三日前の面会が、随分と昔のことのようだ。実際には、面会から変わり果てた姿の南枳実を眼にするまで、二日そこそこしか経っていない。

 昨日途中で切り上げたフードデリバリー業務のことを考えながら、壱八はごろりと俯せに向きを変えた。打ち身の痣は未だ消えず、腕や脚の関節も時折軋るような音を立てた。自転車に乗る程度なら問題ないが、決して小さいとは言えないバッグを背負って荷物に気を配りつつ配達を続けるのは難儀だ。

 早めに別の仕事でも探しておくか。なるべくハードワークでないものを。

 淡い期待を抱きつつ、頬を畳に擦りつけたまま、左腕を炬燵テーブルの天板に預けた。そのままスマホのある辺りに手の先を彷徨わせる。届かない。全然見えないが、スマホはもっと奥か。腕は限界まで伸ばしている。体を横にずらさないと無理そうだ。

 いや、その努力を払うくらいなら、最初から上体を起こしている。今更そうするのはなんだか負けた気がして腹立たしい。

「届けよ、おいっ」

 反動をつけて指先まで真っ直ぐ伸ばした。歯を喰い縛った拍子に、額の傷が鋭く痛んだ。

「いたたた、ダメか」

 諦めて力を抜く。伸ばした腕が自然と戻る。

 天板のほうで、ガタガタと音がした。何か揺れているような。地震?

 違う。炬燵自体は揺れていない。畳に伏している自分も揺れは感じなかった。

 壱八はようやく身をもたげた。

 天板にだらしなく伸びた左腕の指先。

 その数センチ先で、スマホがひとりでに踊っていた。バタバタと波打つような挙動。マナーモードの振動でないのは明らかだった。触れてもいないのに、スマホは痙攣じみたダンスを踊り続けていた。

 おい、何だ、これ。

 持ち主の心境として一番近いのは、ベッド上でのたうち回る悪魔憑きの少女を見た、悪魔祓いのそれだった。テーブルの上で頻繁にぶつかり合う打撃音は、さながら悪魔の哄笑だった。ゴーストタッチに悩まされたこともまれにあったが、本体が勝手に動き出したことはついぞなかった。

 何がどうなってんだ。こんな動き、壊れたなんてレベルじゃないぞ。

 眼に映る光景も耳に入る物音も、常識の範疇を巧みに擦り抜けたかのようだった。

 痙攣の只中にあったスマホが、突如身を起こした。独楽の如き所作でクルクル舞ったかと思うと、次の瞬間、届くはずのない持ち主の手許に滑るように吸いつき、ぴたりと収まった。

「うわっ」

 触り慣れた滑らかな手触りに、思わずスマホを取り落とした。炬燵の上に落ちたスマホは、それきりピクリとも動かない。さっきまでの狂騒が嘘のようだ。

 ひょっとして、俺まだ、夢の続きを見てるんじゃないのか?

 今度は壱八が恐怖に慄く番だった。これまでに起こった諸々が悪夢の中の幻影だったなら、いつかは現実世界に戻ってくるはずだ。テレビやら何やらが直ったのも、スマホがひとりでに動いたのも、凡て脳内で作り出された見せかけの世界だったと気づくだろう。

 だが、今、壱八にその兆しは少しも感じられない。夢から覚める徴が現れるまで、その考えは取り敢えず保留しておくしかなさそうだった。一応のところ、自分は現実世界にいるのだと。

 両膝を突き、ゆっくり起き上がる。暢気に寝転がっている場合ではなさそうだ。ありえないことが、括弧つきの現実の中で現実化した。

 横倒しになったスマホに触ることもできず、ただ茫然としていた。指一本触れていないのに、生命が宿ったかのように、スマホが勝手気ままに動き出す。

 実際に眼にした後でも、易々とは信じられなかった。悪夢でないとしたら、これは一体どういうことなのか。

 一つの可能性が、最前から意識の片隅を幾度となく過っていた。不可解な現実を受け容れるべく考え出された、この上なく非現実的な可能性。

 テーブル上のスマホに、そっと手を翳す。ともすると荒くなりそうな呼吸を懸命に抑え、翳した右手をスマホの真上で停止させた。距離にして約二十センチ。さっきは寝転がっていたのでスマホと手の離れ具合が判らなかったが、恐らく今のほうが若干遠いだろう。その距離を保ったまま、壱八は心の中で念じた。

 動け。

 スマホはびくともしない。数分前の摩訶不思議な回転振動が、何かの間違いだったかのように。

 動け。

 スマホには何の変化も現れない。

 いや、当たり前か。

 やはりさっきのは、単に眼の錯覚と空耳と、あと触覚異常が一遍にやって来ただけだったのだ。念じるだけで動くなんて、そんな馬鹿な話あるはずもない。

「まあ、そうだよな」

 独白を洩らし、固くなった腕の力を壱八が抜いた瞬間。

 傷を負った額が、ぞっと疼いた。

 自力で起き上がるスマホの映像が、一瞬にして天地を結ぶ稲妻の如く脳裏に浮かんだ。外界と脳内イメージの直結。あるいは現在と未来の、か。

 直後、一度も床に下ろしていない壱八の手は、しっかとスマホを掴んでいた。

 声も出ない。驚きを示す声の出し方すら忘れていた。スマホが勝手に、手の内に吸い込まれた。そうとしか言いようがなかった。より正確に言うなら、スマホは所有者の額の痛みに呼応し、加えて心に浮かんだ映像を後追いする形で、ごく自然に掌に飛び込んできた。

