第190話 十八歳だった その1
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俺達はうっすらと埃の積もった縦階段を4階まで登っていく。
ここに来るのは、一体いつぶりだろうか?
築数十年を超えるであろう昭和の香りがプンプンする都営住宅の頑丈そうな鉄の扉の前に立つ。
ふと視線を上に移すと柱の陰に蜘蛛の巣が張っていた。
「年代物だな」と俺。
「まあ、そう言うなよ」と司。
俺達は一回深呼吸をしてから、鉄製のドアの横にあるチャイムを押す。
『ピンポーン♪』と、予想に違わぬクラシカルなチャイムの音がした。
すると、「ハイハイハーイ」とドアの向こうから久しぶりに聞く陽菜ちゃんの声が聞こえてくる。
この声を聞くとほっとする。
ドアがガチャっと開くとピンクのトレーナーを来た陽菜ちゃんが立っていた。
「いらっしゃーい」と陽菜ちゃん。
「久しぶりだね」と俺。
「元気だった?」と司。
「久しぶりゆーても、司君も神児君もこの前の日曜日に陽菜、埼スタで会ったんよー。気付かへんかった?」と陽菜ちゃん。
「あー、ごめん」と俺。
「わかんなかったー」と司。
「そっかー、うーん、分からへんかったかー残念。スタンドから一生懸命に手を振ったんやけどなー」と5年生になった陽菜ちゃんは相変わらず元気一杯にそうに言った。
「そうそう、陽菜ちゃん、はいこれ」
司はそう言うと手土産を陽菜ちゃんに渡す。
「えっ、なになに?」
そう言って陽菜ちゃんは紙の手提げ袋を受け取る。
「これ、おふくろの手作りのシュークリーム」
「きゃー、やったー、陽菜、司くんちのシュークリームだーいすき」
そう言うと陽菜ちゃんはきゃっきゃとその場ではしゃぎだす。
その様子を見て鼻の下を伸ばす司。この事はあとで遥に伝えておこうと思った。
それはさておき、「えーっと、お母さん、いる?」と俺。
「うん、さっき、夜勤から帰って来て、お部屋お片付けしてる」
すると、「陽菜ー、上がってもらいなさーい」と優斗のお母さんの声が聞こえた。
畳敷きの丸テーブルの上には、人数分の紅茶とシュークリームの乗ったお皿がある。
「あのー、この前のサッカーの大会、優勝おめでとうね」と優斗のお母さん。
「いえいえ、優斗君が点を決めてくれたからですよ」と司。
「ホントなら、私も試合見に行きたかったんだけれど、仕事がどうしても休めなくって」と申し訳そうに言う。
優斗のお母さんは看護師をやっていて、今日は夜勤明けで目の下にうっすらとくまが浮かんでいる。
「すいません、本当ならもうお休みの所を無理いってもらって」と頭を下げる司。
こういうやり取りは昔から司は得意だったので今日は全部お任せだ。
俺と陽菜ちゃんは久しぶりに食べる司の母ちゃんのシュークリームを美味しくいただく。
「それで、今日のお話ってなんですか?」とお母さん。
「えっと、優斗君は今日は……?」
そう言うと念のためといった感じで、部屋の中をキョロキョロ見回す司。
「はい、今日はビクトリーズに行ってトレーニングしてくると先ほど出て行きました……」とお母さん。
すると、司は一回咳払いして、「えーっと、実は今日のお話なんですけれど……」
今日俺達が優斗の家に来た理由というのは、優斗のこれからの進路についてだった。
実は今まで、優斗には内緒だったのだがこうしてお母さんに会って何度か優斗の大学進学についてお願いしたことがある。
お母さんもそのことは快く了承してくれているのだが、当の本人が首を縦に振らない。
「優斗にはあなたを大学に入れるくらいのお金はちゃんと貯金しているっていってるんですが」
そういって申し訳なさそうにいうお母さん。
「優斗君、どうしても一日も早くサッカーでお金稼いで家族に楽させるって言ってるんですよねー」と司。
はぁー、と二人してため息をつく司とお母さん。こうして見ると学校の進路指導にしか見えない。
「そういえば、優斗君、セレクションの話しましたか?」と司。
「ええ、なんか、四国の方にあるサッカーのチームが優斗のこと興味持ってくださったみたいで……」
「で、優斗君はなんて?」
「契約してくれるなら、すぐにでも行くって本人は言ってます」
「あー、そうですかー」と司。
「あのー……なにか?」とちょっと心配そうなお母さん。
「Jリーグのサッカーと言っても色々ありまして、ちなみにJ3のサッカーチームってどんな感じかご存じですか?」と司。
「いえ、恥ずかしながら、私そういうの全然知らなくって……だめですよね、息子がサッカー選手を目指しているというのにそういうことを全然勉強してないのは」と申し訳なさそうにお母さん。
「いやいや、普通、知らないですよ。J1の試合だってなかなかテレビでやらないのに、ましてやJ3なんて、あること自体知らない人だって結構いると思いますよ」
「そうなんですか……」
「では、知り合いがそう言うチームに所属していた神児に、優斗がセレクションを受けるチームってどんなチームか説明してもらいます」と司。
えっ、俺が言うの?
