8月24日(水)タツミさんと夏期講習
現在時刻午前8時58分。夏期講習開始2分前、教室はほどほどに賑わっていた。静かではないがうるさくはないといった具合に、中にはクラスメイトも何人かいたが、話したことのあるやつはいなかった。
夏期講習開始1分前になって先生が入ってきた。それから少し間をおいて、タツミが息せき切って入ってきた。
「遅れました!」
タツミはよっぽど急いだらしい、額にびっしょりと汗が浮かんでいた。
こいついっつも汗まみれだな、ふと、俺はそう思った。
「いえ、ぎりぎり間に合いましたよ。すぐ授業を始めますから、早く席につきなさい」
タツミは教室の中央付近の席についた。夏期講習に決まった席はない。おそらく、隣の女子と仲がいいのだろう、と思った直後、早速隣と軽い挨拶を交わしていた。タツミは席につくと、カバンからハンドタオルを取り出してせっせと汗を拭っていた。俺はそれを教室の後ろの席からぼーっと眺めていた。
今日の講習は英語だ。間に二回の小休憩を挟んで三時間ほどで今日の夏期講習は終了した。時計を見ると12時半を過ぎていた。
先生が教室を出ていき、生徒たちも続いて出ていった。タツミも友人たち数人と一緒に談笑をしながら教室を後にした。教室には俺一人が残った。
ポツンと一人寂しい教室が、俺はわりと好きだ。
普段生徒であふれる場所が、人気を失うと途端に異質なものに見えてくる。この異質な空気がなんとなく良い。エアコンを止め、窓をいっぱいに開けると、夏のまとわりつくような空気が教室内になだれ込んできた。風はあったがセミの声もなく静かな午後だった。夏らしい太陽がちぎれ雲に拡散されて窓の外を白く輝いている。微かにたなびくカーテンが教室の角で影を揺らめかせた。
俺は窓辺に立って外を見下ろした。小さな丘の上にあるこの場所から見る景色はとても気持ちがいい。12時ということもあって、校庭には部活動の生徒の姿もなかった。ここから見える、校内の景色に、人はほとんど存在しなかった。まるで俺だけがこの世界に存在しているような錯覚すら覚えた。少し遠くに目を向ければ、それがただの勘違いであることはわかりきっているのに。
と、そのとき、
「だーれだ?」
背後から女の声とともに何者かに飛びかかられた。何者かの手が俺の目を覆い、もう片方の手が俺の首に巻き付き、身体全体が俺の背中に押し付けられた。
俺は驚いた。窓際で飛びかかられたのもそうだが、クッソ暑い中まとわりつく身体がわりと気持ち良かったから。
やわらかくて、汗の中にほのかでかすかに立ち込める甘い香りが鼻孔をくすぐる。ああ、かくも良いものか、女の子というやつは……!
こいつの正体はとっくにわかっている。この声は昨日聞いたばかりだ。
「タツミ」
「せいか~い」
タツミが俺から離れた。暑さから少し解放されたはずなのに、名残惜しいのはどうしてだろう。
俺は振り返ると、にっこり顔のタツミがそこにいた。
「友達と一緒に帰らなかったのか?」
「帰るわけないじゃん」
「なんで?」
「だって、今日はマツザキくんに会いにきたんだから」
「え……?」
胸がドキッとした。女の子から「会いにきた」と言われれば、思春期男子高校生なら誰だってこうなるだろう。
が、別の意味でもドキリとさせられた。なぜなら俺は夏期講習に行くことを誰にも言っていないのだ。なぜタツミがこのことを知っているのか……?
「それはね、今朝マツザキくんを見かけたからだよ。ほら、ドラッグストアの前でチャリ漕いでたでしょ? 私、ちょうど犬の散歩してたんだ。制服着てチャリ漕いでるんだから、夏期講習しかないって思って、私もすぐ家に帰ってこっち来たってわけ」
「え……?」しか言ってないのに、タツミは
「タツミ、お前、やっぱり人の心が読めるんだろ?」
「ふふっ、まぁね」
タツミは怪しく笑った。冗談とも本気ともつかない微妙な笑顔だ。
それはさておき、
「で、俺に何の用?」
「用? 用なんかないよ? 用がなかったら会いにきちゃダメ?」
「いや、別にそんなことはないけど……じゃあ、ただ単に俺に会いたかったってだけ?」
「そうだよ? ダメ?」
タツミが上目遣いで俺を見る。美少女の上目遣い、それは凄まじい破壊力だった。こうかはばつぐんだ! 目から何らかの光線が出てるんじゃないかってくらい魅力的な目線に、俺は思わず目を背けた。顔が赤いのが自分でもわかった。
「ダメってわけじゃないけど……つか、よくそんなこと恥ずかしげもなく言えるね」
「えっへへー。マツザキくん、こういうの好きかと思って」
「こういうのってどういうのだよ?」
「こういうのは、こういうの! 津軽海峡・冬景色みたいな?」
「わけわかんねーよ。あと、季節も真反対だし」
本当に、タツミはわけのわからんやつだ。でも、たしかにタツミの言う通り、俺はこういうのが好きなのかもしれない。なんとなく、そんな気がした。
「じゃ、私そろそろ行くね!」
唐突に、踵を返すタツミ。
「え、俺に会いにきたんじゃ……?」
「うん、だから会ったじゃん? 下にキャンコちゃんたち待たせてるから、じゃあねー」
「お、おう、またなぁ……」
振り返ることなく教室を出ていくタツミに、俺は唖然呆然としつつ手を振った。そのまま教室の後ろにある鏡を見ると、なんとも形容しがたい微妙な顔をした男の姿がそこに映っていた。
「あいつ、本当にわけわかんねーよ」
でも、タツミは面白いやつだ。つくづくそう思った。
窓から入ってきたぬるい風が、俺の頬を優しく叩いた。
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