事件の真相4

 相手が電話を切る音が聞こえた後も、彼女はしばらくスマホから眼を離すことができなかった。空いたほうの手に握られた裸のIC定期券が、相も変わらず小刻みに震えていた。

 業界に名を馳せる敏腕プロデューサーは、今や明らかに怯えていた。疲労の溜まった吐息と共にようやく手帳型のスマホケースを閉じた。

 その日は朝から良くないことが続いた。来月初頭、極東テレビ内で放映される生放送バラエティのプロデュースを担当している彼女は、気難しい出演者らとの顔合わせを午前中に控え、充分な時間的余裕を持ってマンションを後にした。

 何の段差もない平坦なところで躓き、久しぶりに履いたハイヒールの踵が片方折れた。一番のお気に入りだった。

 仕方なくナンバー・ツーのハイヒールに履き替え、駅に向かった。改札の前でバッグに手を入れ、いつも同じ場所に入れているIC定期券が、今日に限ってどこにもないことに気づいた。地面に落とした? でも、それならすぐに気づいたはずだ。定期を収めた革のケースには、金色の大きな鈴を付けておいたのだから。うっかり部屋に置き忘れたか。

 今更引き返すのも億劫だ。彼女はこれまた久しぶりに券売機で切符を買って電車に乗ることにした。

 人身事故の影響で、利用するつもりだった私鉄線はダイヤが大幅に乱れていた。満員電車の中、押し潰されそうになりながらドアにへばりついていると、横にいた一目で泥酔状態と判る血色の悪い男が、彼女の足許に向かって嘔吐した。男からは謝罪の言葉もなかった。

 打ち合わせにはどうにか間に合ったが、出演予定者の一人がいつまで経っても姿を見せず、ギャラに不満があるので出演を取りやめたいという連絡が、やがて彼のマネージャーを通じてプロデューサー以下スタッフらの耳に届いた。

 再度マネージャーとギャラ交渉の一方で、万一に備えスケジュールに空きのある別の芸能人にも声をかけねばならない。頭を悩ませる難題も増えることしか知らない仕事も、依然として尽きるところがなかった。

 弱り目に祟り目とはよく言ったもので、忙しいときに限って狙い済ましたように警視庁の刑事が事件の取り調べと称して仕事の邪魔をしに来る。いつ見てもスーツ一着まともに着こなせない、津村という年齢不詳の刑事だ。〈ガダマダ〉のことを色々嗅ぎ回っているようだが、刑事特有の嫌らしい尋問は、生放送のことで頭がいっぱいの彼女を死人たちのプロデューサーという事実にしばしば直面させた。

 それでも普段と比べて四半日も早い時刻に仕事は終わり、心の疲れを癒そうと行きつけの個室付き料亭に足を運んだものの、店先には臨時休業の立て札。ならばとテレビ局近くの大型書店に引き返し、以前から眼をつけていた文芸書を探してみると、前来たときには三冊あった目当ての書が、今日は一冊もなくなっている。

 波のように押し寄せる疲労に、他の書店に向かう気にもなれず、履き慣れぬハイヒールで草臥れた足首をマンションの自室でゆっくり休めることにした。

 しかし、帰宅した彼女を待っていたのは、安らかな休息を部屋の主に与えてくれるはずの、いつもと変わらぬ見慣れた四〇一号室ではなかった。

 スマートロックのキーを開けて室内に入ると、何やらリビングのほうで物音がする。開け放たれたリビングの戸から聞こえていたのは、電源を入れたままのテレビの音声。出かける前に切るのを忘れたかと、深く考えもせず寝室に向かおうとした彼女は、そこで妙なことに気づいた。

 室内に吹く強い風。リビングの窓が全開になっていた。

 思わず声を上げそうになった。単純な締め忘れとは訳が違う。朝起きてから部屋を出るまで、絶対に彼女はその窓を、一度たりとも開けていないのだから。

 慌てて窓を締め、急に不安に駆られた彼女は、残りの部屋も調べてみることにした。

 キッチンにある押し上げ式の窓、浴室の磨りガラスの窓、それからベランダに通じる寝室のガラス戸まで、室内にある窓という窓が、凡て開け放しになっていた。

 泥棒?

 今日一日で積もり積もった苛立ちが、彼女を恐怖にではなく、更なる憤慨の境地へ押しやった。

 寝室のガラス戸を乱暴に閉め切り、部屋中隅々まで調べて回った。不思議なことに、窓以外は何の異常も見当たらない。侵入者の姿のみならず、何かが盗まれたような形跡さえなかった。

 果たして本当に換気だけして去っていったのか。何とも珍奇な現象だが、無断で押し入られたことに変わりはなく、腹立たしいことにもむろん変わりはない。彼女はリビングのロッキングチェアに投げ出したバッグから、二日前に手渡された一枚の名刺を取り出すと、手帳型のスマホケースを開いて名刺に印刷された電話番号を軽やかにタップした。仕事の邪魔にしかならない警察に電話するのは、大いに躊躇われた。身近な人間に連絡するのもやめておいた。自分のことをよく知る人々が自分をどう思っているのか、おおよその見当はついていた。大して親しくない人間のほうが、気休めになる場合もある。

 相手が電話に出るのを待ちながら、ふと視界の隅にチカチカした動きを認めた。固定電話のボタンの明滅。留守番電話にメッセージが吹き込まれている。

 その真横に置かれたICカードに気づくまで、ものの数秒とかからなかった。

 定期入れから抜き取られた、裸のIC定期券。取り分け彼女の眼を惹いたのは、中央に大きく印字された有効期限日の上に赤のマーカーで記された、〈4〉という数字だった。

 何これ。何なの?

 晴天に突然沸き起こる雷雲の如く、心はにわかに曇っていく。

 受話器の向こうでは、最前から誰何の声が盛んに発せられていた。先日耳にした、艶っぽい低い声。幸いにも、美貌の占い師は在宅中だった。

 己の名を告げ、ここに来てもらうよう頼み込む。理由は敢えて伝えなかった。部屋の変状を打ち明けても、相手がその話題に興味を示さなければ意味がない。思惑は的中した。開示情報を最小限に留めたことで、占い師は却って好奇心を掻き立てられたようだった。

 だが、電話を切った後も、心は晴れなかった。むしろ更なる暗闇に落ち込みそうだった。

 定期券に書かれた赤い〈4〉の文字。どういう意味だろう。侵入者の単なる悪戯か、あるいは悪意の象徴か。それに定期入れのほうは、どこに消えたのか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る