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「うっ......」
意識の浮上とともに重たい瞼を押し上げ、体を起こそうとしてくらりと視界が揺れる。頭を押さえつつ、周囲の状況を把握しようと視線を彷徨わせる。
そこは森の外のようで、視界の先には遠くマクァラトルの国壁が見えた。
なにがあったのか、そう思い出そうとも覚えているのは奇妙な男の言葉だけ。何をされたのかは全くもって検討がつかなかった。ただ何かしらの術によって眠りにつかされたのだろうが、魔術によるものなのかも判別がつかずに頭を振る。
次第にはっきりとする意識に、スクートはようやく立ち上がった。
背後に広がる大森林は先程までの異様な静けさから変わり、いつものように木々はざわめき、魔物たちの鳴き声が微かに風に乗って聞こえてくる。
魔物は森から出ることもある。だからこのような、無防備な状態で眠っていたことは自殺行為に等しい。
ふと、胸元に手を入れてそれを取り出す。その手にはネックレスがあり、確かに壊されたはずなのに、鮮やかな深紅の宝石が輝いていた。元よりも色濃くなったようなのに加え、漏れ出る魔力は確かにスクートを覆っているが元のものよりも体に馴染む。
「ジル様のものより、温かい......」
そう思わず呟いてしまうほどに。
スクートは自身を昏倒させ、そして死を覚えさせた男を思い出す。
白銀の髪に深紅の瞳。黒いマントを羽織っていたため、正確には分からないが筋肉のつき方は相当鍛えていると見えた。一見して魔術を使うようには見えなかったが、汲み上げた魔素を体内に取り込むことなく魔力として行使して見せた。
そんなことを、人間が出来るはずがない。
スクートは彼の眼差しが脳裏に過ぎると、それを忘れなければならないという思いに駆られ、目を瞑って自身に言い聞かせる。
あってはならない敗北だったし、許してはならない屈辱だった。
スクートはネックレスを仕舞い、森から逃げるように離れた。
荒野を駆けながら、思考はやはりあの男に囚われている。切り替えなければならないと思えば思うほどに、指先で触れた男の涙と手のひらに口付けられた感触を拭えない。
探し人は自身ではない。そう言ったのはスクートであるというのに、言葉にする度に心臓が針を刺されたかのような痛みに襲われていた。
「私は聖女であり、盾であることを忘れてはいけません。私は道具、不要な感情は抱くべきではありません」
口に出してまじないのように唱え、ようやく思考を切り替える。
眼前に広がる壁は魔物の襲撃により一部損壊しているが、あの程度ならば数日で元通りに出来るだろうと目を伏せる。既に街の修復作業は終わりを見せており、外壁だけならばという見積もりだ。
国境より中程の街は未だこれから修復作業に入ることだが、その頃には国壁は元通りになっていることだろう。
速度を緩めることなく跳躍し、瓦礫をも飛び越えて壁を越える。国壁の修復作業に入っていた者たちの驚きの声に振り返ることなく、そのまま駆け抜けていく。
国壁の街からカインと別れた街はさほど離れておらず、日が暮れる頃に辿り着く。そしてそのまま駆け抜け、完全に夜になった頃にようやく合流地であるイレモトランに着いた。
街の大門の門番である騎士に声を掛けると、敬礼をしてスクートを迎える。
「ご苦労さまです。避難住民の受け入れは完了しましたか?」
「はい! 既に街内の宿泊施設を臨時の避難所として開放しており、復興作業が終わるまでは支援物資の分配も滞りなく行えるように調えております」
「ありがとうございます。明日昼までには被害地域の街道のラインを解放をいたしますので、明朝までに各配属先の担当騎士には通達をお願いできますか?」
「既にフィデティス様が通達をお出しになり、街道のラインは解放されております。支援物資も明日には届き、作業には取り掛れるかと。また、国壁の街にはフィデティス様からの支援物資をいただいたと連絡がありました」
