第11話
レトロな煉瓦造りの高師浜駅を降りると、かすかに潮の香りがした。
住宅街の中にある駄菓子屋を通り過ぎた先にある階段を上がる。そこからコース上に架かる橋を渡って対岸へ向かう。
昔このあたりは「大工村」として栄えていたらしく、京都御所の造営や修善に関わる腕利きの大工が多数住んでいたそうだ。漕艇場のパンフレットでその文章を読んでから、駅から漕艇場に歩く時はそのことを思い出すようになった。戦後には臨海工業地帯として発展し、今は近代化された工場が所狭しと並んでいた。今渡っている橋も複数車線の道路になっていて、各工場へ物資を運んでいるであろうトラックが多数走っていた。
コース沿いにある浜寺公園には松林になっていて、夕方になると海に沈んでいく橙と融合する。夕日が沈みきった後は、工場夜景に表情を変える。俺は自分がボートをやっていて、ここに漕艇場があるっていう贔屓目を除いても、自然と人口的な美しさを兼ね備えたこの土地が好きだった。
ふと目を挙げると、少し離れた海上に浮かぶ工場から白い煙が立ち上っている。
狼煙だ。なんて想像してみるのは少し短絡的だろうか。でも大一番のレースを控えている俺は、ひとり頭の中で法螺貝の音を鳴らしたりする。実際に耳に入ってくるのは、立体的に交差する車線から聞こえるタイヤの音と排気音だった。
コース沿いに北上すると浜寺漕艇場が見えてくる。
すでにコース上にはレーンを区切るブイが配されているし、ゴール付近には白い天幕を張ったテントがいくつも並んでいた。
「レースがあるんだから、杉本はギリギリに来ていい」と翔太さんにも言われていたけど、それでも後ろめたい気がして早めに来てしまった。昨日まで練習で追い込んだ。当日の朝練習するクルーもあるけれど、俺たちは本番の一発勝負にかけるために朝の練習はしないことにした。艇のセッティングを微調整するリギングも、レース前のアップを少し早めに行って万が一違和感があれば実施することにしていた。
俺にギリギリでいいと言った翔太さん本人は、俺よりも早くレース会場に赴いてOBさんたちに日頃の支援の感謝の言葉を述べたり、部員の親御さんとにこやかに会話していた。
俺に気がつくと、いつもと変わらず声をかけてくれる。驚くほどいつも変わらない。レースを意識しまくって、ガッチガチの俺とは対照的だ。
「おー、杉本おはよう。よく寝れたか?」
「いやー、それが」
俺は目を擦りながら口籠った。結局昨日は良く眠れなかった。艇庫よりも下宿のアパート方が浜寺漕艇場には近かったので、昨日は久しぶりに下宿に帰って夜を過ごした。せっかく大学の近くにアパートを借りたのに、いざボート部に入ってみるとほとんどが艇庫での共同生活になった。たまには下宿で眠らないと元が取れないし、一人の方がリラックスできると思った。でも実際に布団の中に入ってもなかなk眠ることができなかった。体はくたくたでも、神経が昂ってどうにも寝付けない。いつもは岡本のいびきや井上の支離滅裂な寝言が響く中でもすぐに寝付けるのに。静かだからって寝れるもんでもないんだな。そのうち最初はざっくり応援の言葉として捉えていた瞬の名言めいたメッセージの意味を考えたりしていたら、ほとんど眠れなかった。
「まあ、寝たからどうなるってもんでもねえさ。気にすんな」
翔太さんはそう言うとまた別のOBさんに話しかけられて、丁寧に対応する。
翔太さんに感心していると、視界の端を何かが光るように通りすぎた。光につられてコース上に目をやると、一目でそれが今日の対戦相手だとわかった。
六甲大学の剛田さん友永さんの乗るその艇は、凪いだ水面を滑って短時間で遠のいていった。荒々しさは感じなかったが、その静かさがかえって獲物に忍び寄る肉食獣を連想して俺は萎縮した。
「あれ、ですよね。今日並べるの」
なんとなく人差し指で差す気になれず、俺は指を五本丁寧に揃えて水上を指し示した。
「ああ、相変わらず、スイスイ進むよな」
他人事のようにいう翔太さんに対して、無責任だなという思いと、頼もしいという思いが同時に浮かんだ。
