鵺の灰

 人間が人間を突き落とすところを見たのは、十五歳の夏のことだった。萬燈まんどう夜帳よばりが、とあるプログラムに参加した時のことである。

 アルトゥール・ディアベリが来日するということで、十五歳の萬燈夜帳はとある山奥にある音楽ホールにやって来ていた。アルトゥールはウィーン出身の作曲家であり、優れたオルガン奏者でもあった。彼の来日のきっかけは中学生を対象とした国の音楽プログラムだった。国から音楽に興味のある子供達を招待し、国際交流と音楽教育を一度にやってしまおうという腹である。

 そんな場に萬燈夜帳が招待された理由は二つある。偏に彼がドイツ語に堪能であり、中学生ながら通訳要らずだったからと──アルトゥールは萬燈夜帳が敬愛してやまない音楽家の一人だったからだ。

 そういったわけで、萬燈夜帳は通っていた私立中学の代表としてアルトゥールに挨拶をし、オルガンの演奏と歌の披露をした。他校の音楽に造詣の深い生徒との交流も行うことが出来、大いに実のあるプログラムだったと言える。

 だが、プログラムの休憩時間に山を散策したお陰で、豊かな音楽体験とは無縁のところを目にしてしまった。崖際に佇んでいる学生服の少年を、後ろから歩いてきたもう一人の少年が突き飛ばす。バランスを崩した少年は崖から転がり落ち、その様を見た『犯人』は怯えたように立ち去ってしまった。

 夜帳はすぐさま崖の下を覗き込む。数メートルの高さだったが、打ち所が悪ければ死んでもおかしくない。崖下の少年は意識を保ってはいるようだが、出血もあるようだ。

 夜帳は悩む間も無く、場所を選んで慎重に崖を降りていく。

 そうして少年と同じ地面に立った時、少年はゆっくりと口を開いた。

「驚いたね。こんなところまで降りてくるなんて。誰かを呼べば面倒を回避出来たかもしれないよ」

「だろうな。だが、俺には降りられる技量があるし、降りたら応急処置を出来る能力もある。なら、こっちが先でいいだろ」

「なるほど、そういう考え方をするんだ」

 少年は額を切っているらしく、顔には血の筋が伝っていた。だが、それでもなお、その顔の造形が過度に整っていることは分かる。

 年の頃は夜帳と同じくらいだろうが、この時点で既に完成されているような美しさがあった。この外見を愛でる人間は多くいるだろう、と夜帳は客観的に思う。

「骨が折れているとかはねえか」

「うん、大丈夫。そういうところに影響が出ないよう、ちゃんと受け身を取ったから」

 ちゃんと受け身を取ったという割には、リスクの高い落ち方をしているようにも見える。これでは何を守ったのかが分からない。腕や足に切り傷は出来ているものの、確かに骨は折れていないようだ。その他はどうなっているのだろうか。そんなことを考えていると、少年は嬉しそうに言った。

「君、萬燈夜帳くんだよね。アルトゥールさんと会話をしてた、どこかの中学の代表生徒」

「ああ。そうだな」

「アルトゥールさんの演奏の後に、君もオルガンを弾いていたよね。歌も……。その時、素晴らしい才能だと思ったよ。そんな夜帳くんに助けてもらえるなんて嬉しいな」

 そこまで言って、少年は思い出したように付け足した。

「ああ、そうだ。僕の名前は九条くじょう鵺雲やくもだよ。今回のプログラムには、オルガンの演奏が目当てで来たんだ。あの音が、すごく好きで」

「奇遇だな、俺もだ」

 そう言うと、鵺雲は嬉しそうに笑いかけてきた。そんな状況ではないのにもかかわらず、その顔はどこか穏やかだった。

 幸いなことに、夜帳は封を切っていないミネラルウォーターを持っていた。それを開けてティッシュに染みこませ、顔などに付いてしまっている血を拭う。そして、ハンカチを使って腕の止血をする。

 処置が終わるまで、鵺雲はじっと一連の動きを見つめていた。目の前で起こっていることを不思議そうに観察している、といった方が正しいかもしれない。その点も、彼を浮世離れしていると感じさせる部分だった。