スクートはカインの手際の良さに相変わらず働き者だと思い、騎士に感謝を告げると街へと足を踏み入れる。
イレモトランは街の規模としては王都には及ばないが、宿泊施設が多く並ぶ街だ。この街は国壁からそんなに離れていないが、建国当時から今まで魔物に一度も侵されたことのない街として、緊急時における避難先として指定されている。
壊滅した街の住民は、街が復興するまでの間、イレモトランの避難所として開放された宿泊施設に衣食住を保証された状態で過ごすことが出来るのだ。これは国家事業であり、税金から賄われているため、魔物に脅かされた心を癒せるようにと発案されたのだ。
スクートが騎士の宿舎へと足を向けようとすると、目の前から小走りで近寄ってくる者がいる。
その人物は息も切らさず駆け寄ると、周囲の目をはばかること無く地に膝をつく。
「ご無事で何よりです、スクート様」
跪く男、カインの頭に手を乗せ、スクートは無事だとは言い難いかもしれないと零しそうになる。だが、胸の内に留めたまま、ただいま戻りましたと告げると、頭を上げたカインの顔は安堵に満ちていた。
カインを立ち上がらせ、街の外壁に沿って宿舎へと向かう。もちろん宿舎へ向かうには街を突っ切った方が幾分も早いのだが、そうなれば人々は聖女に祈りを捧げようと集まってしまう。
今は祈りを聞くよりも、各々の心身を休めて欲しいという思いもあり、スクートはこういった時は人目を避けるような道を選ぶのだ。
「カインの手腕にはいつも驚かされます」
「いえ、俺は仕事をしているだけですから」
「謙遜してばかりいては、いずれ損をしてしまいますよ」
街の外壁部はあまり人がおらず、静けさに風がささやく。
カインは自身より小さな少女の背を見詰めながら、あることに気付いた。
「血糊を落とされたのですね」
なんてことない一言だが、スクートは一瞬だけ返答に詰まった。
まさか真実を告げようとは思わず、振り向くことなく歩く。
「......ええ」
思い出したくないものには蓋をするものだ。
スクートは動揺が顔に出ないように慎重に、そしてゆっくりと振り向いた。
「カイン、あなたには探し求めるものはありますか?」
カインは目を見開いてから、視線を外してしまう。
それが答えなのだろう。
スクートに彼の気持ちは分からない。きっと、カインだけではなく、人間の気持ちを理解出来ないのだ。
スクートは人間ではなく道具であり、感情を不要なものとして教えられている。
「カイン、あなたが早目に街道ラインの解放通達を出してれたおかげで、早く復興することが出来そうです。明日は国壁に沿って魔物の調査に出ようと思いますが、異論はありませんね?」
「はい、日程的にも問題はありません。明日一日だけであるならば、ではありますが」
「この国の騎士は優秀ですから、私たちの出番はないかもしれないですし、恐らく事足りるでしょう。手に負えない事案であるならば、既にそちらの方が優先されているはずですし」
スクートが話を戻すと、カインもまた何事も無かったかのようの振る舞う。
仕事に関する話をしているのは今のスクートにとっては気が楽で、胸の中で一つだけ溜息を零した。
これからの日程について話し合いながら歩を進めていると、いつの間にか宿舎の前へと辿り着いていた。
普通の家よりも大きな構えの宿舎は、この街の騎士だけではなく、今回のように派遣されて来た他の街の騎士も利用する。故に、部屋数は配属されている騎士よりも多く造られているのだ。
カインが開けた扉を潜り、一階には談話室が設けられており、ロビーの真横に位置する部屋から顔が覗いていた。その顔は不安げに眉を寄せており、話し掛けようか迷うような素振りを見せている。
スクートが声をかけるべきか逡巡していると、後から入ったカインが咳払いをした。
「キール、そのように聖女様のお顔を窺うならば、まずは挨拶をするのが礼儀だろう」
慌てて部屋から飛び出た青年、キールは敬礼をしようとして転びそうになる。慌ただしくも居住まいを立て直し、背筋を伸ばして敬礼する。
「せ、聖女様、ご無事の帰還を、よ、喜ばしく、」
