1-5 2人の刑事

 一部始終を見守っていた客たちからは拍手が沸き起こり、「よくやった!」や「あー、スッキリした!」などといった声が店内に飛び交う。


「さあて、仕切り直すよ! そういえば、そこの紳士は先生のお知り合いかしら?」


 コンスタンスから急に話を振られた夏目は、瞬時戸惑いの表情を浮かべたが、担いでいたこうもり傘を下ろし、お辞儀をした。


「日本政府の要請で渡英した夏目と言います。これからウェストフォード大学でマイヤー教授に師事する者です」

「あらまあ、先生の教え子だったのね。これは盛大にもてなさないとね。今夜は私のおごりだよ。たくさん食べていっておくれ」


 コンスタンスはそう言うと、はりきって厨房に入っていった。

 夏目が元いた席に戻ろうとしたところで、エドワードは彼を引き留めた。


「夏目もこれから夕飯かい?」

「席についてすぐあの騒ぎだったもので。その様子だと、教授も?」

「うん。君さえよければ、相席しても良いかい?」

「もちろんです」


 夏目がそう答えた直後、「ぐぅ」という腹の虫が鳴った。夏目は頭をガシガシとかき、エドワードはくすりと笑いを浮かべる。


「すっかり待ちぼうけを食らってしまったね。僕もお腹がすいたな」


 時刻は午後八時を回っていた。エドワードの言葉に、夏目は無言で頷いた。

 コンスタンスは十分もしないうちに、皿いっぱいに盛り付けたサラダと酒を用意した。

 夏目は早速サラダを口に運び、安堵の溜息をもらす。


「あいつら、戻って来ないと良いが」

「ふふ、そうだね。少しは懲りたと思うけど。彼にも貴族のプライドがあるからね」

「貴族と言っても、所詮は成り上がりなのでは?」

「ははは……そう言われると、彼は身も蓋もないだろうね」


 二人がサラダを平らげると、コンスタンスは魚とポテトのフライの乗った皿を運んできた。テーブルの上に置かれた料理を前に、夏目は目を丸くする。


「これは、何だ?」

「フィッシュ・アンド・チップスだよ。イギリスの定番料理なんだけど……夏目は初めてかな?」

「初めてです」


 夏目はそう言いながら、皿に盛られているフライをまじまじと見つめた。


「……油で揚げてあるみたいだが、天ぷらとも違うのか?」


 夏目は恐る恐る口に運んだ。まもなく、「へぇ、日本の天ぷらとは違うが、これはこれでうまいものだな」と、満足げに頷いた。


「口にあったようで良かったよ。僕はここのがお気に入りでね」


 それからしばらく、料理に舌鼓を打った二人は店を後にする。


「二人とも、今日は本当にありがとうね!」


 二人の後ろ姿が小さくなっていくのを見送ったコンスタンスが、「ふぅ」と一息吐き、店内に戻ると、


「なあ、ちょっといいか?」


 彼女の前には、二人の男が立っていた。一人は四十代ぐらい、もう一人は二十代ぐらいの若い男である。声をかけてきたのは年長の男の方だった。


「……お会計かい? それとも、追加で何か?」


 ただならぬ雰囲気を醸し出す二人に、コンスタンスは恐る恐る声をかけた。


「さっきの二人は、アンタの知り合いか?」

「……常連さんとその教え子だよ。けど、どうしてそんなこと聞くんだい?」

「俺たちはロンドン警視庁スコットランド・ヤードの者だ」


 コンスタンスは目を見開き、うわずった声をあげる。


「け、刑事さん⁉」

「あまりでかい声を出すな。他にも客がいるだろ?」


 男の声でコンスタンスは慌てて我に返り、小声で話を続けた。


「警察が来るだなんて、この辺で何か事件でもあったのかい? それとも、さっきのイカサマ貴族?」

「ここに居合わせたのは偶然だ。別件で出た後、夕食をと思い、この店に立ち寄ったが、おかげで面白い場面に遭遇することができた。行き詰まった事件が再び動き出すやもしれん」


