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「君、よっぽどですね」
電子タバコを不味そうに口から離すと、それまで黙って話に聞き入っていた占い師は、話し手以上に深刻な面持ちを浮かべた。
「よっぽどって、何が」
「よっぽど悪かったのですね」
「だから何がだよ」
「頭の打ち所が」
「だから言ってるだろ。打ち所悪かったから、こんな能力が身についたんだって」
「想像が逞しいのは悪いことじゃないですよ、でも人に妄想を押しつけるのは感心しませんね」
狭苦しい店舗の裏側に、こんなに広い部屋があるのかと眼を疑うほど、すっきり拓けたリビング空間がある。床の滑りさえ良ければ、小規模な舞踏会くらいは開催できそうなリビング内部の瀟洒なテーブルに、壱八は淡紅のドレス風ワンピースを羽織った円筒将門と向かい合っていた。
今、壱八が肘を突いている方形のテーブルは、流曲線の浮き彫りが縁と脚部に施されたマホガニー製のもので、似た造りのテーブルが室内にあと三つもあった。艶やかに潤ったテーブル表面に、対座する将門の上半身が上下逆さまに映っている。トランプのクイーンの図柄が思い浮かんだが、よく考えたらトランプの絵札は点対称の図柄だった。
憐憫に近い眼差しを受け、壱八は苛立ちを募らせた。もちろん簡単に信じてもらえるとは思っていなかったが、あれだけ事細かに身の回りで起こった怪現象を説明しても、結局は妄想扱いか。ここまで来た甲斐がまるでない。
「お前、朱良と違って、異能が実在してもしなくてもどうでもいいんだろ。だったら、せめて半分くらいは俺の話を信じてもいいんじゃないか」
「そうやって意図的に論点を擦り替えるのも、いい傾向とは言えませんね」
「あのな、俺が言いたいのは」
「これはわちきの興味じゃなくて、完全に理性の問題でしょう。何の用件で来たのかと思えば、さっきから譫言みたいなことばかり。ここに来る前に、まず病院へ行きなさい」
「だからそういう問題じゃなくて」
「治療費なら貸してあげます」
「あのなあ」
半信半疑どころか懐疑的ですらない、将門の顔つきは壱八の証言を全否定している。真剣に主張すればするほど、その眼差しは段々と可哀相な生き物を見るそれに近づいていった。
気持ちは判らないでもない。もし壱八が逆の立場なら、きっと今の将門と同じ反応を示したに違いないのだ。それ故、胸の奥に渦巻く焦れったい思いは、心を焼き焦がさんばかりに、益々激しく燃え上がっていた。
「腕時計を直したって実物見せられても、本当に壊れていたかどうか怪しいものです。圧倒的に証拠が足りません」
「判ったよ」
将門を納得させるには、やはり実力行使しかないようだ。
将門が吸っているのとは別のスティック型電子タバコが、テーブルの片隅に置かれている。銀色に輝く筐体を断りもなくテーブル中央に引き寄せ、壱八は早速右掌を仰々しく翳してみせた。
「何の真似です」
「いいから黙って見ててくれ」
部屋の炬燵やテレビ等、重量級の物体を精神力だけで持ち上げるのは不可能だが、この程度の物品を浮遊させるコツはほぼ掴んでいた。
呼吸を整え、手許の電子タバコに意識を集中させる。後は、自らの思念が物品全体に行き渡るのを待つばかりだ。壱八の場合、掌を翳す意味は、別にそこから念動力を発したりするのではなく、物体と肉体の距離を縮めることで、物体と精神との繋がりに視覚的イメージを持たせるためのものだった。
例によって、額の傷がチリッと締めつけるように疼いた。浮遊の映像が脳裏に閃く。
直後、シルバーの電子タバコは、二人の見ている前で宙に浮いた。メタリックな質感におよそ似つかわしくない、ふわりと軽やかな浮き方で。
それから額の疼きが和らぐまでの十数秒間、電子タバコはテーブル表面と掌との間で、見えない空気の層に挟み込まれたように静止し続けた。
