《リンカーネイション》11 She(2)


大地を踏みしめる。視界の端を景色が流れていく。

自由の身になって吸った空気も目に映る空も、期待したほどは美しくも清らかにも感じられなかった。

先に行かせたテームとステラの様子を気遣いながら、リラは何度も後ろを振り返る。

(あと一時間、いや、三十分あれば……)

逸る鼓動を鎮めるように、とにかく脳を動かす。

状況はあまりよくない。カミルが渡してくれた機械を使って発信器を壊したとはいえ、気付いたのなら向こうはすぐに追ってくるだろう。《リンカーネイション》の施設から麓の町まではほとんど一本道だ。人の多い場所まで下りればどうにか紛れ込めるかもしれないが、道中で追いつかれてしまってはどこにも隠れられない。つまり、麓までの道を無事通り抜けられるかどうかにこの逃避行の命運がかかっていると言ってもよかった。

そうは言っても、整備されていない道は足元が悪い。おまけに、テームはステラを抱えている。

彼女の身体に記憶を戻した。それ自体は上手くいったはずなのだ。成功を断言できないのは、ステラがまだ目覚めていないからである。所謂再起動中の状態が終わるにはまだ少しかかりそうだ。

何もかもが不安定な三人の逃避は、それでも何もかもが上手くいっている。

それがリラは怖い。

彼らを縛る鎖はこんなにあっけなく外れるものだろうか。

運命はこんなに簡単に変わるものだろうか。

自由はこんなに容易く掴めるものだろうか。

発信器から解放されたはずの手首はどこかまだ重さを纏ってやまない気がした。

(ねえ、カミル。私は本当に……)

「――あ」

遂に視界の端に現れた人工物。光を鈍く反射する銀の鎧。追手だ。

(……おかしい)

だが緊迫した状況の中でリラはますます嫌な予感に取りつかれていた。

彼らに差し向けられた追手は、革命の際に死亡したデストジュレーム兵を生者のように見せかけている中々悪趣味な軍団だ。言ってしまえば見掛け倒しで、大軍を装って相手の注意を逸らすとか、そういう用途のためのものである。実際、アナン達を襲撃した際にキケの足止めに使った戦力だ。間違っても人を捕えたり殺したりするために使うような一団ではない。まして、それを知っている幹部の追手としてなんて。

(……とにかく、テームとステラだけは逃がさなければ)

ステラを殺す気はないだろうということはわかっていた。ルドルフの計画の実行を支えているのはオリヴェルとステラだ。《リンカーネイション》の脳の双璧を担っているとも言うべきこの少女を、彼らは死なせない。いや、死なせるわけにはいかないのだ。むしろできるだけステラの身体に傷をつけずに取り返そうとするだろう。それならば、そのステラを抱きかかえているテームにも下手なことはできまい。

ならば。

「テーム!」

決断するしかない。この不透明な状況の中で。

「……先に行ってちょうだい」

「え、でも……!」

予想通り、テームは困惑したような、それでいて切迫したような声を上げた。

「大丈夫、大丈夫よ。片づけたらすぐに追いつくから」

「……」

リラの気持ちが伝わったのか、彼の足音は少しずつ離れていった。

(大丈夫、大丈夫)

最もよい結末は全員が生き残ること。最も悪い結末は全員が死ぬこと。

その間の結末は、できれば考えないでおきたい。

(この一団だけならなんとかできる。……問題は、彼らを操る人間の方ね)

なんだか引っかかるけれど、今は雑兵とそれを束ねる誰かがリラ達を追っていると信じるしかない。とにかく、彼女はおもむろにナイフを取り出した。軽やかに、踊るように、目の前の敵に向かっていく。一見大軍に見える雑兵も、仕組みを知っている側からすればなんてことはない。

弾みをつけて飛び上がる。相手の動きなどリラにとっては鈍いスローモーションとさして変わらない。一瞬だけ爪先で敵の腕に立つ。冷たい刃を、撫でるかのように鎧の隙間に差し込む。

(ここね)

軽く腕を引く。ぷちりぷちりという湿気た音を立てて、何かが切れた。彼らに張り巡らされたコードだ。耳障りな金属音。不格好にその兵は倒れた。抵抗も藻掻きも断末魔もないその終わりは、彼らが生き物と呼べるものではないことを思い出させる。目の前の屍が本当の意味で屍に戻ったのを確認して、リラは次なる敵に向き直った。

(……それで、この一団の統率者は?)

