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 スクートは空を飛んでいた。正しくは、飛んでいるフレズベルクの背に乗っているのだが。

 魔物が人語を理解出来るという事例はないが、フレズベルクはスクートの要望に応えるようにかなりの高度を持って飛んでいた。眼下に見える風景は普通であればとても小さく見え、これならば万が一上空を見上げる者がいても、普通よりも少し大きい鳥が飛んでいる程度にしか思わないだろう。

 スクートがその背を一撫ですると、フレズベルクは高く鳴いて甘えた声を上げる。

 馬とは違い鞍などを取り付けたわけではないが、乗り心地を言うなれば不安定極まりない。しかしこの羽根の柔らかさだけは極上であると、スクートは表情を変えないままに頷いた。

 国境付近では既に修繕作業は殆ど終わりを迎えており、これ以上森林から抜け出た魔物が国土を侵すことはそうそうないだろう。

 国の上空から抜け、広大な荒野と大森林が見えてきた。森林の上空には飛行型の魔物も飛んでおり、木々に覆われた下ではさらに多くの魔物がいるのだろう。

 スクートは胸元からネックレス型の魔道具を取り出すと、返り血が付着する手に気付く。拭いたのは顔だけだったのを後悔しつつ、あとで拭けば問題ないと宝石に手を触れる。

 魔力を注ぐ必要のない自立型の魔道具は使用者の意図を読み取り、内側に流れる魔力によって起動者を識別する仕組みだ。

 起動した魔道具の内側からはジルの魔力が流れ出し、それは不可視でありながら薄いベールのようにスクートを覆う。

 これはジルの特異性を応用した魔道具で、彼が魔物から畏れられる存在であることを利用した魔物避けだ。そして同時に、スクートが意図してその力を反転させることもでき、魔物の注意を自身に向けることも出来るというものだ。

 使い方を誤れば死を招く魔道具だが、スクートとしては効率的に魔物との戦闘を行えることもあり、まさに聖女にしか扱えない代物である。ましてジルの手製となればその価値は計り知れず、魔術師たちにとっては手が出せないが惹かれる魔道具でもあった。

 スクートにその価値を問うたとしても、道具は道具でしかなく、自身と同じであるだけだという返答にしかならない。それでもジルに感謝しつつ、木々が少しだけ開けた場所に降りるようにフレズベルクに指示をする。

 滑空して降り立つフレズベルクの背から降り、周辺に意識を向ける。木々のざわめきに混じり魔物の鳴き声が響いてくるが、いずれもスクートたちに向かって来るものはない。

 魔道具が正しく作動していることを確認すると、フレズベルクの顎下を撫でる。


「ここからは徒歩で向かいましょう」


 ユラーシアの樹周辺はフレズベルクの生息地。フレズベルクだけであったなら問題ないが、スクートもいるとなると上空からユラーシアの樹に近付くのは危険だ。

 魔道具はあくまでも魔物が忌避感を覚える程度のもので、敵と認識されてしまえば必ずしも安全とは言い難い。

 降り立った地点からユラーシアの樹まではさほど距離は離れておらず、近付いてくる魔物もいなかった。

 森は多分な魔力を生成し続けており、大気中に含む魔素量も豊富だ。木々は青々と茂っていて、時折見かける小さな泉は澄んでいる。

 ここは魔物が多く生息しているため、人間の手が届かない地だ。だからこそ数千年前からその姿をほとんど変えず、今もなお変わらぬ潤沢な魔素が自然を豊かにしていた。

 やがてスクートたちは木々が円形に広がる箇所に出る。見上げた先には巨木が空を突き抜けるかのようにそびえ立ち、その周囲にはフレズベルクの成体が数匹飛んでいた。

 スクートの後ろを着いて歩いていたフレズベルクは、ユラーシアの樹を視界に入れると途端に走り出す。そして一つの羽ばたきで舞い上がると、仲間たちの元へと帰って行く。

 フレズベルクたちは消えたはずの仲間の帰りを喜ぶように高く舞い上がり、巣があるだろう樹の上部へ消えていく。

 その姿を見届け、自身も国へ戻ろうとした時、スクートは視線を感じた。

 それは魔物とは違い、意識を持った人間のもの。ここにあってはならないもので、あるはずがないものだ。

 ここは魔物が多数生息する森で、ましてやその最奥部にもなる場所。人間がおいそれと立ち入れる場所ではないのだ。

 感じた視線を追うように目を落とすと、それは確かにそこにいた。

 ユラーシアの樹の根元。幹を背にもたれ、座ったままこちらをじっと見詰める深紅の瞳と目が合った。

 瞬きをせず、また身動ぎもしない。少しでも動けば、彼との戦闘は避けられない。そう本能で感じ取り、スクートはその人物を見詰めた。

 白く見える髪は時折差す陽に反射し、白銀であるのだろうと予想する。服はここまで戦闘をしたとは思えないほど綺麗なままで、その体に傷さえも見当たらない。

 ただ居心地のいい場所で休息していただけだという風体をする男からは、スクートが脅威を感じて思わず頬を噛む。

 ここで戦ったとしても勝機を見い出せず、下手をすれば自身はこの地で果てることになるだろう。そう思っても、万が一国にこの人物が攻め込んできたことを考えると、やはりここで相討ちであろうとも戦うべきだと構えようとする。