俺は司の方を見る。まだちょっとシュークリーム食べ終わってないんですけれど……
「お前が言った方が実感がこもってるだろう」と声を潜めて司。
まあ、本人ですからね。正直に話しますよ。底辺Jリーガーの実態ってやつを。
俺はシュークリームを食べ終え、一呼吸。自らの恥をさらすようで嫌なのだが包み隠さず話し始める。
「まず、高卒のJ3あたりだと、給料は手取り10万円がいいとこですね」
「えっ、そんなに低いん?」と真っ先に反応する陽菜ちゃん。
「こらっ、陽菜」とお母さん。
「だってー」と陽菜ちゃん。
うん、いいんだよ。それが正直な反応だと思うから。
「それから、シーズンが終わると給料は出ません」
「ええっ!」とお母さん。
「サッカーのシーズンは3月から12月までですので」俺はありのままの事実を淡々と話す。
「ええっと、それで生活は出来るのですか?」明らかに不安そうな顔をするお母さん。
「できません。ですので、シーズンオフはバイトをします。僕の……ゴホン、えーっと僕の知り合いはシーズンオフは学習塾の講師とか、親会社の短期アルバイトとか、サッカーイベントのお手伝いとか、あと通年でサッカースクールのコーチなんかをしながら生活費の足しにしてましたね」
「うわーっ、それ、ほぼフリーターやん」とちょっと引き気味の陽菜ちゃん。
「ち、ちなみにそういう所って寮みたいなところはあるのですか?」とお母さん。うん、いい質問だね。
「そうですね、J3と言っても親会社の規模が大きい所、浦和U-23とか、SC東京U-23とかですと、自前の寮を持っていて、おそらく食費も月1万とかで栄養のバランスが整った食事が出来ると思います。けど、優斗君が今度セレクションを受けるチームには自前の寮はなさそうなので、自分で賃貸契約するか、もしかしたらワンルームマンションを借り上げていてそこに住むパターンもかも知れません。あっ、もちろん寮費は給料から天引きですよ」
「……はい」とどんどんとテンションが下がって来るお母さん。
「ですので、実際の所、ご実家からの援助が無いと厳しい環境ですよね」
はい、プロのフットボーラーをしていた3年間、実家からの仕送りが無ければ生活できませんでした。とほほ。
「そうなのですかー」とため息交じりのお母さん。
「で、でも、優勝とかすると、J2とかJ1とかに上がれるんよね」と陽菜ちゃん。
「うん、もちろんだよ。ただ、そう言うチームって昇格すると大体チームの半分くらいの選手の契約切って新しい選手と入れ替えるんだよね。J2やJ1で戦うために」
「……そうなんやー」とあからさまに失望の色を見せる陽菜ちゃん。
優斗がプロのサッカーチームから声が掛かって少しくらい夢を見れるのかとおもったら、そんなことは全然なかったのを理解してしまった。
「それ以外にもいろいろありましてー……」
「えーっと、まだあるんですか?」とお母さま。
「はい、チームによっては、最悪、地方の試合の場合は現地集合、現地解散が原則ってのもありましたね」
「なっ、なんですか?それ」
「つまり、J3といっても、一応日本のプロリーグですので、全国にチームがあるんですよ」
「……はい、わかります」
「それでですね、例えば、週末に北海道で試合があった場合、チームから前日までに試合会場近くにあるホテルに集合してくださいってことになるんです」
「えーっと、チームのバスで行くとか、飛行機をチャーターするとかじゃないんですか?」
「はい、そもそも、専用のバスを持ってないチームもありますし、飛行機なんかチャーターするお金なんかどこにもありません。あくまでも自腹で試合会場まで行ってくださいということです。そして最悪そこまでして現地に行っても試合に出れないこともよくあります」