たった数本のコードが切れれば無力化する敵は、彼女にとってもはや敵と呼んでいいのかすらわからない。単純作業とでも言うべきその最中、彼女の脳はもう思考に切り替えられていた。

もし統率者がカミルなら? 間違いなく彼はリラを殺せない。

もし統率者がナタリーなら? 彼女もまた、躊躇するだろう。

もし統率者がイノなら? いや、彼女に任せるなら兵ではなく竜をつけるはずだ。

それならば、もし――。

(オリヴェルだったら?)

その名を心に浮かべるだけで、背筋が冷えるような気がした。大丈夫だと、そんなことはないと、そもそも統率者なんていないのかもしれないと自分に言い聞かせるしかない。

最後の一体のコードを切る。

錆びついた音も止み、辺りには静寂が戻る。ふと振り返れば、先に行かせたテームとの距離は随分縮まっていた。

こちらはもう大丈夫だと声をかけようとしたその瞬間。

突然何かがリラの視界に灰色の影を落とした。

(……!)

反射的に上を見る。冷たい影を落とす飛行物。そこから流れる声は、

「やあやあ、逃避行は順調かね?」

「……オリヴェル」

運命は最も考えたくなかった選択肢を選ぶことにしてしまったらしい。

反射的にナイフを握り直す。

「なるほど、君はある程度上手くやった。……だが、《リンカーネイション》の神は総帥だ。つまり、君は『箱庭から逃げ出せたと思い込んでいた少女の役』、と言ったところだね」

彼の飾り立てた言葉を聞き流す。

(恐らく、彼はまず私を狙う。そして『邪魔者』がいなくなったところでステラを捕えて、テームを……)

そこまで考えて、リラはふとあることに気付いた。

上空を飛ぶそれは、戦闘用ではない。

武器など積めない二人乗りの偵察機だ。

(それじゃあ……オリヴェルは何を……?)

彼が弱いとは言わないが、彼の武器はその脳だ。三人を捕えたり殺したりするだけの力があるとは必ずしも言い切れない。

リラの困惑を、予想通りだとでも言うように彼は満足げに笑った。そのままゆっくりと機体を旋回させる。

「僕は自分の手は汚さない主義なものでね。……そういうわけだから、リラ。何か聞こえるだろう?」

「え……?」

自分を混乱させるために妙なことを言っているのだろうと思おうとしたその時。


カチリ。


リラの耳は確かに機械音を聞いた。時を刻むような機械音を。

――それが何を意味するか。幸か不幸か、彼女は知っていた。

これは恐らく、

「……爆弾」

カチリ。

もう一度音が響く。その通りだ、とでも言うように。

恐らく時限爆弾の類だろう。手を汚さない、という言葉の通り、オリヴェルはそれにとどめを刺させるつもりらしい。

(……それなら、その爆弾はどこに?)

簡単な作りのものなら解除の方法はわかる。思いの外リラは冷静だった。

「随分と察しがいいじゃないか。流石、総帥が見込んだだけのことはあるようだね」

オリヴェルの声色は変わらない。彼の言葉を借りるなら、『一人だけ箱庭の外にいる』みたいだ。背中を嫌な汗がつたう。

それでも、絶対に流されてはいけない。

「言いなさい。……爆弾の場所は?」

翡翠色の瞳で上空を睨む。穏やかに、それでも強い言葉で。

「ほう、僕に命令するとはいい度胸だな。まあいい、教えてやろう」

その声を聞いて、どういうわけかリラはぶわりと鳥肌が立った。オリヴェルが口角を上げて白い歯を見せるところが想像できたからだ。

カチリ。

この音は爆弾のそれなのか、或いは自身の鼓動なのか。


「自分の手首に耳を当てたまえ」


「え……?」

思いもよらない言葉だった。

逸る。鼓動が逸る。

右手首を上げる。耳につける。何かに操られたかのように。


カチリ。


音がした。

確かにそこから音がした。

音がした。

命を奪うための音がした。


「君達は中々賢かったね。確かに、発信器を壊せば居場所はわからない。……だが、それは幹部以外に限った話だ。《リンカーネイション》の中心部に触れた人間をそうみすみすと逃すわけがないだろう」

彼の言葉が耳を滑っていく。

自分の内部に爆弾がある。

それはつまり。

(私は私の内部から、……)

「覚えているかね、君が幹部に昇格した時検査やら何やらを数日かけて行ったことを。あの時に手術と称して入れたのだよ。……おっと、少々喋りすぎたかな。まあいいか、どうせ死ぬのだからね」

死。

首元に突き付けられた銃口のように。

その言葉が、リラを抉る。

私の命は、あと何秒?