「よし、これでいいだろう」

「ありがとう。助かったよ」

「それで、これからどうするんだ。俺は生憎と犯人の方を目撃しちまったわけだが」

「ああ、うん。戎矢えびすやくんだね」

 あっさりと鵺雲が言う。どうやら、鵺雲も犯人には気づいていたらしい。

「突き落とされる心当たりがあるのか」

 そう尋ねると、鵺雲は少し悩んでから答えた。

「九条家も戎矢家も、とある郷土芸能の名家なんだ。その繋がりで、戎矢家の先代から、息子と同じプログラムに行かないかって言われてさ。僕としては特に断る理由も無かったんだけれど……戎矢くんは僕と一緒に、というのはあまり気が進まなかったみたいで」

「だからって崖から突き落とすか?」

「崖というか、大きな坂道──いや、崖だね。柵も立っていたくらいだし」

 鵺雲は自分が落ちた崖を見上げながら言う。鉄線で作られたやる気の無い柵の一部は、鵺雲が落ちた時にぶつりと切れてしまっていた。鵺雲はのんびりと「突き落とされたって丸わかりだね」と笑っている。

「……実はね、戎矢くんはとても追い詰められていたんだ。郷土芸能で結果が出なくて……それに、才能の証も周りに示せていなかったし。それで、僕のことを見かける度に焦燥を募らせていたのだと思う」

 鵺雲は、何故か鎖骨に手を当てながら言った。崖から落ちた時に破れてしまったのか、制服のシャツがはだけて、その部分が露出している。

 そこには、奇妙な刺青があった。真面目そうな鵺雲が入れるのにはそぐわない、大きくて派手なものだ。──いや、と夜帳は思い直す。よく見ると、刺青のような人工的なところを感じさせない。だとすれば、痣だろうか? それにしては、柄として美しすぎる。これは一体何なのだろう。

 夜帳の疑問を余所に、鵺雲は続ける。

「簡単に言ってしまえば、妬まれてしまったのかもしれないね! あはは、才能を認めてもらえるのは嬉しいけれど、崖から落とされるのは困っちゃうな」

「そりゃあ大層なこったな。まあ、そいつに落とし前を付けさせりゃあ済む話か。俺も見ていたしな。……この大事だ、あっちもすぐに言い出すだろうが──」

「ううん、そうはならないと思う」

 思わず「あ?」と返してしまう。鵺雲は予言者めいた口調のまま続けた。

「さっき、九条家も戎矢家も共に名家だと言ったよね?」

「ああ、そうだな」

「九条家の跡取りを崖から突き落としたなんて言ったら、戎矢はもうその郷土芸能の世界にはいられない。昔はそういったことが多くあったからね。未来永劫爪弾きになる可能性を考えたら、戎矢くんは絶対に言い出せないよ」

 心底残念そうに鵺雲が言う。自分が突き落とされたというのに、まるで被害者が戎矢の方であると言わんばかりだ。

「なら、どうするつもりだ」

「突き落とされたけど、犯人の姿はよく見えなかったって言おうかな。あるいは、いい具合に頭を怪我したから覚えていないでも通るかもしれないね」

 鵺雲は気の利いたジョークでも言っているような顔をして、上品な笑い声を上げた。

「だって、そうだよ。僕が戎矢くんを犯人として名指したら、彼は相当……辛い立場に立たされるだろう。このことはただ単に同じ年頃の少年を突き落としたということより、もっと大きな意味を持つ。代々継いできた戎矢という家名に泥を塗ることになるんだから」

「なら、お前はこんなことをされてもなお、そいつの家名とやらの為に泣き寝入りするってのか」

 一歩間違えたら死んでしまってもおかしくなかった。戎矢がどれだけ鵺雲を妬み、憎しみを抱いていたかは知らないが、だからといって目の前の少年を殺しかけていいはずがない。それはあまりに自分の存在をぞんざいに扱いすぎている。

