終ノ章 タオの記録書

黎明の書簡

 十一年前。

 青庁の官吏、ジンは一縷の望みを抱いて元上官であるファン宅を訪れていた。

 青庁を退官後、南方の漁村に移り住んだと聞いていたが、訪ねるのは初めてだった。

 村で子供相手に読み書きを教えて暮らしているようで、ファンの名を出すとすぐに家が分かった。

 都にいた時は立派な屋敷を構えていたが、教えられた家は小さく簡素なものだった。

 そのため、本当にこの家かと様子を伺っていると、家の中からファンが姿を現した。

 ジンに気づくと破顔し、変わらず温かに迎えてくれた。


「懐かしい顔だな。ジン、少し痩せたか?」

「……ご無沙汰して申し訳ありません。お元気でしたか?」

 家に通されたが、客間のようなものはないため、縁側に並んで座した。

 奥方の姿は見えず、茶も濃くて渋いものが出た。


「私はこの通りだ。子供相手にしてると若返るぞ」

 笑って背筋を伸ばすファンだったが、「それで? 何を悩んで来たんだ?」と見透かすように目を細めた。

 ドキリとして、ジンはファンの顔を見つめたが、敵いませんね、という風に視線を手元の茶に落として、ここに来た目的を話すことにした。


「実は……黄庁で大規模な改竄が以前より行われていたようなのです」

 そう切り出すと、ファンの表情が硬くなった。

「今の庁官と他に数名程、それを黙認しています。ただ……改竄前の記録書は密かに保管しておりますが、保管しているだけでそれが日の目を見る時は来ないような気がします。それ程までに黄庁の権力が大きく深くなっております。青庁の一官吏として……このまま庁官に従って不正に目を瞑って行くべきなのでしょうか」

 ジンが顔を上げると、ファンは硬い表情で視線を落としていた。

「……ジン、庁官も目を瞑りたくて瞑っておいでなのではない。青庁として声を上げれば、命の危険がある。それ故、目を瞑らざるを得ないのだ。家族を思うなら今の上官の言う通り、目を瞑り、口を閉ざしなさい。それが賢明というものだ。だが、ジン、青庁の官吏としては知ってしまった不正を放置してはいけない。それは王宮を内側から蝕む病と同じだからだ。やがては王宮全体を滅ぼしかねない」

「ファン殿も黄庁の不正をご存知でしたか」

「私が庁官を務めていた頃から不正はあった。私がこの村にいる理由も実はそれだ。青庁としての責務を果たそうとして、命を狙われた。都から遠く離れたこの村を選んだのはここが漁村だからだ。いざとなれば船で逃げるつもりだ。それにこの村は余所者が来れば、すぐに噂になる。だから、私がこの村にいることは庁官にしか話していなかったのだがな」

「そういった事情があったとは知らず……私が無理にお聞きしたのです。病を理由に退官されたのは、やはり嘘だったのですね」

「嘘とは人聞きが悪いな。病を患ったのは本当だ。夏風邪だったがね」

 そう苦笑してみせるファンだったが、やはり表情は硬かった。

「……命の危険があることは承知しております。白庁の監査で見つけた文書に不審なものがありました。医官が事故死した際の検死報告書でしたが、空白が多く、書かれていることも少なすぎました。事故死ではないのだと……医官ではない私にでも分かるような文書を誰もおかしいと指摘しませんでした。その医官は王様に出す薬について何か意見したことがあるようでした」

「まさか……」

 ファンは眉間に皺を寄せ、言葉を飲んだ。

「……庁官も命が惜しければ口を噤みなさいと仰いました。不正の証拠となりそうな文書は保管しておりますが、保管しているだけでは何も変わりません。どうすれば……王様をお救いできるでしょうか」