カチリ。


その短い一瞬で、彼女は一つの決意をしていた。今仮に手首を撃ち抜いて発信器を壊したとして、そう低くない確率で彼女は助からないだろう。それに、他の部位にも何か仕掛けられている可能性がある。

――それなら、決めよう。人生の中で最もちっぽけな、でも最も大切な決断をしよう。

マフラーを解く。風にさらされた首がくすぐったい。

そのまま思い切り投げる。

テームに向かって。

「姉さ……」

「テーム!」

彼がマフラーを手にしたのを確認して、リラは息の限り叫んだ。

「……逃げて! 私を置いて逃げて!」

手首に仕込まれたそれがどれほどの威力のものかはわからない。それでも、テームやステラを巻き込んでしまう可能性だってある。

「で、でも!」

泣きそうな声。顔を見なくたってわかる。何度も何度も聞いてきた声。そして、その度に抱きしめてやっていた、その声。今は手を伸ばせないけど。

「……生きなさい」

「……だ、だって……」

息を吸う。きっと自分の声も震えているのだろう。

「……テーム。守りなさい。その腕の中にいる人を、守りなさい。死と引き換えに大切な人を守る役目は姉さんがやってあげる。だから、」

振り返る。目が合う。リラと同じ緑の瞳。沢山光を含んだ若葉色の瞳。

「生きて。守るために」

テームが首を縦に動かしてマフラーを巻いたのが確かに見えた。

大丈夫、大丈夫。

(だって、私の弟だもの)

ステラをしっかり抱きかかえたまま、テームはぱっと後ろを向いた。そのまましっかりと大地を踏みしめ走っていく。

遠ざかっていく背中は思っていたよりもずっと大きい。それは誰かを火の粉から守るために、誰かを背負うために、もう十分な大きさで。

「……マフラーしか残してあげられなくてごめんね」

そんな言葉も、もうテームの耳には届いていないだろう。

「じゃあね、私の可愛い弟」

次に会うのは、もっとずっと先でいい。

だから、今は。

カチリ。

前に向き直る。いつの間にかオリヴェルを乗せた機体は地上に降りてきていた。

せめて、その機体に傷の一つでもつけたい。例えどんなに小さな傷だとしても。

――そのつもりだったのに。

「……ああ、そうだ。僕も人の子だからね、手向けの演出くらいはしてやろう」

顔を見せたオリヴェルはまだ手札があるとでも言わんばかりに目を細めた。リラから目を逸らすと、彼は恐ろしいほど冷たい顔をして見せる。そのままオリヴェルは機体の中へ手を伸ばした。何かを殴った鈍い音。掴みだして目隠しを解いて突き飛ばす。よろめきながら立ち上がった人を、リラは知っている。いや、知っているどころではない。だって、彼は。

「カ、カミル……?」

何のために彼を連れてきたのか。それがわかってしまったから、寒気がする。オリヴェルの底なしの非情さに。

何かを言おうと口を開いたカミルの声を奪うように、半笑いのオリヴェルの声が被さってくる。

「少々抵抗する素振りを見せたからね、多少強引ではあるが連れてきたとも。リラ、君はもう少し共犯者を選びたまえよ。この男は少々優しすぎる。つまり、馬鹿ってことだ」

「や、めて……何も言わないで……」

リラは震えた声でそう言うことしかできなかった。脳が揺さぶられる。自分だけが死ぬ覚悟はとうにできていた。だというのに、今になってやっと気付く。

(何もかもオリヴェルや総帥に知れ渡っているなら、カミルへの処罰は……)