 だが、意外なことに鵺雲は首を横に振った。

「泣き寝入りというわけではないよ。戎矢くんはちゃんと罰を受けるわけだしね」

「罰?」

「僕が生き残ってしまった以上、戎矢くんはいつ僕がそれを暴露するかに怯えながら、一生負い目を感じ続けることになる。それは既に大きな枷であり、罰だ」

 その鵺雲の口調は相変わらず穏やかだったが、どことなく恐ろしさを感じさせるものでもあった。

「それでどうする? 脅してやりでもするつもりか?」

 鵺雲の背後に見え隠れている底の知れない恐ろしさを嗅ぎ取って、夜帳は敢えてそう言った。

 だが、鵺雲の口振りからして、戎矢を単に苛んでやろうとは思っていないような気もしていた。目の前の少年は、そんな無駄なことをしたりはしない。

 なら、恐らくは実利があるのだ。案の定、鵺雲は笑顔で続けた。

「脅し……そうだね、結果的には脅しになってしまうかもしれない。けれど、僕は真摯に戎矢くんと話し合いをしたいと思ってるんだ」

「話し合い?」

「さっきも言った通り、戎矢くんはとても思い詰めていてね。郷土芸能そのものから手を引こうとしていたんだ。醜聞の末に追放されるのではなく、緩やかな引退というわけだね。でも、僕はそのことをとても残念に思っていたんだ」

「そんだけ追い詰められるくらいなら、手を引きゃいいだろう。そいつはそこまでだ。人生をそれに絡め取られるっつうのは割が合ってねえだろう」

「戎矢は優れた血を持った家だ。戎矢くんが自分の宿命から逃げ出しても、彼の子供はカミに見初められるかもしれない。だから、彼がこの世界から去ってしまうのは困るんだ」

 カミ、というのは夜帳の知っている神のことだろうか。様々なところで存在を語られる、八百万の神だろうか。

「だから、逃がすわけにはいかないんだよ。あの様子だと、もう彼は将来的にも関わろうとしなさそうだったからね」

 そこで、鵺雲が意図していることが理解出来た。

 年近い少年を突き落とすまで追い詰められた戎矢は、これでいよいよその郷土芸能の世界から足を洗うことは出来なくなるだろう。何しろ、鵺雲は戎矢が郷土芸能の世界から去ろうとすることを好ましく思っていないのだから。

 もし鵺雲の意に沿わない動きをすれば、戎矢は自分だけではなく連綿と続いてきた家にも迷惑を掛けることになるのだ。鵺雲はこの一件で、最大の交渉材料を得たというわけだ。

「犯人だって名指しされるのも恐ろしけりゃ、その家柄っつうもんに縛られて自分から名乗り出ることも出来ねえっつうわけか。そりゃあ心苦しいこったな」

 そして、鵺雲はその負い目を適切に転がすことで、戎矢の家を意のままに操ることが出来るようになるわけだ。大きな怪我も無かったことを考えれば上等なものが手に入ったのかもしれないが、随分歪な賭けだ。少なくとも、自分はそこに価値を見出さない。

 何より、と夜帳は思う。この事件の原因は全て戎矢にあるし、罪だって戎矢のものだ。鵺雲は起こったことを最大限に利用しようとしてはいるが、あくまで被害者である。一歩間違えば殺されていたかもしれない。

 なのに、そのこと自体に憤る様子は見えない。まるで、自分が受けた被害を最大の好機であると捉えているかのようだ。死にかけたというのに。殺されかけたというのに。

 気づけば、夜帳の口から言葉が出てきた。

「気に食わねえな」

「……ああ、そう? けれど、これは九条家と戎矢家の問題だ。夜帳くんが口を出すようなことじゃないよ」

「なら、俺も当事者になりゃいいだろう」

 夜帳がそう言うと、鵺雲は初めて表情を変えた。

「……どういうこと?」

「この状況からいって、誰かが突き落としたってのは動かねえんだろう。だが、当の戎矢は自分から名乗り出ることは出来ねえときてる。なら、別の犯人が必要ってわけだ」

「別の犯人……というのは?」

「つまり、ここで俺が犯人だと名乗り出りゃ、戎矢が自白する必要も、自白せずにお前に未来永劫脅され続けることもねえってわけだ」

 夜帳がそう言うと、鵺雲は分かりやすく難色を示した。

「だって……そんなの、」

「生憎と、俺の言葉は信頼されてるからな。事故だったって言やあ信じるだろ。戎矢には言い含めなきゃなんねえだろうが、概ね収まると思うぜ? 何しろ、俺は戎矢と何の関係も無えんだからな。まさかそいつの為に濡れ衣を被るとは思われねえだろ」