向かいの様子を窺う余裕はさすがになかった。鏡面のようなテーブルに電子タバコが落下した後で前を見ると、さすがの実証主義者も上下の毛をパチパチぶつけ合わせ、壱八と己の所有物とを代わる代わる見比べていた。大賀飛狩のスプーン切断を目撃したときとも明らかに違う、何やら複雑な表情で。
説明可能なトリックで電子タバコを空中に浮かべたのだとしても、日頃の壱八ならこんなふざけた真似は絶対にしない。性格と行動パターンを把握しているからこそ、占い師は相手の行為に純粋に驚いているようだった。
「何か、巧いトリックの説明でも思いついたか」一仕事終えた表情で、壱八は背筋を張った。「これがただの妄想だとしたら、その被害者は俺独りじゃないことになる。お前も同じ妄想を見てるんだ。まやかしに過ぎないと一蹴するのは勝手だが、これも幻覚の一言で片づけるつもりか」
電子タバコを摘み上げた将門は、無言のまましばらく念入りに調べていたが、そのうち収穫なしといった顔で首を振って、
「ポッド型よりもスリムなスティック型なので、電子タバコの中では割と軽いほうなんですけど、そもそもトリックを仕掛ける時間がないんですよね。こっちはおろしたての未使用品ですから」
「まあ、そうだろうな」
「トリックや妄想を持ち出さなくても、説明の仕様はありますけどね」
妙な含みを秘めた言葉に、ずいと頭ごと身を乗り出す壱八。自分の能力を提示したことで取り敢えずは肩の荷が降りたようで、将門の反駁を楽しむ心のゆとりが生じつつあった。
「確率論の本にあったんですけど、わちきが今手にしているこれが、何の力も作用も受けずに手の上から舞い上がる確率、その確率が一体どれくらいなのか判ります?」
「ゼロじゃないのか」
「ええ。この電子タバコは、今のところ空気の分子で全体を押さえつけられているから、空気の圧力が均等に加わっています。わちきが手を離せば、当然重力で下に落ちるでしょうね。でも、電子タバコを上から押さえている空気分子が偶然稀薄になって、反対に下から押し上げる分子の数が物凄く多くなった場合には、当然宙に浮くんです」
「理論的にはそうかもな」
両眼の近くに電子タバコをちらつかせ、将門は続けた。
「これが宙に浮く確率は、結局のところ、上の空気分子が物体を押さえつけられなくなるほどに少なくなる確率、下の分子が地球の重力を撥ねつけて、物体を押し上げることができるくらい濃密になる確率と一緒なんです。すると、一体何年に一度の割合で、その現象が発生することになるのか」
電子タバコを握っていた手をパッと離す。重力に逆らえず、電子タバコはテーブルの上にゴトリと落ちた。
「十の百乗年に一度ほど頻繁ではないにせよ、十を十の百乗乗した数の年に一度よりは多い。それが答えです」
「十の百乗って、十を百回掛けた数だろ。一の後にゼロが……どれだけ続くんだ?」
「さあ。一説によると、全宇宙の電子の数より大きな数だそうです」
「じゃあ、二番目に言った訳の判らんやつは?」
「十の百乗を十の指数にした数ですね」
「何だそりゃ」
壱八は肩を透かされたように前へのめった。こんな言説で煙に巻かれてはたまらない。
「真面目に聞いて損した。トンネル効果かよ」
「君は自分の力で持ち上げたと信じているみたいですが、実際は空気分子の分布状況に突然ムラが出来て、ひとりでに浮き上がっただけなんですよ。十を十の百乗乗した数の年に一度以上、十の百乗年に一度以下の割合でね」
「あのなあ、だったら」
再び電子タバコを手に取ろうとして、壱八はふと考えた。何度この現象を見せても、同じことではないか。今みたいに言葉巧みにかわされるのが落ちだ。
ただ、壱八の奇矯な行動に少なからず関心を寄せていることは間違いない。信用を得るための切り札はまだ残っている。
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