「ああ、そうだ。あと二回カウントが進めば起爆するのでね。それじゃあ、二人で最期の時を楽しみたまえよ」

頭の上で回る彼の声なんて、今はどうだってよかった。

カミルと目が合う。

「……リ、ラ」

「……だめ。来ちゃだめ」

足を踏み出す彼に思わず叫んでいた。

「お願い、……私、あなたを殺したくないの」

その言葉は我儘になるのだろうか。生きてほしい、とは言えなかった。彼から向けられたその願いを、今まさに裏切ろうとしている身には。

もう一度、目が合う。日が沈む寸前の空のように美しい紫。その色が記憶を呼び起こして、目まぐるしい速度で流れていく。俗に言う走馬灯というものだろうか。

思い出す。最低で平坦で空っぽで、それでも微かな光と共に在った十九年分の人生を。

ほとんど思い出せない本当の家族のこと。

幼い弟を守るのに必死だった頃。

《リンカーネイション》に入った時。

あの頃の皆が記憶の底で振り向く。

今よりもずっと泣き虫だったテーム。

今と何も変わらないイノとステラ。

今よりもずっと鋭い目をしていたナタリー。

例えどこか欠けた子供達でも。例えこんな結末で終わるとしても。

それでも。

(……幸せじゃなかった、って言ったら嘘になるかな)

偽物の関係でも、総帥の身勝手な家族ごっこだったとしても。

皆が好きだった。それは本当、絶対に。

記憶が薄らいでいく。手を伸ばすほど遠ざかっていく。

ごめんね、テーム。大人になったあなたを見てみたかったな。

ごめんね、イノ。私が消えたこと、あなたはどうやって理解するのでしょう。

ごめんね、ステラ。眠っている間に全部全部終わらせてしまうこと。

ごめんね、ナタリー。あなたにはまだ大きな隠し事をしたまま。

崩れていく。崩れていく思い出の向こうで、紫の瞳と目が合う。

手を伸ばす。言いたいことは山ほどあるのに。

ごめんね、カミル。

あなたの望みを叶えられなくて。生きられなくて。

瞬いても瞬いても、あなたがいる。記憶の中のあなたと、目の前のあなたが混ざっていく。

特別な人だった。

初めて会った頃のあなたは、特別だった。

教育も躾も愛も知らない子供達の中で、作法も読み書きもわかるあなたは異質だった。

びっくりするほど美しくて、それでいて空っぽだった。そう見えた。

あなたは異質だった。つまり、特別だった。

でも。

ねえ、カミル。

本当は少し嬉しかったの。あなたが泣いているのを初めて見た時。家族に会いたいって、声を殺して泣いていたあなたを見た時。皆と同じで何も変わらない普通の子供だって思えたから。……酷いね、私って。

きっとそれからだった、特別さの理由に異質さがなくなっていったのは。

私にだけ教えてくれる話。

さりげなく守ってくれること。

照れると目を逸らすところ。

髪を伸ばす理由を聞いたら、「昔髪を褒めてくれた人がいるから」って返ってきた時。大丈夫、忘れてなんかいない。そうやってあなたを褒めたのは私だってこと。

あなたは特別だった。

綺麗で不器用で無口で無欲なあなたは。

あなたは特別だった。

あなたがあなただから、あなたは特別だった。

困った顔も、怒った顔も、泣いた顔も、驚いた顔も、笑った顔も。

記憶の中にいるあなたは、全部私の宝物。


カチリ。


あと一回。あと一回その音が鳴ったら、それは有が無になる合図。きっと、傍から見れば瞬きほどの短い時間。

手を伸ばすあなたがスローモーションのように映る。

(私がいなくなったら、あなたはどうやって笑うのかしら)

せめて、あなたの前では綺麗なところだけ見せていたかったけれど、どうやらその望みは叶わないらしい。それでも、最期くらいは身を焦がすような恨みも腸を裂くような悲しみからも逃れて、綺麗な気持ちで満たされていたいから。だから、オリヴェルのことを憎むのはやめておいた。きっとその穏やかな感情は、あの男に対する一種の復讐になるはずだから。

マフラーはテームにあげてしまったし、あなたに残せるものは何もないけど。

それならばせめて、言葉を。

暗い世界で一筋の光となる言葉を。

愛の言葉を。

愛は鎖になるこの場所で。

一生分の抵抗を愛に乗せて。

一番美しい言葉で幕を閉じよう。

一番美しいあなたの目を見たまま。


口を開く。


あいしてる。











カチリ。






No.60221346【リラ】

入・新暦1247年6月4日。

旧237番地区。■■■■孤児院より譲渡。テームとの血縁関係あり。


1258年5月18日死亡。

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