 ジンの問いにファンはすぐには答えられなかった。


 自分はそこから逃げた人間だ。

 その私に真っ直ぐに問いを投げかける若き官吏に一体何を言えるだろう。


 ファンは眉間の皺を深くし、しばし黙して考えた。

 ジンもその間、黙したままファンの答えを静かに待った。

 日は真上に高く昇り、潮風が一陣吹き抜けると、そこに何処かの食事の匂いが混ざっていた。


「……食事をしてから話そう」

 ファンが腰を上げると、ジンは俯いた。

「青庁の役目は何なのでしょう?」

 呟いたジンの声音にファンは動きを止める。

「各庁が正常に機能しているか、不正の芽を摘むための庁であったはず。それが目を瞑り、口を噤んでしまうなら、一体何のために私達はいるのでしょう?」

「ジン……」

「口封じに殺されるかもしれません。でも、私達が恐れていては闇は大きく広がって行くばかりです」

「ジンッ、分かっている。皆それは分かっている。だが、自分だけでなく家族、果ては一族郎党にまで累が及ぶ。それ故、手も足も出ぬのだ」

「ですがっ……ですが、誰かが止めねば。もっと命を奪われる事態になりかねません。大樹の話をお忘れですか? ファン殿が青庁の試験合格者にする話です」

 ジンの言葉にファンは渋い表情になる。


 忘れる訳はない。

 かつては誰もが理想を抱いていた。


「人生とは一歩毎に幾つも枝分かれする大樹のようなものだ。何を選択するかでその後、辿り着く場所は変わる。普通は日の当たる場所へ枝を伸ばすものだが、根が腐ると明後日の方向へ枝を伸ばす。我々青庁の仕事とは広大な森林から腐った深い根を持つ一本の樹を見つけ、尚且つ伐採するか否か判断する。樹に例えたが、実際は飢えた狼や血の味を占めた獰猛な虎を相手にするという途方もなく危険なものだ。だが、最高難度の試験と家柄や人柄などで選ばれた人間だけがなれるという名誉と監査の目的なら例え王の寝所でも出入り可能という特権が与えられている。青庁ここは相手が何か知らされずにそれに釣られて来た阿呆の集まりだ」

 青庁の試験合格者を前にするお決まりの例え話だ。

 ファンが庁官であった頃、毎回その話をして若き官吏達の夢を打ち砕いた。

 青庁は厳しい職務だ。

 他の庁の不正を監査するのだから、基本的に歓迎されない。

 重箱の隅を突くような細かい作業が多い。

 他の庁に比べて合格率が良いものだから、気軽に受ける者も多いが、それは辞める者が多いのが理由だ。


 ジンもまた青庁に入った時はまだ若く、まだ世の中の醜い部分を知らずにいた。

 王宮とは美しく荘厳華麗な世界を想像していた。

 暗く深い迷宮と気づいた時には既に出口を見失っている。

 見失って迷った先に縋ったのがこのファンだ。

 しかし、そのファンもまたこの暗い迷宮の闇に飲まれていた。


「……大樹だけでなく、獰猛な獣の話もしたと思うが? 危険な職務であると最初に教えた。それに王の寝所に入ったことは青庁の歴史で一度もない。特権があるというだけで行使した例はないのだ。どこにでも入れるようでいて、実際はそんな権限など無いに等しい。無力だと分かって、私の所に来たのだろう? 私にも守りたい者がいる。それ故、退官した私に今更縋っても無駄だ」

 ファンは吐き捨てるように言ったが、言い終えてふと今の言葉はジンへ向けてというより自分に向けて言ったような気持ちになった。


 権力を手にした者に立ち向かえる程、青庁は強くはない。

 そう悟った時、心が折れた。

 若き官吏らに教え諭して来たが、その言葉が全て絵空事に感じた。

 正義が正義として機能しない世界もあると知った。

 けれど、それでも目の前のジンは自分を頼って必死になっている。

 死の危険もあるというのに、無謀にも立ち向かおうとしている。

 庁官まで務めた自分が一介の官吏が正義を訴えているのに突き放すのか?