「………………」
「………………」
開いた口が塞がらないお母さんと陽菜ちゃん。
「まあ、そこらへんは大学のチームの方がしっかりしてますよね」と司。
「専用のバスもありますし、経営基盤が地方のサッカークラブなんかと比べ物になりませんから」と俺。
「そっ、そうなんですね」
「えーっと、ってことは、お兄ちゃん、プロになると今よりも貧乏になるってこと?」
「はあ、浦和とか東京のJ3クラブでは無く、これから優斗君が入るであろうクラブですとそんな感じです」と俺。
「………だめやん、それ」と陽菜ちゃん。
うわー、気まずいわー。
サッカーのプロとしてお声が掛かったんなら、少しはまっとうな生活くらいできるかと思ったらそんなことは全くなかったことに知り驚きを隠せない、お母さんと陽菜ちゃん。なんかゴメンね。夢をつぶしちゃって。
すると、「あのー、そもそも、うちの子ってサッカーでプロになれるほどの器なんですか?」とお母さん。
まあ、そりゃそうだわな。本質的な質問をするお母さん。
だったら、ここは司にバトンタッチ。
「僕は、優斗君にはその才能はあると思います。ただ……」
「ただ……」
「まだ、体が出来上がってないかなと……」
「……と言いますと?」とお母さん。
「優斗君、身長は止まりましたけれど、まだまだ体が出来上がってないんですよ。これからもっと筋肉つけなければいけないし、骨や関節なんかもまだ柔らかいんですね。大人に比べて。そして優斗君がプレイするであろうJ3のサッカーってあたりがとっても激しいんですよ。ですので、まだ出来上がってない体で、プレイをすると、正直怪我がとっても怖いです」
そうなのです。見てもらえば分かるんだけれど、J1とJ2でもサッカーの内容は全然違うし、ましてやJ3となると俺達がやっていたユースのサッカーとは全くかけ離れた肉弾戦のようなサッカーになるのです。
それこそ、削り合い上等のようなサッカー。J3で戦っていた俺が言うのもアレなんですが、プレイの精度が低いので、スライディングで削られるのは日常茶飯事。
シュートの精度だって低いので、ゴール前の混戦で押し込むようなゴリゴリのサッカーだし、正直これまでユースで培っていた技術が生きるようなサッカーでは無いんです。
しかも、そこに体が出来上がってない優斗のような選手が入ったなら、1シーズン持たずに体を壊してドロップアウトする未来しか見えない。
「ですので、僕としては、プロのアスリートとして体が出来上がるまで、当たりはそんなに強くないけど、これまで学んだ技術が活かせるテクニカルな大学のサッカーで優斗君には経験を積んでもらいたいと思っているんです。出来たら僕達と同じ学校で」と司。
「ありがとうね、司君。でも、スポーツ推薦とかはもう締め切ってるんじゃないんですか?」とお母さん。
「いや、僕も神児もスポーツ推薦では大学は行きませんよ」と司。
「へっ?」とお母さま。
「来年の2月の一般受験で合格を目指します」と司。
「あっ、あのー、まだ合格されてないんですか?」
「はい、受験は来年の2月ですので、そろそろ願書を出すつもりですが……」と司。
「ええー、兄ちゃん、アホやでー、絶対無理や勉強で大学入るんなんかは」と陽菜ちゃん。
「こらっ、陽菜……」とお母さん。
「大丈夫です。今から勉強すれば、まだ3カ月ありますから」と自信満々の司。
「まっ、まぁ、受験料は3万円くらいしますけど受けるだけなら、ねえ」と俺。
「えーっと、そのー、志望校ってどこの大学ですか?」とお母さん。
俺と司は顔を見合わせ、
「「明和大学の教育学部です」
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