それはもう買い物帰りの主婦だ。どう見てもお母さん感たっぷりだ。


「ふぅん。でも、マツザキくんはまだまだお父さんになれそうにないね」


「なんでさ?」


「なにかにつけて子供っぽいから!」


 そう言ってタツミはいたずらっぽく笑い、俺の横を足早に通り抜けた。


「どこがだよ。こんな老成したジェントル他にいないぜ?」


 俺は去りゆくタツミの背に反論を投げつけた。


「それは知らなかったなぁ~! じゃ、お肉とかあるから帰るね~! またね~!」


 俺は手を振り、タツミは帰っていった。

 さて、俺は今から買い物だ。小学校の金網から離れて、俺はスーパーに向かって歩き出した。後ろからピストルの音がした。短距離走が始まったらしい。実況放送と歓声を背に、小学校を後にした。

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