 ファンは見上げて来るジンを見下ろした。

 その瞳はまだ諦めていない。

 説得しようと言葉を探している。


「……『紙の墓所』はまだあるのだな?」

 ファンがそう問いかけるとジンは「はいっ。今は主に私が管理を任されております」と力強く答えた。

『紙の墓所』とは青庁の書庫の一つ、その奥にある部屋のことだ。

 廃紙の集積所の一角に証拠となる改竄前の文書などを密かに集めて保管している。

 紙の集積所は各庁にあり、一定期間集めた紙を決まった日に廃棄する。

 廃紙に紛れ込ませていれば証拠を保管しているとは分かりにくい。

 捨てるべき物と保管すべき物の区別は書庫の管理者が担えば、他の官吏にも秘密にできる。

 この場所を作ったのはファンだった。

 自分が退官後も集められ続け、管理されていると知り、意志が受け継がれていることを知った。

 作った時、いつか日の目を見させようと決意したのを思い出した。


「……不正の証拠を積み重ねて来ていると言ったな? それをお前が背負うのではなく、信頼できる力ある者に託すというのはどうだろうか?」

 ファンは覚悟を決め、そう切り出した。

「私の知る限り、今の王宮にそのような者はおりません。王宮内の至るところで不正が横行しているのです」

 ジンが悲痛な表情で首を横に振った。

「分かっている。私に一人、心当たりがある。その御方ならきっとお力になってくださるはずだ。説得は私がしてみよう。お前は証拠を集めて一つにしておきなさい。説得ができたら私からまた文を出そう。退官した私がお前にしてやれることはこれくらいだ。だがな、なかなか簡単にお会い出来るような御方ではない故、説得はしてみるがあまり期待せずにいて欲しい」

 出来得るなら自分には成し得なかったことをジンに託したい。

 ファンはそう考えた。

 口では難しいかもしれないとは言ったが、例えそうだとしても必ず直接会い、説得してみせる、と心に誓った。

「その御方というのは……どういった方で?」

「実のところ、私が青庁にいた頃に数度お会いしたことがあるだけで、そう面識がある訳ではないのだ。とても正義感の強い御方ではあるし、信用できる御方ではあるのだが……」

 言い淀むファンの様子にジンは何か事情があるのだと察し、それ以上問うのは止めた。

「では、お会いできると決まった暁には文を頂けますか?」

「ああ、分かった。今宵はうちに泊まって行くだろう? そろそろ妻も戻る頃だ。こちらでは女性はあまり裁縫をしないらしく、妻が教えたり、代わりにやることが増えてね。私より働いているよ」

 笑うファンにジンは立ち上がって、荷を背負った。

「有難いお言葉ですが、急ぎ都に戻らねばなりません。久し振りにお会いでき、相談に乗って頂いて……」

「今からだと宿を探すのも苦労するぞ。この辺りは盗賊は出ないが、野犬や獣が出る。虎や熊のような獰猛なのはいないが、それでも群れで襲って来られでもしたら……」

「宮仕えとはいえ、私のような下っ端はお遣いに出されることもございます。それにここまで辿り着けたのですから、帰り道も心得ておりますよ。むしろ行きは迷いながら来ましたが、道が分かったので迷わず帰れます」

