3 悲しいだけではなく

 力なく垂れた尻尾が階段の上に消えるのを見送って、ウルフは大きく、溜め息のような息を吐いた。


「大丈夫?」

「ええ、問題ありません」


 ウルフは言葉通り、問題なさそうに微笑んでみせた。それからフォークを握り直して、またサーモン・パイとバゲットを頬袋に詰め込み始める。僕はオムレツを崩しながら、この間の授業で教授が言っていた等差数列の話を始めた。それ以外、人の死ともこの店とも、映画や俳優とも関係ない話題が見つからなかったのだ。

 僕の気遣いを彼が理解していたかどうかは分からない(ウルフは鈍いからね)。でも、彼は僕が話している間中ずっと面白がるように目を細めていて、サーモン・パイと大量のバゲットをぺろりと平らげてしまった。話すのに夢中になっていた僕の方が慌ててオムレツを口に押し込んだくらいだ。

 店を出ていく時、グランマはカウンターの向こうで安楽椅子をゆっくりと揺らしながら、優しい手つきでマチルダを撫でていた。そして、僕らが通りかかったことに目敏く気が付くと、ピッと視線を上げて、琥珀の指輪を着けた指を上下させた。それはグランマ流の「またおいで」という言葉である。

 僕はうっかり目を逸らしそうになったのをぐっとこらえて、いつものように片手を挙げた。



 それからしばらくして、グランマはこの世を旅立った。家族が見守る中で静かに息を引き取ったらしい。享年八十六歳。大往生だ。

 彼女の死は大学内外を驚愕させた。どこで聞いたのか、OBたちも大挙して押し寄せてきたくらいだ。臨時休業していたグランダッドは葬儀の日だけ扉を開け、弔い酒を振る舞った。泣きぬれた酔っ払いたちは店から溢れ、銘々にたむろい、凍えるような夜をグランマの思い出と一緒に乗り越えた。

 それからまたグランダッドは休業の紙を貼った。



 僕はベッドに寝転んで、ジョージ・オーウェルのコラム集を眺めていた。オーウェルはかつてミャンマーがイギリスの植民地だった頃に、そこで警察官をやった経験を持つ――作家と呼ぶべきか文筆家と呼ぶべきか。一九五〇年に肺結核で亡くなっている。『一九八四』とか『動物農場』とか、『象を撃つ』なら聞いたことがある人も多いだろう(その内の大半が僕同様、読んだことはないだろうけど)。グレムリンとパイロット、といえばロアルド・ダールなんだけど、『チャーリーとチョコレート工場』にちょっとしたトラウマがあるからやめたんだよね。といっても、今の僕の頭には内容なんて全然入ってこないから、どっちを選んでいたって同じだったかもしれない。

 窓の向こうは相変わらず曇天。セントラルヒーティングがゆったりと稼働する部屋は春のように暖かくて、けれど灰色に静まり返っていた。

 本を置いて起き上がる。


「なぁ、ウルフ」

「なんですか」


 彼はいつものようにデスクに向かって、新聞を読んでいた。いや、読んではいないな。開いて置いていただけ。


「グランマのところに来たっていう少年、あれは何だったの?」


 ウルフはゆっくりと振り返った。


「おそらく、血無し少年と呼ばれる類のものかと」


 いかにも恐ろしげな名前だ。


「血無し少年と呼ばれる存在は二種類います。いずれも北の方の伝承で、不条理に殺された少年が幽霊になって現れる、というお話です。ハイルトンの血無し少年の方が有名ですね。彼は城主に殺されて、その恨みから幽霊となり悪さをします。ギルスランドの血無し少年は、寒い中に放置されて死んだ少年で、バンシーとほとんど同じことをします」

「バンシー?」

「ええ。寿命が近い人間のもとに現れて泣くのです。少年が冷たい、冷たいと言っている場合は、死因が病であることを指しています。その場合は病院へ行けば、ある程度寿命の予測はできるでしょう。……彼女が、後悔を残していなければいいのですが」


 彼は“これで話はおしまい”と言う代わりに新聞へ視線を落とした。

 後悔を残していなければいいのですが。祈りを込めて湖に投げ込んだ宝石のような言葉だった。たぽん、と小さな音を立てて、波紋が広がる。

 ウルフの父親は有名な俳優で、ちょうど三年前の今頃、突然何者かに殺された。犯人はまだ捕まっていない。

 寿命よりもさらに予期できない、強制的な別れ。事が起きてからでは遅い。その時に彼が味わった後悔はどれほどのものなのだろう。後悔だけじゃない。犯人への憎しみとかもあるはずだ。そういうものをどうやって心の内に押し込めているのだろう。そうしながら他人へ祈りを捧げるのは、どんな気分なんだろう。

 僕の低スペックな想像力が悲鳴を上げた。考えるのをやめてベッドに寝転がる。

 そのときだった。

 こつんこつん、と窓が叩かれる音がした(一瞬びびった僕のことは気にしないでね。だって二階の窓がノックされるなんて普通あり得ないだろ)。


「マチルダ?」


 ウルフが素早く立ち上がって窓を開けた。冬の鋭い刃物のような風と一緒に、マチルダはするりと入ってきた。危なげなく下り立った彼女は、口にくわえていた小さなもの――指輪だ。グランマが着けていた琥珀の指輪――を床に置いた。それからぶるるっと全身を震わせる。猫の表情なんて気にしたことなかったから定かでないけれど、なんだか混乱しているような感じに見えた。


「ごめんなさい突然」


 マチルダはうつむきがちに話し出した。わずかに声が震えている。


「他に頼れそうなところが思い浮かばなかったの」

「何があったんですか」


 ウルフの問いに、彼女は力なく首を振った。


「きっと何かの間違いなのよ。それか……ええ、そうね、何か事情があったに決まってるわ。あたし、これからそれを確かめに行くの。念のためにこれを預かっておいてほしくて」


とマチルダの鼻が琥珀の指輪を指す。


「何があったのか教えていただけませんか」

「それを今から確かめにいくのよ」


 マチルダは睨むような目つきでウルフを見上げた。美しさも硬さも宝石同様の瞳。こうなっては、彼女の口はてこでも割れないだろう。


「とにかく、お願いね。たぶんあたしの思い違いだけど……この指輪は鍵なの。ブレッドが探していたら渡してあげて」


 さすがのウルフもそれ以上は何も言わず、「わかりました」とひざまずいた。


「約束してくれる? 必ず、渡す時は必ず、ブレッドに渡す、って」

「はい。約束します」


 丁重な仕草でそっと指輪をつまみ上げる。ハンカチにくるんで引き出しにしまいこんだのを見届けてから、マチルダは窓枠に飛び乗った。


「そうだったわ、魔法使いさん」

「はい、何でしょう」

「あなたが教えてくれたおかげで、最後にマダムと話せたの。ありがとう」

「……そうですか」

「ええ。ありがとね、本当に」


 繰り返されたお礼に、ウルフは無言で頷いた。インクのにじみのような微笑を浮かべて。



 それから一週間後に、グランダッドは営業を再開した。でも、行けばグランマがいなくなったことを思い知らされるだけだ。だから何となく行く気になれなかった。思わせぶりなことを言っていったマチルダも、それきり一切音沙汰なし。曇天だけを眺める日々がうだうだと過ぎていく。

 僕らが次にそこへ――寮を追われる形で仕方なく――行ったのは、二月の最初の土曜日のことだった。

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