 夜帳には自分の言葉を信じさせる自信があった。あとは鵺雲の同意が得られるかどうかだが、仮に彼の同意が得られずとも、鵺雲には夜帳の自白を止める術がない。ここで犯人は戎矢だった、と言うことは、戎矢の家を取り潰されたくない鵺雲の意には反するだろう。

「分からないな」

 その時、鵺雲が言った。

「これ以上ねえほど明瞭だと思うが、何が分からない?」

「それをして、夜帳くんに何の得があるの?」

 鵺雲は心の底から訝しげな顔をして言った。

「事故ということにするとはいえ、夜帳くんがやったことは大変なことだよ。君はあれだけ尊敬を集めていて、周りからも好かれているのに、どうしてこんなことをしてしまったのかと問われるだろう。でも、君は絶対に本当の理由を明かさないわけだよね。過ちを犯した戎矢くんの為に。そんなことをして、一体何になるの?」

 鵺雲の疑問は尤もではあった。これをしたところで、夜帳が得るものは何も無い。自分は相応の責任を取ることになるだろう。

 だが、夜帳が失うものは戎矢が失うものほど大きくはない。それに夜帳は、自身の影響力と周りからの評価を正しく理解している。

 何を言わずとも事故であったのだろうと──あるいは事情があったのだろうと察せられる立ち位置を利用して、戎矢の矢避けになれるのならば、そちらの方がずっといいはずだ。

 一点、自分が戎矢の為にそこまでする義理がないという部分さえ無視出来れば。

「失うばかりの選択に、君は一体何を見出してるの」

「失うばかりじゃあねえな」

 夜帳はそう言うと、しっかりと鵺雲を見据えた。

「お前の選択や、それに懸かる矜持を頭から否定はしねえよ。だが、否定はしねえ上で、個人的に気に食わねえんだ。だから、俺も同じだけの代償を払って上書きしてやる。俺が下手に手を出したお陰でお前が戎矢の家とやらを思い通りに出来なくなるっつうなら、俺に得るもんはあるだろう」

 気に食わない。夜帳の価値観には反する。このプログラムが終わった暁には、きっと鵺雲と自分は会うこともないだろう。だが、夜帳は崖下に降りてきて、鵺雲がどんな目に遭ったかを──それを利用して何をしようとしているかを知ってしまった。なら、その気に食わない事態を見過ごす選択肢などあるはずもなかった。

「その為に戎矢くんを庇うの?」

「その為に戎矢を庇わせてもらうってこったな。巻き込まれた側には申し訳ねえが」

 夜帳がそう言うと、鵺雲は堪えきれないというように笑い出した。

「……なんか君、すごく変わってるね。僕、夜帳くんのこと結構好きかもしれない」

「俺はそうでもねえな。お前とはとかく価値観が合わねえ」

「そうかな。僕、君とはとても似ているような気がするんだけど。きっと君だって、自分の思うままに自分を賭けの舞台に乗せるじゃない」

「お前、下手すりゃ死ぬところだったわけだろ」

 鵺雲の言葉を遮るように、夜帳が言う。

「そうだね。そうはならないように努めはしたけれど」

「それに対する恐怖は無かったのか」

「恐怖……恐怖か……」

 鵺雲が返答に迷っているようだったので、夜帳は無視して話を進めた。

「そうして全霊を懸けたのは、てめえの家が継いできた芸能の技の為だという。いいや、それも正確じゃねえか。お前は戎矢の家の行く末まで慮ってんだからな」

「そうだね。九条家の舞は素晴らしいけれど、この家だけが残っても発展は見込めない」

「大層なことだ。なら、お前自身の我は──欲望は何だ?」

 そう問われた鵺雲は、一瞬何を問われたのか分からない顔をして目を瞬かせた。

「どういうこと?」

「俺はどんな状況であろうと、俺自身の欲に従う。生きるも死ぬも俺の心のままだ。お前はどうだ、九条鵺雲」

「僕は九条家を──ひいてはカミへの儀を発展させることを念頭に置いているけれど」

「それは九条家とやらに生まれたもんとしての我か? それとも、お前の選び取った欲望か?」

「それを区別することに何の意味があると?」

 鵺雲は真っ向から夜帳の言葉を受け止めると、そう言って微笑みかけた。けして強く拒絶されたわけではないのに、価値観の深い断絶を感じる。夜帳とは別の方向での我が強い。

「──ふふ、夜帳くんって面白いね。そんなことを尋ねられたのは生まれて初めてだよ。君はきっと欲深い人間なんだろうけれど、他人にもかくあれと望むだなんて」

 そう言ってから、鵺雲はゆっくりと頷いた。

「君に見つかったのが不運だったみたいだね。うん、負けたよ。君が貫こうとする意思を邪魔立て出来るような器量は僕には無いみたい。僕も君に話を合わせるよ」

「ご協力に感謝するぜ、共犯者殿」

「被害者である僕がこんなことに加担するなんて、ちょっと変な感じもするけれど」

「この状況以上に変なものもねえよ」

「ああ、そうだ。さっきの、死ぬことに躊躇いが無いのかという話だけど。うん、僕だってごく一般的な人間のように死への恐れは抱いているよ。けれど、他の人間よりはずっと恐ろしくない」

 鵺雲がそう言って、ゆっくりと微笑んだ。

「だって僕には比鷺ひさぎがいるから」

「比鷺?」

「弟だよ。九条比鷺。比鷺はまだ幼いんだけれどね、もう既に僕ととっても似ているんだ。僕が死んだとしても、九条家には比鷺がいる。だから、仮に僕が死んでしまったとしても──九条家は終わらない」

 つくづく自分の血を──あるいは自分の属している家への矜持に満ちている。彼にとっては自分自身ですらも家を存続する為のパーツでしかないのだろう。まるで我が見えず、もしくは我そのものがその矜持である男は、どこまでも一貫している。

 惑うことなく自身を捧げるその様は、ある種では我が強いとも言えるのかもしれないが、運命論者的なその口調と、彼の持つただならぬ雰囲気が夜帳に疑念を抱かせる。少なくとも、夜帳が好きな我の在り方ではない。弟のことを自分の血を継ぐ複製として見做している部分も相容れなかった。

「お前は徹底してんな。そういった部分だけは好ましい」

「きっと夜帳くんも気に入るよ。比鷺は舞が上手くて格好良くて可愛くて、こんな僕にもすっごく優しくて、本当に素敵な弟なんだ。一目見たら大好きになっちゃうよ。あっでも、ひーちゃんは僕にべったりだから知らない人とは話したがらないかもね。でも、そういうところもとても奥ゆかしくてチャームポイントであるっていうか。あっ、だからこそ僕が紹介してあげようか? ひーちゃんは僕の言うことだったら雛鳥のように聞き入れてくれるから、きっと仲良くなれるんじゃないかなって」

 急に早口になった鵺雲に対し、夜帳は少しだけ驚く。さっきまでとはまた違った表情は、年相応のものに見える。

「お前に引き合わせてもらおうとは思わねえな。縁があれば会うだろう。無けりゃそれまでだ。俺がそいつを好ましく思うかも分からねえしな」

「縁ね……縁か」

 鵺雲はそこで少し、考え込むような顔をした。そして、彼の手が少しだけ露わになった鎖骨に触れる。刺青のような、そうと言い切るには異質な痣が──長い指でなぞられる。そのまま託宣のように言う。

「きっと、才ある君は然るべき時に見初められるだろう。そうしたらいつか、僕と一緒に組まない?」

「気が乗らねえな。俺とお前で何をするんだ?」

「君と僕はよく似ているから。恐らくは同じ目的を持つことになる。君だって、至高の舞台を見てみたいはずだ」

 至高の舞台とは一体何だろうか。夜帳はアルトゥール・ディアベリのオルガン演奏を素晴らしい人類の至宝だと思っている。年を経るごとに洗練されていくあの音の果てが聴いてみたいと思っている。

 では、アルトゥールがやがて辿り着く境地こそが至高の舞台だろうか? いずれは太陽に翼を溶かされる人間が、寿命というものに足を取られるしかない人間が、限られた中で最大限に掴み取る一夜の夢を、至高と呼んでいいものだろうか?

