12
第二執務室を出たカインの足取りは、入室時よりも遥かに重かった。
自身のささやかな抵抗は、呆気なくも圧倒的な力によって為す術なく、文字通り地に押さえつけられたのだ。そこにある力は単なる比喩ではなく、現実的なものであり、かといって物理的なものとも言い難い。
真実の名であるミドルネームが、相手に知られているからと言って、普通であれば特になんらかの不利を被ることはない。単なる昔からの慣習であり、事実的な力を持つことはない。
そんな力を持っているのなら、貴族たちの醜い争いはもっと簡潔であるはすだ。
そうならないのはひとえに、ミドルネームに相手の行動を痛みを伴って制限するなどという、荒唐無稽ともとれるような力がないからだ。
だが、それを可能と断じるのはカインが既に身をもって経験しているからだ。
魔術を行使した形跡も残さず、行使された感触も与えず、名前を口にするだけで相手を支配する。たとえ距離が離れていようとも、その名を口にして聞かせたことでその効果は発揮される。
カインとて、命が惜しいわけではないのだから、ジルに言葉を挟むようなことをするのは得策ではないと理解していた。
しかし、あのような常とは違った態度を取られれば、誰だって疑問を抱くはずだ。
加えて、たとえジルの目をもってして脅威はないと断じられたとしても、騎士として役目を放棄することには抵抗がある。聖女が地方を回ることは、王都から離れていてもその加護は届いていることを知らしめるためでもあるのだ。
聖女は1人だけしかいない。その上、基本的に王都に縛られている彼女を、王都民以外が目にする機会というのは限られてくる。
故にその加護の滞りに不平を抱く者も少なからずおり、少しでも緩和するために地方を回るのは欠かせないことだ。
それを打ち切ってまで王都へ帰還させるとは、一体何事があったというのか。
カインは思考を巡らせるが、結局のところジルの言うとおり、ラドリオンに過ぎないのだと自嘲する。
一度大きく溜息を吐くと、落としていた視線を上げて思考を切り替える。
たとえ、ラドリオンでしかないのだとしても、スクートのためになるのであれば、それもまたカインとしては喜ばしいことであるのには違いないのだからと。
カインはそのまま食堂には向かわず、一先ずエブリに報告しておこうと足を向けたが、生憎と彼は街に出ておりいなかった。残っていた副官に王都へ帰還命令が出たことにより、調査は打ち切りになったと伝えると同時に、残存する魔物はいないことを漏らさず伝える。
調査もなしに告げられた報告に信憑性は低いものの、クルムノクス大公の名を出せばそれは疑いようのないものになるのだから、便利なものだとその有用性にカインは思わず笑いたくなった。
報告と今後について手短に話してから、カインはスクートの元へ向かう。
宿舎に併設された聖堂に足を踏み入れると、何も無い空間が広がっていた。
聖堂と呼ぶにはあまりにも殺風景であるそこは、本来であればもっと華やかで厳かであるはずの空間だ。寂れているという言葉の方が似合うほどだと、カインは一つ瞬きを落とした。
カインの足音が時間を止めた静寂の中、うるさいほどに響き渡る。
向けた視線の先、クワイヤには当然のごとくベンチや祈祷台なんてものもなく、ただ一人の少女が膝をついて祈っていた。
こちらに背を向ける少女が、なにを考え祈るのか。カインは少女の背に流れる金糸を見詰めてしまう。
「朝食を、摂らずに来たのですか?」
スクートは振り返ることなく言う。
透き通る声は大した声量をもって発せられたわけではないのに、聖堂内に染みるように響いたように感じられた。
「......クルムノクス大公閣下より、至急王都へ帰還するようにとの命令が下りました」
スクートはゆっくりと瞼を持ち上げた。
胸の前で組んでいた手を下ろすと、カインが回って手を差し出してくる。それに迷うことなく手を乗せると、柔らかく包んだ手がスクートを引き上げる。
見上げたカインの面持ちは先程よりも暗く、スクートは離れていた片方の手でその頬に手を伸ばす。僅かに驚きを隠せない瞳が見開かれると、次いで受け入れるように目を伏せる。
少しだけ身をかがめ、カインより背の低いスクートが見やすいようにとすると、親指の腹が優しく頬をさする。そこには恋人のような甘さなど存在せず、どちらかと言えば親が子を心配するような手つきだ。
だからこそ、カインは少しだけバツが悪いような声色になってしまう。
「少し、機嫌を損ねてしまっただけです」
「ジル様を相手に、その“少し”が命取りであると、あなたが分からないはずもないでしょう」
カインは細く目をあけると、ほんの少し眉を寄せるスクートの顔が映る。
なにを真に恐れるべきか、カインは解っているはずだというのに。スクートはそう内心で思いながら、触れていた手を離す。
スクートの手にはカインの熱が残り、人の熱の脆さを拳を握ってかき消した。
「とはいえ、あなたがジル様の機嫌を損なうとは」
珍しいですね、と考え込むような素振りを見せるスクートに、カインは小さく笑いを漏らす。