 ジンが笑うとファンは「そうではなく……」と言葉を探した。

「分かっております。お心遣い感謝致しておりますが、体の弱い妻と幼子を残して来ておりますので……」

 ジンがそう言うとファンは「ああ」とジンの事情を思い出して納得した。


 そうして二人はまた文を交わす約束をして別れを惜しみつつ、ファンはジンの背を見送った。


 都にあるジンの家と南方の漁村にあるこのファンの家とは、大人の男の足で五日程度の道程だ。

 往復で最低でも十日家を空けることになる。

 不在の間の妻の体調と子供たちの様子が気になり、ジンの足は自然と急ぎ足になる。

 漁村を出て潮風が遠ざかって行く。


 ファンの家を後にして四日目。

 そこまでは点在する村で運良く休めたお蔭で体力もまだ残っていた。

 都までは小さな森一つを抜けるだけ、というところまで帰って来た。

 小さいとはいえ、抜けるまでに半日以上かかる。

 道はあるといえばあるのだが、真っ直ぐ抜けるのではなく、地形の関係で少し遠回りになっている。

「真っ直ぐ行けば夜の間に家に着くな……」

 森の入口で既に日が暮れ始めていたので少し迷ったが、ジンは最短距離を行くことにした。

 行きは昼間に道を歩いて来たが、少しでも早く家に帰りたかった。

 夜の森を歩いた経験はある。

 それにファンも言っていたが、この辺りで盗賊や獣の被害が出たという話は聞いたことがなかったのもジンの背を押した。


 だが、倒木や大きな岩、蔦や棘のある植物で行く手を遮られることが多々あった。

 道が迂回している理由がよく分かり、ジンは最短と思ったが迂回した方が安全に早く家に着いたかもしれない、と後悔し始めていた。

 距離は短いはずなのに予想よりずっと時間がかかり、森の中で夜を迎えてしまった。

 大きな岩に寄り掛かって座り込み、その辺の小枝を集めた焚火を作った。

 空を仰いだが、生い茂る木々に星空も見えない。

 獣や鳥、虫の声すら聞こえない。

 風も止み、木々の葉が揺れる音も聞こえない。

 とても静かな夜だった。

 ただ、そこに焚火の火が爆ぜる音が響き、さらにジンの溜息が混じった。


 どこから来てどこに向かえば良いのか。

 暗闇の中で方向感覚を失いかけていた。

 方位磁石を取り出して、向かうべき方向を確認する。

 同時に焚火の火に照らされた自分の手を見つめる。

 細かい傷ができていた。

 傷を見るまでは痛みを感じていなかったが、気付いた途端、じんわりと痛み始めた。

 衣の袖も所々破れている。


 あと少しでこの森を抜けられるはずだ。

 そうすれば都まで数刻で着く。


 そう自分を奮い立たせ、ジンは松明を作り、再び家路を急ぐ。

 森の中に入ってから方向感覚も時間の感覚も麻痺していた。

 方向は方位磁石で時折確かめていたので、完全に失うことはなかったが、月も見えない夜の森では永遠に夜の底にいるような気がしていた。


 しかし、少し歩いたところで蔦も棘もなく、倒木も大きな岩もない、歩きやすい場所に出た。

 森の出口が近いのかもしれない。

 そう安堵した気持ちが天に伝わったかのように一条の光が射した。

 黒一色の世界が徐々に色を取り戻して行くように、夜の深い闇を夜明けの光が徐々に消し去って行った。

 黒い世界に同化していた者の姿が浮かび上がると、ジンは死を覚悟した。


 三十、いや五十以上の人影が地面に転がっていた。

 微かに呻き声が聞こえたが、すぐにそれも聞こえなくなった。

 その真ん中に一人だけ佇む黒装束の男。