「キール、挨拶は結構ですよ。フレズベルクでしたら、無事に巣に戻りました。ラタクにはフレズベルクの加護がこれからも続くことでしょう」
途端に彼の顔は輝き、良かったと心から喜んでいるのが伝わる。
次いでスクートの顔を見上げながら跪き、何度も感謝を口にする。
スクートにとってそれは感謝すべきことではないのだが、それでもキールの想いを汲んで然るべきだとその頭に手を伸ばす。
「あなたの祈りがあったからです」
キールは喜びのあまり涙を流し始めるのだが、それが途端に止んで大袈裟にも肩を揺らす。
スクートがどうしたのかと聞こうとすれば、彼は冷や汗を垂らしながら真っ青な顔で後ずさる。その様子は何かに怯えており、魔物を目の前にしたのかとでも言うその態度には首を傾げる。
そんなスクートとキールを見ながら、カインはまったくと怒りを滲ませた声を上げた。
「ヴォゼス、キールをあまりいじめてやるな」
「人聞きが悪いですよ、団長! 僕はこれっぽっちもいじめてないですよ! 嫌だなぁ、そんな呆れと怒りが複雑に絡み合った視線を送るなんて、僕のこと嫌いなんですか? 僕はこんなにも団長のことが大好きなのに! あぁ、すみません、僕は聖女様一筋ですよ、安心してください! あんなむさ苦しい男よりも僕は聖女様にしか興味ありません。あっ、誤解ですよ! 団長のことはむさ苦しいじゃなくて、たくましいって言いたかったんです。本当ですよ、嘘じゃありません! 聖女様、僕も聖女様がご無事でとっても嬉しいです! 嬉し過ぎてキールのこと思わず睨んじゃっただけですよ」
談話室から目だけを覗かせてキールを睨んでいたヴォゼスだが、カインに呼ばれるとぴょんっと開け放った扉から飛び出した。
人懐っこい笑みを浮かべて駆け寄ると、スクートの前に跪いて頭を差し出す。
撫でろと言うことなのだろうかと、恐る恐る手を出せば、彼はぷるぷると震え出す。その表情は下を向いているから分からないが、息が上がって肩は激しく上下している。
何かに苦しんでいるようで、彼は心臓を押さえながら何事かを呟いている。
「はぁ、はぁ、聖女様のお手が僕の頭に。あぁ、あまりにも光栄だ。あの手で僕の心臓を鷲掴みにして、握り潰したあとにその血を全身に浴びてくださらないかな。そんなことしたら僕は死んでしまうけれど、でもでも、聖女様のお手で命を握られるなんて、そんな嬉しいことされたら僕は死ぬより先に昇天しちゃう。慈愛に満ちた瞳で、柔らかく細いそのお手で触れられた僕は今、死んでも悔いはないだろうなぁ。あっ、嘘、悔いしかないや。今死んだら僕は聖女様に殺して貰えないじゃないか。うんうん、あまりの喜びに思わず死んでもいいと言ったけど、やっぱり死ぬにはもっともっと聖女様に触れて貰わなきゃ死にきれない」
早口にヴォゼスはそう呟くと、恍惚とした表情でスクートを見上げる。
「聖女様、僕が死ぬときは聖女様が僕の心臓を取り出してくださいね」
スクートは人間の中でヴォゼスが一番理解出来ないが、それでもヴォゼスが嬉しそうなのは良いことだと考えることをやめた。
「ヴォゼスはいつも元気なようで、私は嬉しく思いますよ」
ヴォゼスの言葉は正しくスクートに届くことはないのだが、ヴォゼスは望外の喜びとばかりに息を荒くする。
そんな彼の頭に拳骨を落とし、未だに薄気味悪い笑みを浮かべたままのヴォゼスをキールに回収させ、カインはスクートに謝罪を口にする。
騎士団は聖女であるスクートが率いているが、実質的にまとめ役となっているのはカインだ。そんな部下の暴走を止められなかったのは、護衛騎士としては恥ずべきことだった。
しかし、スクートは構わないと振り返る。
「一度身を清めます。その後、第二執務室にて報告を改めて聞かせていただきますので、カインも今のうちに食事等は済ませておいてください」
承知しましたと、カインが頭を下げたのを見てから、スクートは身を清めるために浴場へと向かった。
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