9月24日(土)

 昨日とは打って変わって晴れやかないい天気だった。朝起きてカーテンを開けると、目の覚めるような青空が広がっていた。丸いちぎれ雲がまばらに散らばってアクセントになっていた。太陽は夏のほどの凶暴さと喧嘩腰と危険さは鳴りを潜め、逆に慈母のような温かさで世界を明るくしてくれていた。


 スッキリとした寝覚め、爽やかな気候、これが揃えばもう人生は申し分のないものになる。


 朝食と家族への朝の挨拶を兼ねて気分良く一階のリビングへと降りていったが、そこには誰もいなかった。一枚の書き置きがテーブルの上に残されていた。俺は手に取って読んでみた。


 お父さんとお母さんは二人っきりでデートをしてきます。ドライブデートだよん。お前は邪魔だから一人で待っててね。突然弟か妹が増えるようなことはないので安心してね。お昼はこれで適当になんか食べてください。ほんじゃ、また夜にの。 母。


 イカレた書き置きだった。俺はそれを丸めて速攻でゴミ箱へダンクシュートしてやった。


 冷蔵庫から昨晩の残りを取り出し、レンジでチンして食べた。その後身だしなみを整えると、他にすることがなくなった。家族が誰一人存在しない静かな家の中で、俺は完全に一人だった。


 家は面白いくらい静かだった。耳をすませば近所のどこかしらの声や音が聞こえてきた。それ以外に音は存在しなかった。リビングの椅子で目を閉じ、この孤独と静寂を楽しんだ。ほんの少し開けられたカーテンの隙間から滑り落ちた日が、俺の膝を温めていた。


 その日の温かさに、ふと俺は思いついた。


 そうだ、今日はバカンスの日にしよう!


 バカンスの日とは? 家にいながらさも南国でまったりとバカンスを擬似的に体験することだ。今、俺が考えた。


 まず俺は物置からビーチチェアを引っ張り出した。次にブルーシート。これは近所から見られないための覆いだ。次にクーラーボックスを持ってきた。その次にはコンビニへ行き、ジュースと氷を買ってきた。これらをクーラーボックスへと詰め込む。あとは父の部屋からサングラスと、押し入れから海パンと手頃なシャツを取り出し、靴箱からビーチサンダルを取り出し、着替えれば準備は完了。あとはそれらを二階のベランダに持っていき、ブルーシートをベランダの柵にかければ完成。


 早速、ビーチチェアに寝そべる。爽やかで熱をもった陽光が俺の全身を包み込んだ。一言で言って最高の気分だった。まるでビーチにいるような感じ。まさにバカンスだった。日陰のクーラーボックスの上に置かれたジュースを一口飲む。熱せられた肌とキンキンに冷えた飲み物の温度差が心地良い。ちなみにジュースはサイダーだ。バカンスに相応しい爽やかでキレのある味。無線イヤホンを耳につけ、音量小さめで波の音とビーチボーイズの『Kokomo』をかけてやり、目をつぶれば、俺は南の島の住人だった。


 とても気持ちのいい時間。近ごろの急激な寒冷化によって破壊された自律神経が修復されている感じがする。皮膚が熱を持ち、体中を温かい血が駆け巡っている。心がポカポカ、頭がフワフワ、とても落ち着く贅沢な時間。


 俺の意識は現実から遊離し始めていた。擬似的な波間に揺られていた意識が、そのまま天国に昇ってゆくようだった。落ち着きすぎて、肉体が全ての活動をやめてしまったのかと思うほど、俺の中の全てが沈黙しかかっていた。心臓さえ動くことを止めてしまったんじゃないか、そう思えてしまうほど、俺は今、無の境地へと差し掛かっていたのだ。ただ頭だけが、夢の中を彷徨っていることを半ばだけ理解していた。


 そのときだった。


「マツザキく~ん! いないの~?」


 下からタツミの声が聞こえた。俺は波間に揺蕩っていた意識を岸に上げ、ゆっくりと身体を起こし、ベランダから下を覗き込んだ。タツミと目が合った。


「やっぱいるじゃん! 何度もチャイム押したんだから!」


 タツミがぷりぷり怒っている。ぷりぷり怒ってる人間を上から見るのはなんとなく楽しいし、ぷりぷり怒っているタツミは上から眺めても可愛い。


「悪い悪い。ここだと聞こえないんだよ」


「そんなとこで何してんの?」


「バカンスだ」


「ばかんすぅ?」


「タツミもバカンスしていくか?」


「よくわかんないけど、面白そうだからする!」


 そんなわけで、俺は一旦一階にタツミを迎えに行った。俺は物置からキャンプチェアを引っ張り出し、タツミ連れて再びベランダへと戻った。


「なるほど、これがバカンスか……」


 タツミは半ば呆れたように、それでいて半ば感心したように複雑な微笑を浮かべた。


「そ、やってみたら意外と楽しいんだ。グラス、取ってくるから先に楽しんでて」


 俺は一階にタツミ用のグラスを取りに行った。ついでに父の部屋からもう一つサングラスを拝借した。帰ってくると、そこにはバカンスをエンジョイしているタツミの姿があった。


「たしかに、どうしてなかなかいい気分ね」


 タツミはもう立派にバカンスしていた。水着だったら完璧だったが、さすがにそう都合良くはいかないものだ。俺はお嬢様にジュースのグラスとサングラスを差し出してやった。タツミお嬢様は気取った手付きで受け取った。


「ありがとう、セバスチャン」


「誰がセバスチャンだ」


 お嬢様とセバスチャンはそれからしばらくバカンスを楽しんだ。

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