第6話 夢と罰
●205「畠中」
雨は続いている。三福荘の入り口扉のわきに樹の傘が置かれている。
「こんにちはー、堺屋ですー」
玄関の上がり框で、樹は声を上げた。一号棟の廊下はシンとしている。樹は、長靴を脱いであがった。一号棟の廊下を曲がり、二号棟の炊事場を抜け、三号棟の階段をあがった。
「205、205」
軽い足取りで廊下をつたうと、ほどなく「畠中」と張り紙を張った戸の前についた。人の気配はしている。
「こんにちはー、堺屋ですー」
室内で声が聞こえたので樹は勢いよく戸を開いた。そこには床にスリップ姿で転がった畠中幸子と、幸子の股間に手を突っ込んでいるトランクスの男の入れ墨の背中があった。男は唇を幸子のうなじから胸元に這わせようとしていた。幸子も男に身を任せようとした刹那だった。女の白いスリップとぬらりとした皮膚、黒いストッキングと真っ赤な靴下止めが、単純な色の塗り絵のように樹の目に飛び込んだ。
「あ、まっ待って」
幸子は男を引き剥がそうとした。もどかしそうに幸子の手を振りほどこうとした男の目に樹が飛び込んできた。
「なんじゃわりゃこら!われこんな子ぉおったんかい!」
男は叫ぶと同時に、樹の胸を思い切り突き飛ばした。
「ぎゃふ」
樹は、息を詰まらせたまま、廊下の反対側まで転がっていった。体が廊下と壁にぶつかって止まった。男は馬乗りになって幸子の頬を何度も平手打ちしている。
「違う、違う」と叫ぶ幸子の口が切れて、血が顔や男の手にべっとりとついた。
幸子は泣き出し、喘ぎながら「電気屋の子ぉや言うてるやろ」と言うと、ようやく男の手が止まった。幸子は男の下から抜け出すと、転がるように廊下に出た。
「ボク、ボク」と、幸子は樹を抱き抱えて揺さぶった。樹は後頭部を板壁にぶつけて、頭を抱えている。背中も胸も痛い。
男は、あらぬ方向を向いて、「余計なとこに顔突っ込んでくるからや!」と叫んだ。息を一つつくと、気が抜けたような顔になって、樹と幸子をようやく見つけた。一瞬後ろめたそうな顔をしたが、「平気や、大袈裟にすな」と吐き出すように言うと、自分のシャツとズボンを掴み、出ていってしまった。
この棟の住人は出払っている者が多いのか、老婆が一人戸を開けてこちらを覗くだけだった。
「どっかうったんかいな」と、樹を見て少し近づくが、幸子の血まみれの顔を見て、
「わ、わ、わ」と部屋に引っ込んでしまった。
「ちっ」と、幸子は舌を打つ。その時、「う~ん」と樹がやっと呻き声を上げ、「ぅ、ぅえ~ん」と声を抑えながら泣き出した。
「ぁ、ああ、ごめんなボクほんまにごめんな」と言いながら、幸子は樹を抱き抱えると、自分の部屋に運び込んだ。
敷いたままになっている布団に座らせると、タオルを水で絞り、後頭部にあてがった。
「ボクどない?ほんまかんにんなぁ、どこ痛い?」
泣きながら樹が答える。
「胸と頭と背中と足」
「全部やん」
左足のすね辺りにも傷ができて少し血がにじんでいた。幸子は、ただおろおろするばかりでまともな手当ても管理人に知らせに行くでもない。このようなことを起こしたことを誰にも知られたくなかったからだ。かと言って何か手を講じることもない。そこまで知恵が働くわけでもなかった。
やがて、樹は少し落ち着き、ゆらゆらと立ち上がった。
「だ、大丈夫なんやね」と幸子は、自分が救われたような気持ちになって言った。
「ぼ、ぼく帰る」
壁に手をつきながら歩いていく樹に、
「ごめんやで、誰にも言わんといてな」と声をかけた。鼻血が垂れかけて鼻を摘まみながら、おかしな声で言った。
●発覚
敦子と祥子はそれぞれに傘を差し、祥子の通う小学校に私立中学受験についての話をしにいった帰り道だった。玄関表に子供用の傘が立て掛けてある。ちょうど樹が二棟の炊事場に差し掛かったあたりだ。樹は、頭が揺れないようにそろそろと歩いている。
「あ、Qちゃん来とる。うちちょっと行ってきます」
祥子は明るい表情を見せ、樹に手を振りながら玄関に走った。祥子の後ろ姿を見送りながら敦子は、
「見てるこっちが照れくせぇ」と呟いた。この数日は祥子も敦子も降り込められている。その中を、愛しい男がやってくる。子供だからこそストレートに表現されてくる素直な愛情に、敦子はちょっと妬くような嬉しいような気持ちになった。
本来なら、祥子が先に玄関の扉を開けて、敦子を迎え、傘を預かり、洋服の雫を拭くのが、奉公人として当然だ。きっと、そんなことも忘れているだろう、まあ今日のところはなにも言わずにいてやろうと思った。が、扉は開いた。