 手には剣が握られており、血が滴っていた。

 肩で大きく息をする姿は獰猛な獣よりも恐ろしく見えた。


 後にこの男が『死神』と呼ばれる凄腕の暗殺者のライだと知るのだが、この時はたった一人で屍の山を築いた不穏な男でしかなかった。

 凄腕の暗殺者であっても化け物ではない。

 人間である以上、体力の限界もあるし、多勢に無勢で無傷とはいかない。

 瀕死の男との突然の出会いに、この場から一刻も早く逃げ出すのが賢い選択であるはずが、ジンは男を助けることを選んだ。

 その上、追われていると知ると、妻子の待つ家に連れ帰るという選択までした。


 ジンは他者が思う程、自分を清廉潔白だとは思っていない。

 正しくあろうと努力はしている。

 けれど、自分の信じる正義を貫くことが常に正しいことであるとは限らないことも知っていた。

 そして、家族であろうと他者には見せない欲が腹の底にあることも自覚していた。


 たった一人で数十人を倒した。

 この時、ジンが男について知っているのはその一点だけだった。

『恐ろしく強い者』というその一点でジンはこの男を自分と家族を守る護衛にと考えた。

 黄庁の不正に立ち向かうと決意し、かつての上官に会って希望が見えたその帰り道にこの男と出会った。

 これは超自然的なことを信じないジンに『運命』を感じさせた。

 神の導きだとさえ思えた。


 男はそんなジンの思惑など知る由もないため、ジンの選択と行動に戸惑った。

「なぜ助けた?」

 当然の疑問を男は口にした。

「怪我をされていたので」

 ジンは淀みなく答えた。

「死体の山を見ただろう? お前を殺そうとしたのが分からなかったのか?」

 男はさらに怪訝な表情になる。

「それは……分かっていましたが……でも目の前で死にかけているのを放置するのは寝覚めが悪いですから」

 それは本心ではあった。

 だが、一番の理由ではない。

 自分がこんなに嘘を真のように話せる人間だとは知らなかった。

 ジンは自分の内側が黒く染まっていくような、そんな不思議な感覚に襲われた。

 それは煙のように口から中に入って、腹の中でドロリとした液体に変わるような感覚だった。


 ジンは家族にも初めて嘘を吐いた。

 血塗れの得体の知れない男を家に連れ帰った時、妻のリレンは事情を訊くよりも先に医者を呼び、手当てすることを優先した。

 まだ幼い子供らも流石に警戒はしていたが、父であるジンを信頼して男を追い出そうとしたり、無下に扱うこともしなかった。

 改めて良い家族だとジンはしみじみと思った。

 そんな家族にも滑らかに嘘を吐いた。


 そんなジンを見て男は警戒を解き、ジンを殺すことを止めた上、使用人として住み着くことになった。

 それは獰猛な獣を飼い馴らしたような、優越感に似た不思議な心地良さがあった。

 それと同時に命を預けられる真の友を得たような力強さもあった。

 思えばそのような友はこれまで周囲にいなかった。

 幼い頃から体を鍛え、人を殺す腕だけを磨いて来た男と、貴族として何不自由ない暮らしをし、勉学だけに励んで官職に就いた自分とでは世界が違い過ぎた。

 それ故、考え方も視点も何もかもが違って、会話をするだけで新しい世界が見られることがジンには良い刺激であり、楽しみになっていた。


 男の怪我は瀕死の状態ではあったが、すぐにジンが止血したこと、家に着いてすぐ医者を呼んだことが幸いしたのと、男の鍛えられた体躯もあって、一週間程度で起き上がれるまでに回復した。