 しかし、そんなスクートの警戒を混乱に変えるように、彼は瞬きをしないまま右目から一筋の涙を零した。次いで、まるで心の底から喜ぶように、噛み締めるように言葉を紡いだ。


「......あぁ、いつぶりか」


 スクートはその表情に、どこか懐かしさを感じる。けれどスクートにとってこの男は間違いなく初対面であったし、ましてや得体の知れない者である。

 スクートと男とは距離が離れていても、スクートは聴覚も優れているため青年の言葉は否応なしにその耳に届く。

 やっと、と呟く彼は涙を流して俯き、顔を上げてからこちらへと手を伸ばした。


「――コルディス」


 彼はスクートをそう呼んだ。

 途端に全身の血が沸き立つような、恐ろしい気配に襲われて思わず後ずさる。関わってはいけないと、本能が警鐘を鳴らす。

 逃げるべきであるという本能と、見逃すわけにはいかないという聖女としての理性。

 どちらを取ろうとも、この青年がその気になればスクートを遥かに超える力でもって捩じ伏せてくるのだろうと予想する。


「......私は、スクートです」


 彼は対話が可能であると踏み、震えそうになる足を気力で奮い立たせてそう返す。

 背骨をなぞられる錯覚に、スクートに言いようのない不安が足元を渦巻く。

 

「......お前は以前もそう言っていたな」


 近くへ来いと、手招きする男に逆らえず、スクートはゆっくりと歩み寄る。

 未だに根元で座る彼を見下げると、やはり白銀の髪であることが分かった。深紅の瞳がスクートの金の瞳を見詰め、甘くとろけるように細められる。

 彼は誰かと勘違いしている。そう思っても、スクートは無意識のうちにその手を彼の頬へと伸ばしていた。

 指先で彼の頬を伝う涙を拭うと、彼はその手を取って手のひらに口付ける。戦闘によって魔物の血が付着したままであるというのに、彼はそれを厭うことなく触れていく。

 言葉を失ったままのスクートに、深紅の瞳が見上げるように見詰めてくる。それはまるで、忘れているなにかを思い出せと言われているようだった。


「あなたは、おそらく勘違いしています。私は、あなたが探し求めていた者ではありません」


 切なさを込めた瞳から逃れたい一心で手を引こうとするが、彼はその手をさらに強く握った。


「いいや、俺はお前を探していたし求めていたんだ」


 スクートの手を離さず、瞳を覗き込んでくる男の顔は綻び、指先を絡めるように繋ぎ直す。スクートの手はいとも簡単に絡め取られ、抵抗する間もなく彼の上へと引き寄せられた。

 スクートは抵抗しようとするも、彼は抱き締めてそれを容易く封じ込める。

 得体の知れぬ男に、魔物が彷徨く大森林で抱擁をかわしていることは、さすがにスクートでも常識から外れていると理解出来た。何よりも恐ろしいのは、彼は敵対する意識を向けるどころか、スクートに対して既知の仲であるかのように触れてくるところだ。

 首筋に顔を埋めるようにして頬を寄せ、涙混じりの声で漏らす感情がスクートの心を乱す。

 彼のことを知らない。知らないはずなのだ。それなのに、湧き上がるのは愛しいという、自身にとって不要であるはずの感情。

 スクートはそれを自覚するとこれまで加減していた力を解放し、男の腕の中から離脱して距離を取る。

 スクートは開けてはならない箱に入る感情を押し戻しながら、こちらへと悲しげな目を向ける男を睨んだ。彼は失った温もりを惜しいとばかりに手を握り、涙を拭って向き直る。

 スクートは彼の行動を予測するが、感情の乱れによって思考回路は正常に動いてはいない。混乱した頭で睨むのが精一杯であり、今のままでは自身が聖女として機能しないことを自覚すると地を蹴った。

 よく分からないまま、よく分からないものを排除しようと。

 一瞬で距離を詰め、その拳を彼の顔面へと叩き込む。

 ドンッという鈍い音に次ぎ、フレズベルクが飛び上がる鳴き声が聞こえてくる。はらはらと落ちるユラーシアの葉は不釣り合いな時間の流れを表しているようで、スクートは目を見開いた。

 拳は男の顔の真横、樹の幹を抉っており、彼の顔は涼し気にこちらを見ていた。

 反撃が来ると思い即座に距離をとり、次いで蹴りを繰り出そうとする。

 そんなスクートから一切視線を逸らさぬまま、男がゆらりと動いたかと思えば口を開いた。


「――コルディス」


 名前を呼んだだけだった。スクートではない、誰かの名前。それを告げられただけだというのに、スクートは体が思うように動かなくなる。

 そして、ほんの一瞬の瞬きの後、スクートの視界には深紅が広がっていた。

 今まで座っていたはずの男は、ほんの瞬きの間にスクートが知覚できない速度で距離を詰めたのだ。

 まるで時の流れがゆっくりと進むように、スクートは男から目を逸らせずにいる。そして彼はスクートの首筋から垂れるネックレス型の魔道具を手に取ると、それを無理矢理引きちぎった。

