第2話

 俺がこの女と初めて会ったのは、ある雨上がりの朝だった。その朝、俺は陽子さんと「赤レンガ小道」を歩いていた。路面のレンガは前夜の雨を吸っていた。


 俺の事務所兼住居の前にあるこの赤いレンガ敷きの細い道沿いには、馴染みの店が軒を連ねている。薬屋、美容室、花屋、ラーメン屋、喫茶店、ビジネスホテルに信用金庫、そして弁当屋。小さな田舎町のひなびた商店街だ。俺の事務所兼住居は下の階が弁当屋である。屋号は「ホッカリ弁当」。俺は、そこの経営者の陽子さんとその娘の美歩ちゃんと共に暮らしている。職業は探偵だ。この町に流れ着き、この二人に出合い、この弁当屋の二階で暮らすことになった俺は、探偵を生業とすることにした。まあ、この町に来た当時の俺は無一文だったし、おまけに身分証などのIDを示すものは何も持っていなかったわけで、しかも、記憶まで無かったとくれば、無い無い尽くしの俺に、他にできる仕事があるはずもない。つまり、この仕事を選択せざるを得なかった訳だが、まあ、俺の性には合っているようだ。それに、どこの馬の骨とも知れない俺をこうして居候させてくれている陽子さんと美歩ちゃんに、ほんの少しでも報いるためには、俺が用心棒として振る舞える方が都合いいし、この町の平和にも貢献できるとなれば、打って付けの職業だ。文句は無い。文句どころか、俺はこの仕事を楽しんでやっている。だからと言って、のんびりとやっているわけではないぜ。たとえば今年の春は放火犯を捕まえたし、夏は……ああ、連続器物損壊事件の真相を解明した。つまり、俺はいわゆる「名探偵」というやつで、結構に忙しく毎日を……まあ、いい。とにかく、話を戻そう。ええと、雨上りの朝だったな。




 エプロン姿の陽子さんは、弁当を重ねて入れたビニール袋を提げていた。俺はその袋をつつきながら尋ねた。


「なんだ、弁当の配達か? 珍しいな」


 陽子さんはビニール袋を胸の前に持ち上げると、底を手で支えて片笑んだ。


「いい匂いでしょ。出来たてだから」


 キノコの芳しい香りと栗の甘い匂いが鼻の前で踊る。俺は生唾を飲み込んだ。


 「ホッカリ弁当」は昼食しか売っていない。昼時に、向かいの信用金庫や大通りの向こう側の警察署の職員たちに弁当をまとめて売るのだが、どちらも取りに来てくれる。だから普段、陽子さんは弁当の配達をしないし、その後で飛び込み客に何食か売ったら、早い時間にシャッターを下ろす。


 陽子さんが弁当の配達をしないのは、理由がある。俺はそれが心配で、彼女が外出する時は必ず付き添うようにしている。だが、その日、陽子さんは一人で弁当の配達に出かけた。その事に気付いた俺は、慌てて彼女を追い掛けたのだった。


 陽子さんは花屋の隣の民家の前で立ち止まった。この「赤レンガ小道商店街」と呼ばれる通りで唯一、店舗ではない建物だ。なんでも、昭和初期に建てられた家らしいが、貴重な文化財だから長く残された訳ではないことは一目で分かる。お世辞にも立派な建物とは言えない小さな家だ。安普請の瓦に建付けの悪そうな木製の窓枠、その中の薄い曇りガラス。壁木は渇いて色あせ、その下の「犬走り」には「犬」ではなく「ひび」が走っている。


 長らく空き家だったこの家は、ついこの前まで腰高の雑草と限界まで延びた植木の枝葉に覆われていた。そこへある日突然、数人の作業人がやって来て、雨どいに絡んだ蔦を取り除き、雑草を刈り取り、植木を剪定し始めた。内装工事もしていたようで、建材を担いだ大工たちが頻繁に出入りしていた。お化け屋敷のようだった民家は数日で見違えるほど綺麗になった。そして、彼女が越してきた。


 陽子さんは狭い門から中に入った。南向きの玄関まで続くアプローチには、しぶとい雑草が新たな葉を立たせている。陽子さんは緑色の間に並べられた灰色の平たい踏み石の位置を確かめながら、その上をゆっくりと歩いた。


 その家の玄関ドアだけは立派だった。新しくはないが、周囲の壁ほどには傷んでいない。市松模様の凹凸が刻まれたモダンなデザインで、中央には綺麗なステンドグラスがはめ込まれている。オンボロの家には少々不釣合いなドアだ。


 最後の踏み石に足を載せた陽子さんに俺は言った。


「おい、一段あるぞ、気をつけろ」


 陽子さんは俺の声に立ち止まる。


「ん? ああ、段差ね。ありがとう」


 彼女は足下を注意深く見回してから、慎重に段の上に足を載せた。


 玄関ドアの前に立った陽子さんは、呼び出しチャイムのボタンを探したが、それもインターホンも見つけられなかったので、そのまま軽くドアをノックして、大きな声で言った。


「おはようございます。ホッカリ弁当です。ご注文のお弁当をお持ちしました」


 すると、家の中から返事が聞こえた。


「どうぞ、お入りになって。鍵は開いていますわ」


「はい。失礼します」


 陽子さんは、そのドアをゆっくりと開けた。ドアは分厚く、重そうだった。おそらく一枚板だろう。隅に下げられた銅製の鈴がカランカランと音を鳴らした。


 玄関の中は暗かった。踏込みに敷かれた御影石の上に靴は一足も置かれていない。横の壁に備え付けられた下駄箱の上にも何もなく、平らだった。上がり框の向こうの床の上にも、敷物の類は敷かれていない。床はよく磨かれていた。


「あの、お弁当はどちらに置いておけばよろしいですか」


 陽子さんは狭い玄関の中を見回しながら尋ねた。彼女にしてみれば、口にする物を床の上に置くのは良くないし、だからと言って履物を収納する下駄箱の上に置くのも気が引けたのだろう。陽子さんはそういう人である。


 正面から奥へと延びる廊下の奥から枯れた美しい声が届いた。


「こちらまで運んで下さいな。どうぞ、お上がりになって」


 それを聞いた陽子さんは俺に言った。


「じゃあ、桃太郎さんはここで待っていてね。お弁当をお渡ししてくるから」


 俺は頷いた。すると再び声が届いた。


「あら、お連れの方も御一緒にどうぞ」


「いえ、お気になさらず。外で待たせますので」


「構わないわ。お姿も何度かお見かけしているから。さ、遠慮せずに、どうぞ」


 俺と陽子さんは顔を見合わせた。どうやらこの家の住人は、探偵である俺に関心があるようだ。


 俺は目配せして陽子さんに注意を促すと、先に玄関の中に入った。陽子さんも入りドアを閉める。ドアのステンドグラスを通過した七色の光が殺風景な玄関を仄かに照らした。磨かれた床の上が薄っすらと赤や黄色に輝く。それは、紅葉に彩られた晩秋の山肌のようだった。




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