 男はタバコに火をつけ、吸い始めた。


「さっきの客は、アンタの知り合いなんだろう?」


 ふぅ、と男の口から吐き出される白い煙を目の当たりにしたコンスタンスは、すかさず空いている近くのテーブルから灰皿を持ち出し、男に差し出す。


「さっきの、って……まさか、先生に事件の依頼をする気じゃないだろうね?」

「先生?」

「マイヤー教授のことだよ」

「ああ、マイヤー家の次男坊は大学教授か。なるほど、どおりで頭脳明晰なわけだ」

「もう一人の夏目という男は?」


 今度は若い方の男が尋ねた。


「さあ、あっちは先生の教え子で、私も今日会ったばかりだからね」

「まあいい……」


 再び年長の男が口を開く。目をギラギラさせ、受け取った灰皿にタバコをぐいぐいと押しつけた。


「手段は問わねぇ。犯人を監獄にぶち込むことができりゃ、それでいいんだからな」






 パブ・コンスタンスを出たエドワードと夏目は、ガス灯に照らされた夜道をゆっくりと歩いていた。


「実に美味だった」

「君にはすっかり格好悪いところを見られてしまったね」


 満足げに語る夏目とは対照的に、がっくりと肩を落として歩いているエドワード。とぼとぼと歩く彼の横を、夏目は悠然と闊歩する。


「教授の推理力と動体視力には脱帽しました。何より、女将さんが喜んでいたのですから、それで良いではないですか。あとは奴らが戻って来ないことを願うばかり」

「あの店は、ロンドンでもかなり評判の高い店だからね。料理の味もさることながら、国会議事堂とテムズ川が近くて立地も良い。それだけに、以前のように庶民が気軽に入れる店に戻ることを望んでいた客も多いと思うよ。僕もその一人さ」

「ですが、そういう教授は伯爵家の次男であると、先程の男が言っていたと記憶していますが。あの店には前から通っていたのですか?」

「そうだね、ウェストフォード大学で教鞭をとるようになってからは、よくお世話になっているかな。といっても、ここ一か月ぐらいは、僕も忙しくてなかなか顔を出せないでいたけど」

 と、エドワードが言い終わらないうちに、ビッグベンの鐘の音が辺りに響き渡る。


「九時か。ロンドンに着いてから数日たつが、外が昼間から霧で薄暗くて、すっかり時間の感覚が鈍ってしまった」

「スモッグのことかな?」

「スモッグ?」


 夏目が聞き返した。


「石炭を燃やした時に発生する煙やすすが霧の中に混じったもののことだよ。それが太陽の光を遮っている。だから、水蒸気が凝結してできる普通の霧とは違うんだ」

「それだけ大気が汚染されているということか」

「この国は産業革命で発展してきた……その代償かもしれないね」

「ゆくゆくは日本もこうなるのだろうか」


 もう少しで見晴らしの良い大通りにさしかかろうとした時、背筋が凍るような女性の悲鳴が辺り一帯に響き渡った。


「わっ!」


 驚いたエドワードは体のバランスを崩し、危うく転倒するところだった。


「何だ?」


 夏目は暗闇の中で目を光らせ、周囲を見回す。


「恐らく、この近くだな」


 そう呟くと、悲鳴が聞こえてきた方角を目指し、走り始めた。


「な、夏目! どこに行くんだ⁉」


 エドワードが震える声で尋ねると、夏目は振り返り、真剣な表情でエドワードを見つめた。


「何者かに襲われているに違いない。教授は先にご自宅へお戻りください。では、失礼」


 再び走り出そうとする夏目に対し、エドワードは、自らを奮い立たせるように大声で言う。


「……ま、待ってくれ! 僕も、行く……」


 その言葉とは裏腹に、すくむ足。夏目に置いて行かれまいと、無理やり動かす。半ば這うようにして、エドワードは彼の後を追った。

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