 不意の衝撃に驚きながら後ずさり、男を見やると彼はその手に魔道具を握ったまま立ち止まっていた。

 なにかを考えるようにそれを見ているかと思えば、彼はそのまま手の内で魔道具を握り潰す。

 パキリと乾いた音がし、彼が手を開けばぱらぱらと砕け散った宝石が粉のように落ちていく。

 その表情は怒りに満ちているようであり、呆れに震えているようでもあった。深紅の瞳は一層赤みを増し、一瞥されただけでスクートは敵わないことを知る。

 だがスクートは聖女であり、ここで撤退して国に彼という怪物を持ち帰るわけには行かなかった。

 

「知覚出来なかったのはこれのせいか、小賢しい。あの日を境に欠片を生むことをやめたと思っていたが、こんな子供騙しに欺かれていたとはな」


 その口調には激しい感情を抑えている節があり、スクートは恐怖を覚える。

 このままでは聖女として機能しないどころか、ただの石ころのように蹴散らされるだけだと。自身が目の前の男に対し、抑止となり得る力を持ち合わせていないことに歯噛みする。

 彼が上の空である隙を見て、一気に間合いを詰める。繰り出した拳は彼の腕に阻まれるが、次いで体勢を変えて蹴り上げる。

 しかし彼が半歩を引いたことによって足は空を蹴り、そのまま倒れそうなところを勢いを殺さぬままに宙返りして着地する。

 ただの魔物であれば既に拳が肉を抉り、蹴りは骨も砕いていたはずだ。だが目の前の男は攻撃が当たるどころか軽くいなされ、全くもって攻撃が届かない。

 疑問が浮かび鈍る思考を回転させ、打破の一手を考え続ける。しかしどんなに考えても、その先にあるのは自身の死だけだ。

 スクートがなにかを憂う顔つきの男を改めて睨めば、彼は目を伏せてしまう。


「コルディス、お前はまた記憶を失くしたんだな」


「私はマクァラトル王国所有の聖女、スクートです。生まれてから今この時までの記憶に、一片たりとも欠落はありません」


 スクートは自身にも言い聞かせるように、探し人は自分ではないと言い切った。

 男はその言葉に乾いた笑いを落として首を曲げる。


「所有......所有だと? お前を、俺の心臓であるお前を、俺以外の誰が所有すると?」


 明確な怒気は彼の深紅の瞳を煌めかせ、呼応して木々がざわめいた。

 これまで聞こえてきていた魔物の鳴き声は静まり、森が彼の怒りを鎮めようと鳴りを潜ませる。


「あなたに所有されることはありません。私はマクァラトル王家所有の聖女です。私の所有権は未来永劫マクァラトル王家にあります」


「吐かすな、“欠片”が。己の主であり番を忘れるばかりか、許しも得ずにその身を俺以外に委ねるだと? お前との誓いを反故にしてでも人間など滅ぼせば、そのような戯れ言は二度と吐けぬまい」


 彼がそう吐き捨てると、地面が揺れて大気中の魔素が彼の周囲に集まり始める。そればかりか割れた地面から魔力そのものが溢れ出し、まるで彼に呼ばれたように編まれていく。

 それは魔術と呼ぶにはあまりにも強大で、果たしてそれが正しいのか、スクートはそんなことを考える余裕がなかった。

 ただ、何をしようとしているのかは明白だ。彼は言葉通り、今さっき出会ったばかりのスクートを探し人と重ね、スクートの言葉が逆鱗に触れたのか、人間を滅ぼそうとしているのだ。

 膨れ上がる魔力は今なお魔素を取り込み、さらに巨大化していく。

 木々は恐れてざわめき、魔物たちは巻き込まれまいと逃げ出す有様だ。

 目の前の異様な光景の引き金が、自身であることすら信じられないでいるスクートに、しかし彼は興が削がれたとばかりに溜息を吐いた。その顔に浮かぶのは落胆であり、真意は到底スクートには計り知れなかった。

 そこでふと思い出す。ハティは何かから逃げていたことを。おそらくハティはこの目の前の規格外の男から逃げたのだと、そう思い至るのにはそんなに難しいことではなかった。

 溜息とともに彼が編んだ魔術と呼ぶには禍々しい強大ななにかは、あっさりと霧散して風に乗って消えていく。

 息をすることさえ忘れていたスクートは、喉がようやく酸素を吸い込むことを思い出して頭が揺さぶられる錯覚に陥る。

 その場で立ち尽くすスクートに、男はやはり探し人の名前で呼ぶのだ。


「コルディス、フステラに伝えろ。いい加減お前の児戯には飽いたし、俺の心臓を弄んだこれまでのツケは払ってもらうと」


 スクートの視界はぼやけ、最後に金の瞳が映したのは、自身を愛おしげに見詰める深紅の宝石だった。

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