彼女にとってカインがジルの怒りを買う姿は想像に難いらしく、その様子に肩を竦めて言う。
「スクート様はご存知ないでしょうが、俺はかなりの頻度でクルムノクス大公閣下のご機嫌を損ねてしまうのですよ」
そんなこと、思ってもみなかった。
そう言いたげに目を丸めている姿には、普段であれば見ることの出来ない、年相応の少女らしさが窺えた。
スクートも自身がこれほどまで驚くとは思ってなかったようで、二重で驚いているのだから仕方の無いことだ。
「それは少し......、いいえかなり、命知らずであると言わざるを得ないですね」
「それは心外ですね。俺とて命は惜しいですから、意図したものではないと弁明させていただきます」
「意図したものであったのなら、それはただの自殺願望ですよ」
カインを見るスクートの瞳が厳しいものとなっているが、さすがにカインもそんなこと思ってなどいない。
命が惜しいというのは本音であり、出来ることならばジルを避けたいくらいなのだ。だがカインは護衛騎士であり、ジルの言葉を借りるならラドリオンである。
ジルが聖女について道具としての有用性しか求めないとあれば、カインは聖女の護衛騎士としてそれを阻むだけ。ジルがどう考えているかは分からないが、カインとしてはお互いの見解と職分に基づく相違だろうと考えている。
とはいえ、カインが推測している範囲違う、確執めいたものの片鱗を滲ませることもあるので、これはカインの希望的観測に過ぎない。引き際はとうに見極めているつもりだ。
「命令に対しての理由は聞かせて貰えたのでしょうか」
スクートの問いに、カインは首を振る。
「いいえ、理由については不明です。国王陛下や貴族院の方々からの承認はなく、クルムノクス大公閣下の一存であることは確認出来ておりますが」
顎に手を当て、思考を巡らせるスクートは、しかしジルの考えを読むことは出来ない。
スクートは森でのことを報告に上げていないし、そうなれば誰かを通じてジルに報告されていることもない。さらにジルの目は森までは見通せず、知る術は無いはずなのだ。
であるならば、何か別の理由があることは明白だが、それに思い至るような何かを見つけることが出来ない。
王女の生誕祭まではまだ日があるし、それを抜きにしても何か急を要するようなことなどなかったはずだと記憶している。
「調査も打ち切り――いえ、まだ始めてもいないのでこの場合は言葉が正しくありませんね。取り止めとなると、既に脅威は残っていないということなのでしょう。とはいえ、人々の祈りを受け取れないというのは、少し不安が残りますね」
「それもまた問題ないと判断されたのでしょう。聖女様への信仰心が一朝一夕で地に落ちることもありませんし、そうでなくとも人々の心は既にスクート様によって十分に慰められてきましたから」
「......神の成り代わりを信仰するのは、あまり、喜ばしいとは思えませんね」
カインの言葉にスクートは、その瞳に薄らと仄暗いものを滲ませる。
だがほんの僅かなそれを、カインは気付くことは出来ずにいた。ただ声色から自身が失言をしたことを察する他なく、彼女の手を取ってエスコートしながら歩き出す。
「我が国に神はいないのですから、祈りを受け取ってくださる聖女様がそのように思えてしまうのは、仕方のないことかと。ご不快でしょうか」
「いいえ、彼らの祈りを受け取るのもまた聖女としての義務です。そこに不快などという己の感情は抱きませんし、私にとって感情こそ不要なものですから。ただ、私は道具でしかないので、彼らの祈りは結局のところ私に蓄積されるだけであり、昇華など出来ないことがあまりにも」
感情を不要と言う彼女からは珍しく、やけに感情の籠った声だった。
言いかけたスクートは押し黙り、その先は言うつもりがないのか、カインが視線を向けても彼女は合わせることはない。横顔はいつも通りの無表情めいたものになっており、この話はもう終わりだと語っていた。
聖堂を出ると朝日が眩しく、目を細めたカインの手からスクートは離れた。名残惜しさを表に出さず、カインが向き直れば彼女とようやく目が合った。
「ジル様の命令を受諾します。早急に王都へ戻りましょう」
練武場の時は神聖さが際立っていた彼女の金糸の髪は、今や眩くもその鳴りを潜めている。しかし、そこへ触れられるのはカインのような騎士ではない。
ジルの言に逆らえないのもまた、スクートとて同じであることに何も言えずにカインは頷いた。
「承知しました。小隊の準備の方は既に出来ているかと思われるので、スクート様のお支度が調い次第出立出来ます」
「分かりました。ですがカイン、あなたはまだ朝食を終えていないのでしょう? 私の支度には時間が掛かるので、あなたには栄養補給することを命じます」
目を瞬かせる護衛騎士をおいて宿舎に戻るスクートの背後で、カインは恭しく頭を下げると口角を上げながら言う。
「謹んで拝命いたします」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます