2-6 バッキンガム宮殿

 バッキンガム宮殿の前には、貴族たちの乗った多くの馬車がひしめき合っている。その中の一輌にはエドワードの兄、ジェームズもいた。


「また今夜は、一段と待ちぼうけを食らったものだ。それだけ子爵、男爵が多いということか」


 時刻は夜の八時三十分。ようやく会場の手前にある受付まで辿り着いた。


「ジェームズ・マイヤーだ。今夜はなかなかの大所帯のようだな」

「伯爵様、大変お待たせ致しました。どうぞ、中へお入りください」


 貴族たちの集まる大広間。壁際にはところどころにテーブルと椅子が置かれ、部屋の奥にはひと際装飾の施された椅子が見える。天井からつるされた巨大なシャンデリアが広間の豪華さを象徴しているようだった。


「ジェームズ様!」


 後方から聞こえる女性の声で、ジェームズは振り返った。


「クリス嬢、随分と中で待たされたのでは?」

「構いませんわ。ジェームズ様にお会いできると思ったらこのぐらいの時間、何とも思いませんわ」

「クリス嬢にふさわしいのは、弟のエドワードの方では?」


 話題をさりげなくエドワードの方へと仕向けようとするが、クリスは声を立てて笑い、きっぱりと否定しようとする。


「そんなことございませんわ。エドワード様、弱虫なんですもの。次男だし。ジェームズ様は頭が良くて、男らしくて、伯爵家の長男。なのに、独身だなんて……世の中の女性が放っておくはずがありませんことよ」

「エドワードめ、完璧にな」


 ジェームズは心の中で苦笑いを浮かべるが、クリスはそのことに全く気付く様子がない。


「あとで私のこと、ダンスに誘ってくださいね」

「クリス嬢がそこまでおっしゃるなら、後程伺いましょう」


 広間に招待客がすべて収まると、予定より十分ほど遅れて舞踏会は始まった。





 