「そうだ、杉本。あいつらとしゃべっとくか?」
「え、なんでですか?」
「なんでって、そりゃ俺の自慢の後輩を見せびらかすんだよ」
この人はボケとかじゃなく、そういう恥ずかしいことを言う。恥ずかしいけど嬉しい。
そろそろあいつらも上がってくるだろうという翔太さんの言葉の通り、六甲大のペアは艇を陸に上げた。さっき俺が見たのはクールダウンのUTだったらしい。それであの速さってやっぱり尋常じゃないな。
ゴール付近まで歩いていくと、何組かのクルーがホースで艇に水を浴びせていた。ここのコースは海と繋がっている。普通の川の水よりも塩気を含んでいるので、艇の金属部分は特に丁寧にメンテが必要だった。どのクルーも慣れた手つきで、リガーを中心に水を吹き付ける。クルーの半分くらいのメンバーで艇を拭いて、残りのメンバーで船台のオールを取りに向かっていた。コーズ沿いには両校のグッズである帽子を被った人がいる。俺は北に向かって一直線に伸びるコースをみる。ここで今日レースをするのだ。改めて直線で見ると気が遠くなる距離だな。そんなことを考えていると、翔太さんを見失った。辺りをキョロキョロしていると、
「杉本くんじゃな。今日はよろしゅう」
と背後からいきなり声を掛けられ、驚いた俺は肩を震わせた。野太い声の主は、太い指をぬっと突き出していた。男性の後ろで翔太さんが笑っているのが見えて、ようやくそれが今日の対戦相手だと気がついた。差し出された手。握手を求められている。手汗をジャージの尻で拭って差し出すと、強く握り返された。肩がデカい。この人が剛田さんだ。翔太さんとレースの作戦を話し合う時に何度も映像で見ていたのでわかった。ただ想像以上に大きい。水上でコントロールされているときは感じなかった暴力性を、目の前にすると感じる。
「よろしゅう」
その声に拍子抜けする。鍛え上げられた肉体に反して表情や物腰がびっくりするくらい柔らかい。剛田さんは目を線のようにして笑っていた。
「ごめんね、こいつの挨拶いつもこうだから」
そう言って後ろで笑っている人が友永さんだろう。長い髪の毛を後ろで縛っている。郷田さんに比べるとかなり細く見えるが、剛田さんとのペアを真っ直ぐに進める力と技を備えていることは言うまでもない。混乱しながら剛田さんと握手する俺を見て翔太さんと友永さんは笑っている。剛田さんは至って真面目だが、その剛田さんをふたりとも指差してケラケラと愉快そうに笑っている。俺は握ったことがないくらいゴツい手と握手しながら、笑っていいのか判断できず戸惑っていた。笑われている剛田さんも嫌がっている感じはしなくて、満足げに頷くと俺に丁寧に一礼して手を離した。そして翔太さんたちの方を振り向くと豪快に笑った。三人の姿はこれから戦うライバルというよりも、昔からの友達のように見えた。弛緩した空気が辺りを包んでいる。戦いの前なのに穏やかだ。友永さんは頭の上で手を組んで伸びをした。そして組んでいた手を離すとそのまま円を描いて自分の左右それぞれの腿をパンと叩いた。
「翔太、杉本くん、今日はいいレースにしようね」
ふいに宣言した友永さんの言葉には力があった。そうか、この人たちはただ穏やかなだけじゃない。闘志は穏やかに、それでもあくまで燃えている。友永さんから発せられたたった一言で、俺にもそのことがわかった。
「ああ、そうだな」
レース会場にアナウンスが流れる。ふと周りを見ると、白いポロシャツを着た人が多数見える。この大会を支える両校のスタッフの人たちだ。多くの人の力が合わさってこの対校戦が運営されている。先ほどのアナウンスは両校の選手を本部前に集合するよう指示するものだった。開会式が始まるのだ。そして開会式が終わったら一時間後には、俺たちのレースが始まる。
俺はふと、翔太さんたち四回生にとっては今日が最後の六甲戦なんだなと思った。
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