 予想は的中した。壱八の思い至った可能性は、完全に実証されたかに見えた。が、ひとたび予想が的中すると、次は懐疑的な思考が立ち現れる。

 朱良の悪戯とか。

 あるいは妄想の一部とか。

 前者の考えで、スマホの暴走を説明するには多々問題がある。極度なご都合主義を押し進めて、人間の手の温度を感知できる高感度センサー内蔵の自動機械がスマホ内部に埋め込まれたと仮定する。朱良はその機械をいつどこで仕込んだのか。何故そんなことをしたのか。持ち主を驚かせるためだけに、こんな小細工を弄したのか。

 朱良本人に問い質さければ、一生涯に及ぶ難問となろう疑惑の数々。朱良以外の人間の可能性となると、最早一生かかっても答えの片鱗すら見つけられそうにない。

 妄想に過ぎない説は、要するに悪夢と一緒だ。全面的な解決には程遠いが、確かにこの奇妙な事象の説明にはなる。

 そこで壱八は別の対象を使って、再度実験を試みた。どこで買ったのかも忘れた文庫サイズの実用書を炬燵の中央に置き、同じ要領で左掌を表紙に翳してみる。カバーもなく、泥汚れの跡がいかにも見苦しい文庫本は純粋なパルプ製、機械細工の施しようもない。内側のページも一通り確認してある。

 結果、文庫本は不自然に数回波打った後、手を翳した壱八の眼の前で、炬燵の天板から最大五センチほども浮き上がった。その間、額の傷口は文庫本の努力に報いるように熱っぽく疼き続け、浮き上がる直前、壱八の心象には同様の映像が閃光の如く立ち現れた。

 こうして、朱良の悪戯説は呆気なく覆された。

 右手でも試してみた。結果は同じだった。左右の別なく、額が疼けば文庫本は自由奔放なダンスに打ち興じた。

 妄想説も保留するしかなかった。採用したところで何の進展もない。自らを袋小路に追い詰めるだけだ。

 眼前でスプーンを折り割った青年の姿が、昏迷寸前の意識に揺らぎながら溶けていった。

 俺は、異能力を身につけちまったのか?

 いくら打ち消そうと躍起になっても、眼の前で展開された実例の数々が、壱八の最終結論を絶えず補強し続けた。テレビが直った。炬燵も、腕時計も直った。それは何故か。

 異能力を身につけた壱八の手が、故障した部品を知らず識らずのうちに修復していたからではないのか。

 神威の使い手塞の神紀世が、セラピューティック・タッチなる手法で身体の異常を治していた。そんな朱良の言葉が思い出された。

「これが、それなのか?」

 いや、まさか。

 手翳しだけで患部を治癒するなんて、常識ではおよそ考えられない。むしろ、患者が勝手に治ったと思い込み、思い込んだがために本当に患部が治ったのだとする〈病は気から〉的な理由のほうが、解釈としてはよほど健全だ。

 では、テレビや炬燵といった電化製品が元通りになったのも、スマホや本が外的な力を受けることなく宙を舞ったのも、全部思い込みに過ぎないのか。念動、サイコキネシス、テレキネシス。呼び名は問わないが、直接手に触れていない物体を思いのままに操る物質移動の能力も、所詮壱八の意識内の出来事でしかないというのか。

 思考の行き着く先は一つ。そもそもの原因は、昨晩、将門と共にプロデューサーのマンションへ赴いたことだ。

 恐らく南枳実を殺害した犯人は、部屋の覗き窓から外廊下にいる壱八たちをこっそり窺っていたのだろう。将門が去り、残された壱八が眼を離した隙に犯人は部屋を飛び出し、先手を打って壱八を階段下に突き落とした。最低限の受け身すら取れず、壱八は踊り場の床に額から落ち、気絶した。

 多分、頭の打ち所が絶望的に悪かったのだ。眼にした映像の情報を受け取る知覚連合野と、触れた物体の感触を司る感覚野が、頭部への衝撃を機に同時に狂ったのに違いない。額の傷口が痛むたびに、歪んだ脳髄が壱八に様々な幻覚を見せているのだろう。

 信じたくはないが、そうすると、壊れていたのは結局壱八のほうだったことになる。

「やっぱり、妄想なのか」

 無性に部屋の外に出たくなった。

 独りきりでいることに、これまで一度として厭わしさを感じたことはないが、今日だけは特別だった。孤独が恐ろしい。重苦しい沈黙にも耐えられそうにない。このまま独りで部屋に籠っていたら、本当に発狂しそうだ。外の空気を吸って、気持ちに整理をつけたかった。

 立ち上がってテレビを消し、腕時計を掴もうとテーブルに手を差し伸べた。

 額の真ん中に、キリッと引き攣れる感覚。

「まさか」

 気がつくと、腕時計は手の内にあった。腕時計が手に届くまで、まだリーチ以上の距離が残っていたのに。

「重症なのかな、俺」

 今日になって、急に独り言の数が増えた気がした。仕事探しのことは、完全に脳の記憶域から追い出されていた。

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