9月2日(金)初めて遅刻した理由
朝、登校中、タツミを見かけた。
もう九月なのに、まだ飽きもせず暑い中を、タツミは全速力でチャリを飛ばしていた。少しだけ短めなスカートが風になびいて、めくりあがりそうになっていた。
まだ遅刻するような時間じゃないはずだ。自慢じゃないが、俺は遅刻したことがない。時間をきっちり守るタイプ。出欠にはまだまだ時間がある。
だから俺は、タツミと違って全力疾走する理由も必要性もなかったのだが、つい、俺は全速力でチャリを漕ぎ始めてしまった。
タツミを尾けようなんて思ったわけじゃない。そんなストーカーな発想からじゃなく、なんとなくだが、俺はタツミを追い抜いてやりたくなったのだ。ひょっとしたら数日前の敗北をまだ引きずっていたのかもしれない。
俺はタツミを後ろからぶち抜いてやるべく、立ちこぎになった。男は平均的には女より体力で優る。だから俺はタツミを悠々と抜き去ってやれると思っていたのだが、それは大いなる考え違いだった。
タツミ、やつは速い……!
追いつきかけるが、坂があると離されてしまう。さすがはタツミ、ただの女子とは一味違う、と関心したのだが、よく見るとタツミのチャリには電動アシストが付いていた。どおりで坂で差が付くはずだ。
デッドヒートなチェイスはもう十分以上続いていた。ゴールまであとわずか。時間にして約五分強。しかしここからが本当の勝負だ。勾配のきついセクションは過ぎた。平坦路はテクニックが勝負。俺のアイルトン・セナ顔負けのコーナーリングとブレーキワークを見せるときだった。
ところが、タツミは途中で思わぬ方向へとハンドルを切ってしまった。そっちは学校の方向じゃない。真逆とは言わないまでも、どう考えたって遠回りだし、学校に行く気がないとしか思えないコース取りだ。
コースアウトか? リタイアか? どっちにしろ俺の勝利は確実だったが、そもそも相手は勝負しているつもりさえないだろう。タツミが一体何をしようとしているのか、どこへ行こうとしているのかが非常に気になった。独りよがりな勝負など捨てて、俺はタツミの後を追った。
タツミは堤防にかかる大きな橋のすぐ側でチャリをとめると、チャリのかごにカバンを置いたまま堤防の下の遊歩道へと急いで降りていった。俺はタツミのチャリの横に自分のチャリをとめた。よく見ればタツミのチャリは鍵がささったままだった。カバンといい、鍵といい、不用心にもほどがある。俺は鍵を抜き取り、カバンを持って、タツミの後を追って俺も降りていった。
橋桁の隅でタツミは屈んでいた。何かを抱えて立ち上がった。振り向き、俺と目が合った。その腕には小さな子猫がいた。酷くやつれ、傷つき、そしてぴくりとも動いていなかった。
「マツザキくん……」
こんなタツミの顔を見たのは初めてだった。俺は何も言えなかった。目をそらして俯くしかできなかった。
「このこね、さっきまで、ほんのさっきまで、まだ息があったんだよ」
弱々しい言葉だった。タツミまでが死んでしまうんじゃないかってくらい、そんな小さく儚げな声だった。
「そうか……」
俺はそれしか言えなかった。そんなことしか言えない自分が情けなかった。
俺たちは遊歩道のベンチ座った。タツミは子猫を抱えたままだった。子猫はどう見てもぬいぐるみにしか見えなかった。それはもはや生きていない証拠だった。
タツミは子猫の声が聞こえたと言った。俺には全く聞こえなかったが、彼女は弱々しくか細い子猫の鳴き声を聞いて、それで通学路から外れてここへ来たのだった。
「ごめんね……」
タツミは呟くように言った。その目から涙が一粒溢れると、せきを切ったように涙がとめどなく流れ出した。何に対する謝罪だったのか、一瞬考えたがそんなことはどうでもいいことだった。
「タツミ、お前って優しいよな。俺には子猫の声なんて聞こえなかった。子猫もお前みたいな優しいやつに見つけられてよかったんじゃないかな……」
慰めるつもりで言ったんじゃなかった。ほとんど正直なただの感想だった。それ以外に言葉が見つからなかった。ここで俺は気がついた。俺もまた子猫の死にショックを受けていたのだと。気がつくと俺も悲しくなってきた。でも泣かなかった。涙はでなかった。
俺はタツミが泣き止むまで、彼女の隣から離れなかった。そうすることがタツミのためになると思った。ただの俺のエゴかもしれないが、本気でそう信じた。
今日、初めて俺は学校を遅刻した。
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