 動けるようになってすぐ、男は暗殺者の『死神』から使用人のライとなるために、暗殺稼業から足を洗った。

 ライは知人に頼んであの森で死んだことにしてもらったというだけで、ジンにも詳しくは語らなかった。

 暗殺者というのは依頼を受けて人を殺す稼業ではあるが、その世界で名を馳せる程、自身もまた別の暗殺者から狙われる存在になるのだという。

 ジンが遭遇した森での出来事は、別の暗殺者が依頼を独占する為に『死神』の称号を奪おうと仕掛けた罠だった。

 暗殺の依頼をする者はそう多くない。

 大金が必要となるし、基本的には政敵を消したいと願う王宮で働く者、主に黄庁の高官が主で、次いで貴族同士の争いが時々ある程度だった。

 需要は少ないが供給する者がそれを上回るため、暗殺者同士の殺し合いはよくあることだった。

 それ故、異名を得る程、命を狙われる機会も増えていく。

 ライはそんな日々に少しばかり疲れてもいた。

 死んだという噂は数日で暗殺者達の間に浸透した様子で、ライは初めて平凡で平穏な日々を手に入れた。

 そう思っていた。


 ジンもまたライを家に入れたことを少し軽率だったかと思ったが、ライは使用人としても優秀だった。

 妻のリレンがすることをよく見ていて、覚えも早い上、細かいことにもよく気づいた。

 動けるようになったとはいえ、傷が完全に癒えた訳ではなく、医者の見立てでは完全に回復するまでには半年はかかるということだった。

 最低でも一カ月は安静にする必要があると言われていたが、ライは家の中のことを手伝ったり、ふらりと何処かへ出掛けて行ったり、じっとしている所を見なかった。


 森での出会いからちょうど二月ふたつきが経った頃。

 家族が寝静まった深夜、眠れずに庭に出たジンの気配でライも起きたのか、眠っていなかったのか、様子を見に出て来た。

「そういえば、旦那様は青庁の官吏だと仰っていましたが、青庁とはどういった庁なんですか?」

 ライは使用人となってからは丁寧な物言いをし、ジンを『旦那様』と呼ぶようになった。

「簡単に言えば、他の庁が不正を行っていないか、監視する役目を負っている。政というものはいつの時代も清く正しかったことは一度もない。監視する庁が作られても機能していたのは初めの頃だけだ」

 ジンが自嘲気味に言うとライは少し間を置いて「命を狙われたことは?」と問うて来た。

 一瞬驚いたが問いの意図が分からず眉間に皺が寄る。

「不正を行う側からすれば監視する者は疎ましい存在でしょう? 消したいと思うのが普通です。暗殺の依頼の八割は黄庁の高官からの依頼でした」

 ライの補足の説明にジンはライが暗殺者であったと思い出した。

 完全に忘れていた訳ではないが、近頃は使用人として接していたのと、実際に殺しの現場を見たことがなかったので、失念していたのだ。

「……過去にはあったようだ。でも私は一介の官吏だ。大した事は成していない」

 ジンはそう答えた。

 不正を暴こうと動いていることは話せなかった。

 それを話せばライを助けた理由を正直に話さねばなくなる。

 それはジンの腹の底の黒く淀んだ物を曝け出すようで怖かった。

「ですが、何か悩んでおられるようにお見受けしますが……」

 ライは勘が鋭い。

 普段通りにしていたつもりだったが、気付かないうちに顔に出ていたのか。

「リレンは心臓が悪くてね。薬代が高価なんだ。貴族といってもうちは裕福ではなくてね……」

 嘘ではない。

 妻に苦労をかけていることは常日頃から申し訳なく思っている。

 だが、それは悩みではない。

 悩んでいるのは『紙の墓所』にある紙の束についてだ。

 だが、ライはそれで少し納得した様子を見せた。


 元上官のファンから数日前に文を受け取った。

 だが、内容はファンが言っていた『ある御方』に連絡を取り次いで貰えるよう、連絡係と交渉しているところだが、『ある御方』は体調を崩されており、お返事が頂けるのは少し先になりそうだということだった。