「若奥様Qちゃんが!」と、祥子の上ずった声がする。
「奥に寝かせて」「はい」
敦子も手伝って布団を敷き、樹を寝かせた。簡単に樹から話を聞き出した敦子は、
「祥子、三棟の畠中幸子、すぐ連れてきい」「は、はい」
敦子は、衣服を全て脱がせて、全身を丹念に撫で入念に体を調べた。
「大丈夫。Qちゃんは強いね。頑丈な体しちょるね。おどれぇたけど、なんともなってねぇ」と髪を撫でながら、体のあちこちを温めたタオルで拭いてやった。
ほどなく幸子が連れられてきた。落ち着きなくきょろきょろし、樹が布団に座っているところを見つけると、
「ちっ」と、舌を打つと下を向いてしまった。
「何があったか、全部話してもらおうかね」
「あの…、ボクからはなんて?」
敦子は間髪入れず、声を荒げた。
「おめえはおめえが見たこと正直に言えばええんだ!あんましたぁりぃことぬかしてっと、ぶちくらわすぞ!!」
幸子は小さく「ひぃ」と縮みあがった。
幸子は、昨夜男を部屋に上げて泊めたことから、次の日、敦子達が出て行くのを見計らって男を出そうとしたところ、また男が手を出してきたこと。その時運悪く樹が戸を開け、幸子に隠し子がいたと勘違いした男が逆上し、樹を突き飛ばし、自分は口の中が切れるまで頬を殴られたと白状した。
「そいで?」と、敦子が続きを促す。
「うちも鼻血がでて口も切るまで殴られて、もうどうしていいかわかんなかったんです。有馬のばばぁも知らん顔するし、そのうちぼっちゃんが立ち上がって帰っていったんです」
「嘘つけ。この子の話聞くとずいぶん違うとるがな。てえげえほったらかしにしたうえ口止めまでしたんじゃろ」
「それは……」
「大怪我やったらどげすんじゃ!」と、敦子は畳を強く手のひらで叩いた。
「す!すいません。ほんまに、その、ぼっちゃんほったらかしにしてほんまに」
幸子はぺこぺこと頭を畳に擦り付けている。いかにも安っぽく水商売らしいミニのワンピースは、ぺこぺことするたびにまくれあがって、真っ赤な靴下止めどころか、下着まで見えている。祥子は両手で樹の目を覆った。敦子も眉をひそめ、顔をそむけた。
「ところで、えらい気ぃ短けぇ男じゃの」
「あ」
幸子は畳を見つめながら冷や汗を流した。
「Qちゃん、どげな男やったん」
祥子はまだ樹の目を覆ったまま、いや頭を抱きしめたままで、ささやくように訊いた。
「知らん男の人やけど、刺青しとったで」
敦子は、そむけた顔を幸子に向けた。
「はぁたなかさん、人を泊める時は、管理人に届けてもらわねぇと困るんですよ。そいに、やくざもんを泊めるなんて迷惑じゃけ。同棲して居つかれたら有馬さんやら、他の店子が出ていっちまうじゃろが」
「あ、あの、すいません、ほんま、そんなんやないんです。たまたま」
「んーー?。付きおうとらんの?」と、敦子は少し幸子ににじりよった。
「えぇ…、はい、別に付きおうてません」
敦子はぐっと幸子の傍まで迫った。
「おめえうちのアパートで体売っとるのと違うだろぅな」
敦子は、頭を下げたままの幸子の後頭部を髪ごと鷲づかみにした。
「ひぃぃぃ」
そのまま額を畳に擦り付ける。
「うちでそんなことやられてたまるかい。すぐ出て行ってもらうで!」
「は、初めてなんです。ほんま、もうしませんもうしません」
敦子は、岡山で身請けされるまでの自分の境遇を痛いほど覚えていた。祥子も、旅館に引き取られ、下働きをしながら、幾度もそういう場面を見てきた。自分も小学校でさげすみのこもった陰口をずっと言われてきた。
だからこそ、そのような関わりを一切断ち切った大阪で、このようなことは断じて許されないのだ。
「そいに、うちに出入りの店のでぇじな子供を殺してしもうたかも知れんのじゃ!」
「すいません、すいません」
「あんたにゃ、出て行ってもらう」
敦子は手を離した。
「ちっ」
幸子は舌打ちをして立ち上がり、服の乱れを直した。敦子は、祥子がまだ樹を抱きしめているのを見やると、自分も立ち上がり、帳簿を開いた。
「家賃はたまっとらんがな。一週間で出て行ってもらうで」
「ふん」
幸子は敦子をにらむと管理人室を出て行った。
「あ、電池」
樹が今更に思い出した。
「今日はしょぅがねぇなぁ、うちがいくけん」
祥子はやっと抱き締めていた手を離して、立ち上がった。
敦子は、祥子と入れ替わりに樹の傍らに座った。