 夜帳にはまだ分からない。両親のことは共にある種の芸術家だと思っているが、彼らは鵺雲の言う至高の舞台を奉じることになるのだろうか。ややあって、夜帳は言う。

「お前なら、俺を至高の舞台に立たせられるってのか?」

「ああ、他に比することの出来ない場所に、必ず」

 鵺雲の言葉は単なる虚勢ではなく、確信に満ちていた。

 それでも、自分は彼の手を取らないだろうという気にもなった。一体、見初められるということがどういうことなのかも、彼の言う舞台がどんなものかも想像がつかなかったが、萬燈夜帳の至高の舞台は自分自身が選び取るものだ。たとえ、本当に鵺雲と自分が似ているのだとしても、似ているからこそ別の舞台に立つのではないだろうか。

 夜帳は少しだけ笑ってから、言う。

「縁があったらな」

「つれないね、夜帳くん。そういえば、夜帳くんって何年生? 僕は二年生だけど」

「なら、俺のが先輩だな」

「そうなんだ。じゃあ、夜帳先輩? 萬燈先輩って呼ぶ方がいいのかな」

「好きにしろ、九条鵺雲」

 そう言って、夜帳は立ち上がる。そろそろ上に戻って、助けを呼びに行くべきだろう。登れる道を探している時に、遠くで雷鳴が聞こえた。

「おっと、雷だね」

 鵺雲が、よく通る声で言った。

「濡れる前にはケリをつけてやるよ」

「あはは、ありがとう」

 その時、夜帳の頭に浮かんだのは母親のアトリエか何かで見た鵺の図だった。歌川うたがわ国芳こくよしの描いたそれで、鵺は稲妻と共に描かれていた。──神という字の申の部分は稲妻を意味する。人間には不可知の異形の力、形の与えられぬ大いなる自然の力。

 だとすれば、不定の怪に名前を付けた鵺は──雷と関連付けられる化物との近似は──……何なのだろう?


 それからの話を簡潔に纏めると以下のようになる。九条鵺雲は無事に助け出され、身体に大事至らず回復した。そして、萬燈夜帳はケジメを付ける意味で通っていた私立中学を退学することになった。これは夜帳が詳細を語らず、責任は自らにあると言い張ったことにある。

 学校代表として送り出した生徒が起こしてしまった事故に対し、学校側も対応に困っていたようだ。今までの夜帳の生活態度を見て、擁護する声は沢山あったが、退学はむしろ夜帳の側が申し出た。そうしてしまった方が、全てにおいてすっきりと終わる。九条家の方も鵺雲がそれなりの便宜を図ったのだろう。退学という分かりやすい禊を済ませることで、それ以上は求めないと言ってきた。

 全ては分かりやすい決着が必要なのだ。

 同級生はおろか後輩も夜帳の退学を悲しみ、どうにか学校に残れないかを画策していた。それに対し、萬燈は「一、二年も一緒にいてやっただろうが」と軽口を叩いてみせた。それで、全てが穏便に済んでしまった。萬燈夜帳が決めたことに反対出来る人間なんかいないのだ。

 両親の反応は二者それぞれだった。母親の昼女ひるめは黙って頷くばかりであったし、某大学で教鞭をとっている父親の呉朗ごろうはそれなりに心配であったようで、それとなく夜帳を自身の勤めている大学に誘う回数が増えた。夜帳は彼を心配させないよう、何度か連れ立って大学に出かけた。

 音楽は相変わらず興味の対象だったが、父親に連れられて大学に出入りするようになってからは、言語の方に軸を移した。

 そして夜帳は、十七歳の頃に初めての小説『塔屋とうおくの夜』を完成させ、小説家としてのキャリアを開始させた。

 七作目に書いた小説──『ぬえはい』は、伝承に語られる鵺と、不詳の芸術家の生涯を関連させて書き上げた年代記である。鵺を題材に取った理由を、萬燈夜帳は中学生の頃の事件を語らないのと同じように、語らない。

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