 その頃、エドワードたちはようやく宮殿の前に辿り着いた。


「ここで待っていろ」


 ホワードは馬車を降り、入り口へと向かう。そこで待機していた衛兵にひととおり事情を説明し終えると、彼は再び馬車の方へ戻ってきた。


「中に入るぞ」


 ホワードに続き、エドワードと夏目、ケリーが宮殿の中へ入る。広間の入り口近くまで来た時、受付にいた執事がホワードに声をかけた。


「失礼ですが、あなた方は?」

ロンドン警視庁スコットランド・ヤードのホワードだ。事件の捜査のため、中に入りたい」

「衛兵から聞いております。しかし、警察の方が大々的に中へ入ったとなると、会場は大混乱になるでしょう」

「じゃあ、どうすりゃいいんだ? 犯行予告まで三時間を切ったんだぞ!」


 その場で怒鳴り散らすホワードを尻目に、執事はエドワードの方を見た。


「そちらのお連れの方は?」

「僕はエドワード・マイヤー、隣は教え子の夏目です。兄がこちらに招待されていると思うのですが」

「伯爵様の弟君おとうとぎみでしたか。では、エドワード様と夏目様にお入りいただきましょう」

「何⁉」


 ホワードとケリーが唖然とする中、執事は構わず続ける。


「お二人は入り口の方でお待ちください。その代わり、何かあればすぐに駆けつけていただきましょう」

「だから言ったのだ。警官が入れば間違いなく警戒される――特に、あなたのように目をギラギラさせていかにも、というのは。おかげで、私たちは見事なとばっちりだ」


 エドワードは苦笑いを浮かべるも、夏目の言葉を否定はしなかった。


「あー‼ クソッ‼」


 周囲の目などどこへやら、ホワードは地団太を踏んだ。


「警部、子供じゃないんですから! 落ち着いてくださいよ」

 と、ケリーが止めようとしても、

「俺はいつだって落ち着いている‼」


 彼の怒りが収まる気配はない。

 夏目は大きな溜息をついた。


「目も当てられるような状況じゃない」

 と、独り言ちる。


「仕方ないよ、夏目。僕たちは中に入ろう。何かあれば、すぐに報告します」

「お願いします」


 頭を下げるケリーに背を向け、エドワードと夏目は中に入った。






 広間ではワルツが流れており、男女がダンスをしている。

 二人は、ダンスの邪魔にならないように、しばらくその様子を壁際で眺めることにした。

 やがて、エドワードは見覚えのある人物をその視界にとらえる。


「あれ? クリス……」


 彼の見つめる方へ夏目も目をやる。

 その先では、ジェームズとクリスが踊っていた。曲に合わせて優雅に踊る二人。


 茫然とたたずむエドワードに、

「どうかしましたか?」

 と、夏目が声をかけるが、エドワードはしばらくの間無言になっていた。


 一方、クリスはエドワードの視線など露知らず、お目当てのジェームズとのダンスを終え、ご満悦の様子である。


「楽しかったですわ」

「お楽しみいただけたようで何より」


 曲が終わり、ジェームズがクリスの元を離れようとした時、

「ならば今度は私と踊っていただけますかな」

 と、ある男がクリスに声をかけた。見た目は彼女より二十歳以上は上に見える。


「えっ、えー⁉ あなたと? 息子さん……とではなくて?」


 ぽかんと口を開け、その場で棒立ちになるクリス。

 その様子を見た男は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「うちの息子は病弱ゆえ、ここには来ておらん。何か、ご不満かな」

「そ、そんなことは……」

「だめだ、見ていられない……」


 壁際から二人のやりとりを見ていたエドワードは、たまらずクリスの元へと駆け出す。


「教授!」


 夏目の声など全く耳に入っていない様子の彼は、まもなくその体に衝撃を受け、床に尻もちをつく。


「うっ……」

「前を見ていないからです」

 夏目はエドワードをたしなめた直後、

「大丈夫ですか?」

 と、彼のすぐ横に倒れている女性に声をかけ、体を起こしていた。


 夏目の声でエドワードも慌てて起き上がり、女性の方へと目を向ける。


「すみません! 僕が前を見ていなかったばかりに……」

「……いいえ、こちらも逃げるのに夢中だったものだから」


 ウェーブのかかった茶色の髪が特徴的な彼女からは、妖艶な美しさが醸し出されていた。それは恐らく、クリス以上に――夏目はおろか、エドワードも思わず見とれてしまうほどに。

 だが、女性の言葉に引っかかりを覚えたエドワードはすぐさま彼女に尋ねる。


「逃げる? ……何かあったのですか?」

「あの男に付きまとわれていたのです」


 女性の視線の先に目を向けると、男がそそくさとその場を離れていった。


「あの方は確か、酒場でヘーゼルダイン卿と一緒に賭け事をしていた……」


 夏目は瞠目した。


「何だって⁉ ヘーゼルダインという男の顔なら否が応でも覚えているが、あの男の顔は全く覚えていない」


 だが、エドワードの視線はすでにクリスの方を向いていた。

 クリスを心配する気持ちと、目の前にいる女性をぞんざいに扱うわけにはいかないという気持ち――二つの気持ちがエドワードの中でせめぎ合う。


「今のことで、あの男も諦めたことでしょう。感謝致しますわ」


 女性は気丈にふるまって見せていたが、その声はどこか震えていた。

 エドワードは、視線を女性の方へ戻す。


「あの方とは知り合いなのですか?」

「本日お会いしたばかりです。こちらがいくら断っても、執拗にダンスをせがまれてしまいまして……あっ、申し遅れましたわ、私ミランダ・ノエルと申します」


 ミランダはドレスの裾を持ち上げ、会釈をした。


「ノエル家というと……伯爵の」

「私の父をご存じなのですね」

「残念ながら直接お会いしたことはありませんが、お話は兄から伺っております。僕の兄は貴族院議員ですから」


 直後、

「いや! 離して!」

 クリスの悲鳴が再び聞こえてきた。


「クリス!」


 エドワードの様子で察したのか、ミランダは無言で一歩二歩とその場を下がる。

 その様子を見ていた夏目は、ミランダの肩の上に手を置き、頷いた。


「あなたのことは私がお守りしましょう。教授は彼女の元へ」

「すまないね、夏目。それでは、失礼」


 エドワードはミランダに頭を下げ、クリスの元へ向かった。

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