第8話
「じゃあ、とりあえず乾杯な」
翔太さんとジョッキを重ねた俺は、自分が酒に強くないことを知っていた。先日二十歳になったばかりの俺はこのジョッキが空になった頃ちゃんと意識があるか怪しい。それでも翔太さんとのサシ飲みの緊張を和らげるために慣れないビールを口に運んだ。艇庫から駅までの道にあるこの店はボート部の御用達の店だ。店内にはレトロな曲が流れている。昼はランチをやっていて特に唐揚げ定食が絶品だ。おかわり自由ということもあって、昼間はよく通っているのだが夜来るのは初めてだった。
「本当はアルコールなんて、試合が近いのに飲んじゃダメなんだけどな。まあ一杯くらいってことで。みんなには内緒にしといてくれ」
向かいでニコニコ少年のように笑う翔太さんを見てふと瞬の話を思い出した。摂理に反した何か。俺はビールを飲み始めて早くも顔が熱くなってきたのを感じる。
「今日はなんで、俺を誘ってくれたんですか」
「そりゃ、同じクルーで勝敗を共にするんだし、ありきたりな方法だけど絆を深めようと思ってさ。それに今日の練習でお前に気を使わせてたことを反省してるのもあるな」
そういえば翔太さんとクルーを組むことに対して、疑問の声は上がったのだろうか。当然このクルー編成を疑問に思う気持ちはあるだろう。エイトのメンバーだって大黒柱の翔太さんが抜けて不安な気持ちもあるに違いない。でもそんな声は一切自分の耳には届いていない。練習はとにかくきついけど、それだけ練習だけに集中してこれたってことだろう。エイトのメンバーも俺に気を使わせないようにしてくれているに違いない。
マネージャーは引き続き部を運営し続け、朝晩の食事を作ってくれて、俺たちと同じ未明に起きてビデオを撮影してくれる。これだけ俺を気遣ってくれる部のメンバーに対して俺が心を許せないのは、多分自分が弱いからだろう。自分を許すことができていない。自信のなさから他人も信用できない。そして、そんな理解の仕方すらも言い訳かもしれないが。とにかくもっと絶対的な実力をつければ、自分に自信が持てて周りにも心を許せるはずなのだ。早く力がほしい。
「それにしても、お前の今日の後半の漕ぎにはびっくりした。めっちゃいい感じだったよ」
今もそうやって褒めてくれる翔太さんの声色の中に、”杉本にしては”なんてニュアンスが隠れていないか注意ぶかく探っている。呟くようにありがとうございます。といえただけでも今日はまだマシだった。いつまでこんな風なんだろうか。自分の理想と今の自分がしっくりこなくて、勝手に不貞腐れている。もう終わりにしたい。翔太さんの話を聞きながら、次第に警戒心を解こうとしている自分を発見した。いや、そんなの甘えだ。何も持たない自分が人に気を許していいはずがない。それにまたあの日の二の舞になるだけだぞ。何かを変えようとする自分を、抑止する自分がいた。考えがまとまらない。何について考えてるんだっけ。頭の中で鐘がなる。ラスト一周を告げる鐘だ。十六歳の俺は真っ白な頭で、無意識に足を交互に前に出している。過呼吸ぎみに「ひゅっひゅっ」と無様な息が漏れている。
「おーい、杉本、大丈夫か」
声をかけられた向かいの茶髪の男性が誰か分からなくて俺は混乱した。そうだ、今は翔太さんと居酒屋で、俺は二十歳だ。十六歳ではない。
「なんか顔色悪いけど大丈夫か。酒しんどいか」
俺は慌てて意識を集中してなんとか返事をする。
「あ、ぜんぜん大丈夫です」
「おう、そうか。急にどこ見てるかわからない目しだしてびっくりしたぞ。無理して飲まなくてもいいからな」
笑いながら翔太さんは、店員を呼び止めて俺のための水を頼んでくれた。冷えた唐揚げを箸で口に運びながら。
「なあ、杉本。勝ってもいいんだぞ」と翔太さんはおもむろに言った。
その言葉の意図を汲めずに、ぽかんとしている俺を見て続ける。