 その文の返事をジンはまだ出せていない。

 いつもならすぐに返事をしたためていた。

 まだ書けないのは『ある御方』が誰なのか、なんとなく分かった気がしたからだ。

 体調を崩している力のある人物。

 ファンが頼みの綱に選んだのは、あろうことか王ではないか、とジンは推測、というよりはほぼ確信している。

 ファンは青庁の庁官であった頃、王に重宝されていた。

 書が達筆であったことを買われ、王に書の指導をしたことがあった。

 歴代の王は全てを祐筆に任せていたが、現王は大事な文などは自身で筆を執るようにしていた。

 それ故、王の所に届く書状は内容は当然だが、書の美しさも見られていた。

 ファンと王の接点はある。

 書の指導だけでなく、青庁の庁官として王政の在り方などの議論もしていたと聞く。

 ジンは直接王に直訴するのだと思うと、期待が膨らむと同時に急に怖気づいた。


 ライと出会って半年が過ぎた頃。

 季節は秋に変わっていた。

 ファンから漸く『整いましたので香月楼にて待つ』という短い文が届いた。

 末尾に日時とファンという差出人の名が書かれただけで、近況報告や様子を伺う前置きめいたこともなく、ファンらしからぬ内容だった。

 余程急いでいたのかもしれない。

 また場所が高級妓楼であることにも違和感はあった。

 だが、黄庁の高官らが密談に使用していると聞いたことがある。

 密談に向いている場所だと知っていて選んだのか、と納得した。


 ジンは太白村へ家族を密かに移すことをライに話した。

 ちょうどその頃、リレンが体調を崩しがちになり、床に臥す日も増えていた。

 日中、家に子供らとライしかいないため、王立の医療施設がある太白村へ数日程療養させる、と説明するとライは納得した。


 十一年後。

 ライはシンとスウォルにタオの記録書を渡した。

 将軍の座に返り咲いたコンがライに渡したものだった。

 本来持ち出し禁止であるが、王となったヨウとヨンの特別な計らいで一時的に貸し出し許可が下りたのだ。


 二人は神妙な面持ちで一緒に並んで書を開き、そこに書かれている文字を一字ずつ噛みしめるように追った。

 なぜ二人の父、ジンが殺されなければならなかったのか。


 タオの記録書にはジンが数日休みを取って都を離れたと知り、どこへ向かったのか調べさせたところ、元青庁庁官であったファンに会いに行ったことが分かった。

 そこで二人に密かに監視を付け、文のやり取りをしていることを知ると、その内容を途中で盗み見させ、内容を報告させていた。

 ファンから送られた文でジンと何者かを会わせようとしていることを知ったが、相手の名は記されていなかった。

 それに対するジンの返信は直接お会いできなくとも訴えを書状にしてファンから渡して頂くことはその方に失礼でしょうか、と問うものだった。

 そして、それにファンは書状よりも直訴する方が正確に伝わるので、ファンが直接都に出向いてその方にお会いしてみる、とあった。

 だが、その文はジンには届かなかった。

 それは途中で盗まれ、タオに届けられた。

 ファンはその文を出してすぐ都へと発った。

 その道中、タオが放った刺客によってファンは殺された。

 そして、ジンにはファンの筆跡を真似て偽の文を送り、香月楼に誘い出した。


 その事実を知ったシンは唇を噛み締めた。

 あの時、父の後を追いかけたシンは病床の母を置いて妓楼に入って行く父の姿に絶望し、怒りが込み上げていた。

 誰よりも家族を大切にし、愛していた父が酒色に溺れるはずはないのに、なぜそんな風に思ったのか。

 何の疑いもなく、父に怒りを抱いたのか。

 シンは父が殺されたのは命懸けでタオに立ち向かった結果だったのだと改めて実感し、拳を強く握り締めた。


 一方、スウォルは父が誰と会おうとしていたのかが分かり、そしてその人物もまた殺されていたことを知った。

 一体どれだけの人を不当に殺して来たのか。

 父がこのような者に立ち向かおうとしていたことを誇らしく思った。

 そして、もう二度とこのような者が現れないよう、また父のように声を上げる者が不当に殺されるようなことがないよう、守れる存在になりたいと思った。

 父のためにも父が理想とした国になるよう、父の名に恥じぬ生き方をすると心に誓った。


 あの初秋の夜。

 ジンは香月楼の一室に案内され、ファンを待っていた。

 襖が開き、現れた人物にジンは驚いて立ち上がったが、素早い動きで背後を取られ、右耳の裏近くを針のようなもので刺された。

 遠のく意識の中、ジンはやはりあの文はファンからの物ではなかったのだと知った。

 そして、家族の顔が、リレン、シン、スウォル、それからライ。


 ああ、どうか。

 神は信じないが、死神には祈ろう。

 私の代わりに家族を守ってください。

 やはりあの森での出会いはこのための『運命』だったのだ。

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