「服、着せてあげよぅねぇ」
「自分で着れるで」と、樹は照れくさく笑いながら服を着た。
「堺屋さんまで送っていこーねぇ」
「一人で帰れるよ」
「一人前じゃねぇQちゃんは。でも大切なお子さんに怪我させてしもぅたらお詫びせにゃぁならん」
ほどなく祥子が戻ってきた。千円札を持っている。
「電池のお金、よう謝っといて言うとったよ」
樹はにっこりした。ポケットの小銭入れから釣り銭を取り出す。
「もろといたらええじゃろ」と、祥子が言う。
「あかんで」
樹は、祥子に釣り銭を渡した。
「これはな、電池買うてもろたお金やねん。売ってない分はもろたらあかんねん」
「じゃけお詫びの分じゃろ」
「お店屋さんに謝んねやったら、ごめんねの分だけ何か買うのがほんまやで」
敦子は、改めて樹の方に向き直ると、「ほぅ」と小さく頷いた。
「祥子、後でその通り言うておいで」
●帰宅
雨は強弱を繰り返していた。
日暮れまでには少しある頃、三福荘の二人と樹は、堺屋に着いた。敦子が「さあ、『ただいま』って言うてき」と促すと、祥子もずっと繋いでいた手をはなした。
「ただいまぁ」の声に千鶴子が気付き、店に下りてきた。
「いつもお世話なっとります。この度は少しややこしい…」と、申し訳なさそうに事の次第を話した。
「はぁ…」
千鶴子は、樹の後頭部を指先で探りながら思った。おかしな騒動に巻き込まれる子やなぁ。
「明日、
「いえ、そこまで」「いえいえ、こんなことで後に何か残ったら。うちからのお願いです。そしたら明日改めて」
●大阪赤十字病院、円形待合室
日曜日になった。まだシャッターがしまったままの堺屋の前に外車が停まった。休日の閑散とした商店街には不釣り合いなことだ。やがて、瀞がシャッターを開けると、眠そうな樹と、明るいグレーの上下に白いブラウスの千鶴子が現れた。さと子も見送りに出てきている。
運転手の荻野が後部座席のドアを開けると、濃紺の上品なワンピースに白いジャケットを着た敦子が現れた。祥子は反対側のドアを開ける。祥子は、先日の濃茶と明るい茶のワンピースを着ていた。
敦子は丁寧に瀞と挨拶すると、祥子を助手席に座らせ、母子を後部座席に招いた。外車が商店街から消えるころには、7、8人の通行人が足を止めて眺めていた。
「堺屋の大将、どないしはったんでっか」
近所の文房具屋の親父が話しかける。堺屋瀞は苦笑いで首をかしげ、店に入ってしまった。
「Qちゃんがこれ以上アホになったらあかんから特別に偉い先生に診てもらうんです」
さと子の冗談めかした話で文房具屋の親父は笑いながら店に引っ込んでいった。さと子は、外車が去った方向に向かい、
「なんともありませんように」と手を合わせた。
大阪赤十字病院の円形の待合室は、天井が高い。日曜日ということもありしんとして小さな足音も反響音が響き、わずかに消毒薬のような匂いも漂っている。樹はこの病院に以前交通事故で入院したことがあり、少し怖い思い出の場所だった。長い検査の後、軽い脳震盪も起こしていたことから、一晩入院することになった。詳しい話を母親と敦子が聞きに行ってる間、樹は祥子に独楽の夢の話をした。
「塗りの入った二色の独楽?紐を巻いたら一目瞭然…。一色じゃし、紐なんかあったんじゃろか」
診察室の戸が開いた。医師に会釈をして二人が出てくる。
「ここまでしてもろうてほんま…」と千鶴子が礼を言いかけた時、敦子の耳には先の祥子の言葉が入っていた。
「家に電話しときます」
千鶴子が座をはずすと、「祥子、今なんて話してたん」と聞いた。
「Qちゃんが長持から出てきた独楽の夢を見たそうで、『塗りの入った二色の独楽、紐を巻いたら一目瞭然』ちぃて」
敦子は、少し思案しているようだったが、電話をしている千鶴子のそばにいくと、
「うちの荻野がお泊りの支度を預かりに伺います。祥子に届けさせますので」と告げた。この時代、日本はまだ完全看護が実現しておらず、母親は樹と共に病院に泊まることになる。一足先に泊まりの荷物を預かりにいくと告げ、敦子たちは病院をあとにした。
「祥子、あの中学校にあった車長持って、ご本家の蔵に合ったもんと似とったん?」「え?あ、あぁそう言えば。よう似とると思います」
「月曜日、学校が終わったら、急いで帰っといで。家庭科の先生にご挨拶にいかないけんわ」
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