「だから、”勝ってもいいんだぞ” って言ったんだよ。何も気にすることはない、思い切り暴れて、力を出し切って、ただ勝っちゃえばいいんだよ」
追加のビールとジョッキに入った水が運ばれてきて、翔太さんは店員に丁寧に会釈した。
「なんか俺の勝手な思い込みだろうけどよ、お前は俺に似てる気がするんだ」
この人は一体何を言うのだ、部を引っ張る主将と俺。どこか近いと言うのか。翔太さんも酔っているのか、普段見たことのないほど饒舌だった。
「自分で言うのもあれだけどさ、俺、入部した時から一番ボート速くてさ。最初は重宝されてたんだけど、勝ちたい気持ち出し始めると、なーんか、いろんな人に嫉妬されてさ。あることないこと影で言われてるのが、噂で流れてきたりしたんだよ。それで周りに対して壁を作って、寄せ付けないようにしていた時期があってな。その時は全員が敵に見えたよ」
翔太さんはジョッキを傾けて、一気に3分の1ほど飲み干した。
「お前にも俺が作ってたのと同じ壁を感じる時があるんだよ。でもその壁を感じれば感じるほど、自分と重ねて親近感も強くなるんだ。そんでその壁さえ壊せれば、そのブレーキさえなければお前はもっともっと速くなる気がするんだよ」
そこまで話して、散らかったテーブルの上を見つめて少し魔を開けてつづける。
「なあ、杉本。速さだけを追い求める奴がいてもいいと思わないか。そういうスタイルでボートと向き合うって俺はありだと思うんだ。そういう奴はどうしてもチームを無視してるとか、自分勝手とかそういう声が上がりやすい。でもな、今のチームなら大丈夫だ。杉本が速さを追い求めて、覚醒しても大丈夫だ。チームはお前の実力を受け止める度量があると思うぞ」
いつものクールな翔太さんはどこにもいなかった。それにパッとしない選手であるはずの俺が褒め称えられている。
「いや、俺まだエルゴで6分40秒も切ってないですよ。そんな俺に実力とか、そんなのないです。それに同期では岡本とか井上には随分と差をつけられてますし」
「まあまあ、そう言うな。お前は自分で気がついてないだけだよ。お世辞でもなんでもなく、お前はいつか俺を超えるぞ」
そう言って残りのビールを一気に飲み干している。俺は笑おうかと思ったが、その俺を翔太さんは真剣な目で見つめている。
そこにはさっきまでの酔っ払いではなく、一人のボート選手が座っていた。
「六甲大のペアは強敵だぞ。また次の練習から、よろしく頼むな」
清々しいほど深々と頭を下げる翔太さんを見て、体がアルコールとは別の熱を帯び始めていた。俺は声が出せなくて、会釈だけで応えた。
「明日はオフだけど、明後日からの練習ではレートも上げて、さらにキツくなるからな」
頑張ろう。頑張りたい。
「相手は何しろ、剛田と友永だからな」翔太さんはなんでもない風にボソッと言った。
「え、今なんて言いました?」
その名前なら俺も知っていた。六甲大学の剛田さんと友永さん。俺の聞き間違いでなければ、昨年のインカレで優勝したペアではないか。
「あれ、言ってなかったっけ?」
驚く俺を見て、翔太さんも目を丸くして驚いている様子だ。
「あー、すまん、すまん。そうなんだよ。だから相手はめっちゃ速い。そして、俺たちもめっちゃ速く漕ぐ必要があるな」
そういうと口をいっぱいに開けて笑っている。何がそんなに愉快なんだろう。急造のペアで大学生で一番速いペアに挑もうなんて発想がクレイジーすぎるだろ。翔太さんのこと主将ってことで完璧だと思っていた。でも案外この人は結構抜けているところがあるのかもしれない。
翔太さんは口いっぱいにだし巻き玉子を方ばりながら、
「そうだ。明後日から、今回のレースの秘策を教えないとな」
ニヤッと悪ガキのように笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます