王さまのお気に入り

七生 雨巳

本編




 1




 辺境の春は遅い。


 名残の雪が虫干しの綿のようにあちこちに点在する野原で、僕はそのひとに出会った。


 そのひとがこんな辺境に来るなんていうことはとても珍しいことで、多分、里のほうでは噂で持ちきりだったのかもしれない。


 けど、僕ら家族は知らないことだった。


 僕ら家族――父と母と兄の四人家族だ――は、入り組んだ国境近くの森の中に暮らしていて、人里にはあまり近づかなかった。


 元々僕らは流れの民で、二年をかけてこの近辺の国々を廻っては金を稼ぐという生活をしていたらしい。


 らしい――というのは、僕が物心つくころには僕ら家族は既にここで暮らしていたからで。僕が聞いたのは、からだを壊した父のために地に根を下ろした生活を決意した母が選んだのがこの地だったということだけだ。


 僕らは、父のために静かな生活を送っていた。


 無理をしなければ普通の生活ならできるものの、旅から旅への生活は父のからだには負担が大きすぎる。だから、父は元々得意としていた木彫りを生活の道に選んだ。父が作った品物を村や町で売るのは母の仕事だったから、僕と三つ年上の兄とはふたりして家のこまごました家事をこなしていた。


 その日、僕は野原に芽を出しているだろう春の野草を摘みに出かけていた。


 くせの強い匂いと噛んだ途端口いっぱいに広がる苦味が僕は苦手なんだけど、父と母の好物なんだ。沸騰する湯に塩を入れて軽く湯がいたそれを刻んだものを、潰した芋にまぜて味を調えたり、ソースに混ぜ込んだり、調理をするのは兄さんだ。


 味を想像するだけで顔をしかめる僕を、ガキの味覚だな――と兄さんがからかうのが、春一番の恒例行事だったリする。


 今日がその日なんだろうなぁ。


 そんなことを思い描きながら、見つけた野草を摘もうとしゃがむ。


 ああ、あっちにもあるな。


 ここにもあるじゃん。


 夢中になって摘んでた。


 塩を揉んだら保存もきくし。僕は苦手だけど、結構重宝する食べ物なんだ。


 背負ってた籠がいっぱいになって、僕は一息ついた。


 腰と膝を伸ばそうとしたときだ。


 なにかが、僕の膝裏にぶつかってきたんだ。


 それが、モロ膝裏でさ。僕はその場で転んだんだ。


 籠の中身は散らばるし、服は汚れるし。


 いったいなんなんだ――――――って、顔とかについた泥を擦ってる僕の目の前でもがいているのは、矢を背中につきたてられた、イノシシだった。


 転ばされるだけですんで良かった。ひずめで蹴られてたら大怪我か、下手したら命がなかったよななんて思えばこそ、この状況のやばさが身に染みてくる。


 それは、僕にとっては、不運極まりないことだった。


 猟犬の声が、遠く聞こえる。


 逃げないと。


 それは、間違いなく、条件反射だ。


 手負いのイノシシなんて、危なすぎる。森や山で出会って一番怖いのは、盗賊は別として、クマ、オオカミ、イノシシだろう。その上手負いともなれば、言わずもがなだ。


 その証拠に、僕を見ているイノシシの両目は、怒りで燃えるようだ。


 折った膝で、起き上がろうと泥を掻いている。


 イノシシの怒りが僕に向けられている。ただその場に立っていただけで。


 イノシシは、矢で射られたことなどよりも、きっと、その痛みだけが腹立たしくてならないのだ。そうして、その怒りを誰かにぶちまけたくて、この場に居合わせた僕に白羽の矢がたったってことなんだろう。


 幸運が二度もつづくとは思えなかった。


 逃げよう。


 覚悟を決めた。


 けど。


 心とからだは別物だった。


 僕はその場に貼りついたみたいになって、動けなかったんだ。


 どうも僕は、いざって時に弱い性質らしい。間抜けというか、へたれてるというか。十三にもなって自分でも情けないなぁと思うんだけど、生まれ持ったものなのだとしたら、どうしようもない。ほんとうに―――。


 目の前でイノシシは怒っている。


 僕に向けられている怒りが、痛いくらいだ。


 イノシシに殺されるのは厭だなぁ。


 馬鹿みたいに、そんな場合じゃないのに、そんなことを考えてた。


 それでも、逃げたくてたまらないんだ。


 背中が冷たい。


 必死だったんだ。


 どうにかして。


 ようやく一歩後退できたけど、尻もちついたら、洒落にならない。


 荒い息をつきながら立ち上がったイノシシが、迫ってくる。


 たまらなくなって、目を閉じた。


 イノシシの牙が、右腕をかすめる。イノシシが地面を蹴立てる凄まじい音と風圧とが、僕に襲い掛かる。


 その時になって、やっとだ。


 遠く聞こえていた猟犬の鳴き声が、興奮して荒い息が、僕の周囲に渦をなした。


 それは、心強い盾だった。


 涙でかすんでいる視界に、斑模様の犬が何頭もいて、イノシシを囲んでいる。けどイノシシは、犬を蹴散らしそうないきおいだ。


 立たないと。


 一難去ってまた一難って感じだ。


 何でって。


 腰が抜けたんだ。


 焦ってた。


 何度も踵で地面を蹴ったけど、どうやっても立ち上がれないんだ。


 そうやってもがいてる僕の後ろから、


「なにをしている」


 平坦な低い声が降ってきた。


 艶光する黒い馬の背から、そのひとは僕を見下ろしている。


 その黒い目が、つまらなさそうに、僕を見ていた。


 狩り装束の男たちが、慌てたようにたくさん駆け寄ってくる。


 そうして、僕とそのひととの間に割ってはいった。


 それは、そのひとを守るためのようだった。


 僕の目の前に、男が三人立ちはだかって、残りの七人はそのひとを取り囲む。


 残る五人が、イノシシを片付け、縄をかける。


 イノシシは運ばれてゆき、僕も、彼らに引っ立てられるようにして、彼らが張った天幕へと連れて行かれたんだ。


 僕の家がすっぽり入るくらいの天幕の中は、贅を凝らしたものだった。


 見たことのないきれいな物がたくさん、ただ狩りをするためだけに張られている野営用の丈夫な布の中に、据え置かれている。


 地面に敷かれた敷物は、まぁ、まだ寒いし、濡れた地面にじかに座りたくないと思えば当然だろうけど。でも、椅子を使ってるし。わざわざ持ってくるのが凄い。それにしても、やけに肌触りのいい絨毯を何枚も重ねているのは、無駄というか、もったいない気がしてならなかった。


 まぁ、そのおかげで、後ろ手に手首をひとまとめにされてその場に押さえつけられてても、僕も、ごつごつとした感触に顔を擦り付けることがなくてすむんだけど。


 そんなことをぼんやりと思いながら、でも、絨毯の感触を楽しむ余裕なんかあるはずがない。


 身分の高いひとたちが猟をしている場所にまぎれこんでしまったのだということが、わかったからだ。


 彼らの楽しみを台無しにしてしまった罰を、受けるんだ。


 どうなるんだろう。


 なにをされるんだろう。


 全身の震えは、再開していた。


 脂汗はひっきりなしで、寒い。


 いったい、今日はどうなっているんだろう。


 思いすらしない成り行きに、僕の心臓は慌てっぱなしだ。


 イノシシも恐ろしかったけど、この男たちも同じくらいに、もしかしたらイノシシなんかよりも、もっとずっと怖いのかもしれない。


 僕の目の前には、あの時つまらなさそうに僕に声をかけた男のひとが、椅子に腰を下ろして、やっぱり、僕を見下ろしている。


 父さんよりは若いだろう。


 だとすると、三十台くらいなんだろうか。


 男らしく整った顔立ちは、硬く引き締まって、少しの甘さもない。眉間に刻まれてる深い皺と、への字に結ばれたくちびるとが、男からそんなものを総て奪い去っているみたいに思えた。黒く形の良い眉の下の鋭いまなざしが、僕を怯えさせる。


「なぜ、あんな場所にいた」


 声は、男の右後ろに立つ男のものだった。


 男はただ、黙ったまま僕を見ている。相変わらず、興味はないのだが、視線が向くのが僕のところだから仕方がないとでもいった雰囲気で、椅子の肘掛に頬杖をついている。


 訊かれたことに僕は、必死に答えた。何度もつっかえたけど、わかってもらえないとどうなるかわからない、そんな怖気があったんだ。


「………………いいだろう」


 領主殿からの通達があったとは思うがな。


 不満そうな口調だったけど、どうにか信じてもらえたらしい。


 ホッとした僕の耳に、


「それは、何だ」


 やはり右後ろの男だった。


 椅子に座る男は、もう、僕に興味がないことを隠すようすも見えない。運ばれてきた何杯めかの杯を干して、戻していた。


 男が指差したのは、僕の首からぶら下がっている皮袋だった。


 ―――お守りだからね。開けちゃ駄目だよ。


 母さんに言われたことを、僕はずっと守ってきた。


 ―――開けると、お前の身に災いが降りかかるからね。


 滅多にすることはないけれど、母さんの占いは、よく当たるのだ。


 だから、皮紐は何度か変えたけど、それでも、袋の中を覗いたことはない。


「毒ではあるまいな」


 再び男たちが色めきたつ。


 あんまりな言いがかりに、僕はもう、恥も外聞もなく、泣きだしてしまいそうだった。


 首を振る僕から、それをもぎ取るのは、男たちにとってはあまりに容易いことだったろう。


 僕はどうあがいてもまだ十三の非力なガキでしかないのだから。


 からだを鍛えることよりも、家の中で木切れに細工をすることのほうが好きなんだ。


 僕の夢は、父さんのような細工師になることなんだ。


 男が僕の目の前で、さかしまにして皮袋を振った。


 しゃらりとかすかな音をたてて、なにかが流れ星の尾のように光った。


 そうして絨毯の上に転がり落ちたものを、僕は、呆然と見ていた。


「私が」


 皮袋を取り上げた男の声よりも、椅子に腰掛けている男のほうが、すばやかった。


 男が拾い上げたものは、繊細な金の鎖が通された、金の指輪だった。もしかしたら純金なのかもしれない。細かな彫が施された深い色調の金の輪の真ん中に、大人の親指の爪ほどもありそうな深紅の石が嵌っている。それは、僕なんかじゃ一生かけても持てないような、信じられないくらい立派な指輪だったんだ。


 男の黒い瞳が、信じられないくらい大きく見開かれていた。


 ざわめきが、やまる。


 つまらなさそうだった男の瞳に、光が宿った。


 射るように、僕を見る。


 頭の天辺から足指の先までを、まるで解剖でもするかのように、じっとりと眺めてくる。そうして、僕と、指輪とを、何度も、見比べるのだ。


 永遠と思えるほどの時間に思えた。


 もちろん、実際はそんなに長いはずはないんだけど。


 静まり返った周囲も、指輪の意味を知っているんだろうか?


 疑問が不安へと変わってゆくのに充分な、沈黙だった。




 2







 やがて、


「これをどこで手に入れた」


 深く低い声が、僕に訊ねてきた。


 何かを堪えているかのような、声だった。


 どこでと言われても、困る。中身なんか知らないまま、ずっと、僕のものだったんだから。


「歳は」


 十三になったばかりだ。


「そうか」


 誰ひとりとして、口を挟まない。


 男の次の言葉を、周囲は固唾を呑んで、ただ待っている。


 いったいこの男は、誰なんだろう。


 それは、今更な疑問だった。


 狩猟用の膝丈の上着は、濃い葡萄色をした極端に毛並みの短い毛皮のように艶めいている。腰を絞る帯は金の刺繍も豪華で、留め金の飾りは透かし彫りもみごとな銀細工だ。膝までの長靴はやわらかそうななめし革で、膝のところにはたっぷりとした毛皮がついている。その毛皮は、羽織ったマントと同じもののようだったし、マントを肩に留めるブローチは、腰帯の留め具と同じ細工だ。


 きっと、どこかの貴族の殿さまなんだろう。


 そんなひとが、どうしてそんなに食い入るように僕を見るんだろう。


 盗んだとでも思われてるんだろうか。


 だとしたら……………。


 逃げたしたい。


 けれど、そんなことができるはずもなく。


 やがて男が動いた。それにつられて、僕の全身が情けないくらいに震える。


「カリム」


 後ろに控えている男を呼び、なにごとか指示を下す。


「しばし、つきあうよう」


 男の命令に逆らうことなんか、僕に出来るわけもなかった。


 なんともわからない空気が漂う中、連れて行かれたところは、領主さまの館だった。


 扉が開くとずらりと並ぶ召使たちの中央に立った領主さまが、男に、緊張した礼をとるのを、僕は信じられないものを見る思いで見ていた。


 こんなにも領主さまが慌てるこのひとは、いったい。


 正体が知れないことと、このあと自分が家に帰れるのか。そればかりが頭の中をぐるぐると回りつづけている。


 カリムと呼ばれていた男が進み出て、領主さまに何かを告げた。


 領主さまは始めて僕に気づいたみたいだった。そのまま召使になにかを命じている。それは、どうやら、僕に関することらしかった。なぜなら、しばらくして一人の女中が、僕を奥の湯殿まで案内してくれたからだ。


 そのまま湯を使わされた。


 呆然としている間に服を剥ぎ取られて、湯船に浸らされたのだ。


 女のひとに全身を洗われるという経験は、めちゃくちゃ衝撃的だった。茹ったようになっている僕は、からだを拭われて新しい服に着替えさせられたんだ。そのころには、もう、精神的にも肉体的にも僕はへろへろになっていた。


 断罪されるだろう人間が、なんで湯を使って服を着替えさせられるのか――なんていう疑問は、欠片も湧いてはこなかった。


 今まで着たことがない綺麗で着心地の好い服は、逆に僕の不安を掻きたてるばかりだった。


 帰りたい。


 父さんや母さんや兄さんのことばかり考えていた。


 いつもならとっくに戻って野草を洗ったり、一段落ついたら木切れをいじったりしているころだ。


 今はナイフの柄の飾り彫りの練習中だったりする。もう少しで彫り上がるのは、オオカミの頭だ。自分では結構格好良く彫れてると思うんだけど、父さんは強度も考えるべきだっていう。使ってる最中に折れると危ないって。確かにそうなんだけど。彫りすぎるのが悪い癖だってわかってるんだけど。やりすぎちゃうんだよな。父さんに合格だって言ってもらえるのはいつになるんだろう。悔しいけど、がんばるんだ。


 女中の後ろをついて歩きながら、僕はオオカミの次は何を彫ろうか――なんて考えてた。


 あからさまに現実逃避なんだって、自分でもわかってたりする。


 けど、そうでもしていないと、いたたまれないんだ。


 自分の足元と先導してくれてる女中の服の裾を睨みつけて歩いてる。


 どこまで行くのか知らないけど、なにかしら尋常じゃないことが待ち受けているっていうことだけは、感じるんだ。


 帰りたい。


 今日何度目に思ったときだろう。


 ―――こちらです。


 女中が僕を振り返った。


 女中に促されて一歩部屋に踏み込んだ僕は、


「父さん、兄さん」


 叫んでた。


 落ちつかなそうに部屋の中ほどに立っているのは、間違いなく、父さんと兄さんだった。


「テオ」


 兄さんが僕を抱きしめてくれた。


「にいさんっ」


 話しかけてくる兄さんの声に、僕は強張りついてたすべてがほぐれてゆくのを感じたんだ。


 無口な父は、


「心配した」


とだけ云って、僕の頭をくしゃりと撫でてくれた。


 それだけで、僕は泣きそうになってしまった。


「いったいこれは、どういうことなんだ」


 兄さんの青い目が、僕を見下ろす。


「ごめん」


 実は――と、説明しようとした僕は、


「アルシード国王グレンリード陛下であらせられる」


 その言葉に、言おうとしていたことを忘れてしまったんだ。


 アルシード国王グレンリード陛下。


 びっくりなんていうものじゃない。


 王さまなんて、僕らにとっては同じ人間じゃない。雲の上の神さまにも等しい存在だ。


 そんな凄く偉い人がどうして?


 それは、父さんも兄さんも、同じだったに違いない。


 ふたりがその場に這い蹲る。


 僕も彼らに倣おうとした。


 なのに。


 ゆっくりと部屋に入ってきたあのひとは、窓を背にして置いてあるすわり心地のよさそうな椅子に腰を下ろして、僕を凝視した。


 そうして、


「テオ――と、呼ばれているのか」


 味わうような口調で、僕の名前を呼んだんだ。


「近くへ」


 這い蹲ることも出来なくて、なんとも中途半端な格好をしていた僕を、国王へいかが手招いた。


 逆らえない。


 そんなこと、考えられなかった。


 もう、頭の中は、真っ白なんだ。


 ギクシャクとした不様なさまで、僕は、国王陛下の前に進み出た。


 王さまが僕を見る。


 その黒い瞳は石炭のように、奥にいこっている炎を宿しているようだった。


 視線に射すくめられた僕の顎を、王さまが、持ち上げる。


「っ」


 ひっくり返ったような情けない声が、喉の奥で詰まる。


 けど、王さまはそんなこと気にならないようだった。


 ただ、僕の顔をしつこいくらいに眺めて、そうして、


「后きさきによく似ている」


と、独り語ちたのだ。


 僕にはわからない。


 顎から外れた手が、もう一方の手と一緒に僕を抱きしめてくる。


 わけがわからない。


 誰か説明してほしい。


 後頭部が逆毛立つ。


 心臓が焦ってわめきたてる。


 脂汗がながれて、全身が熱いような冷たいような、なんともいいがたい感覚に捕らわれていた。


「ようやく、我が手にもどったのだな」


 静かな声が、僕の耳を射る。


「オイジュス――我が子よ」


 それは、頭から雷に貫かれたような衝撃だった。


 この日最大の、一生に何度も受けはしないだろう、超弩級の驚愕だったのだ。




 3




 アルシードに住む者なら、失われた世継ぎの君のことを知らないものなどいはしない。




 十三年前。




 遠く王家の血を引く姫との間に生まれた王子は、身分の隔てなく開け放たれた国王の居城の露台で、国民の祝福を受けた。


 それは、間違いなく、その王子こそが王位継承権第一位、未来の国王に他ならないという披露目だった。


 しかし、その夜、厳重な守りを誇る王宮から、王子は何者かによってかどわかされたのだ。


 切れ者と評判の国王が手をこまねくはずもなく、すぐさま国中に探索の手は放たれた。


 しかし。


 その夜以来、アルシードの世継ぎの座は空席のままであるのだ。








 テオじゃなくオイジュスと呼ばれるようになってからも、みんなを名前で呼ばなけりゃならなくなってからも、三年が過ぎた。


 迷子になるみたいに広い館をぽんと贈られて、僕のものだといわれた日が、はるかに遠いように思える。この館が、皇太子だっていう僕だけのためのものだって知って、どれだけ驚いたかしれやしない。


 あれからずっと、自分にのしかかってきた信じられない現実に、僕は、今でも押しつぶされてしまいそうだ。




 三年前のあの日。


 僕は、一足先に王宮に戻っていた陛下によって迎えられた。


 父だという実感も沸かないまま、僕は、これから僕が暮らすのだという皇太子の館に案内された。そこは広い城内でも、王さまが日常的に生活する城にほど近い、日当たりの良い館だった。規模で云うなら王さまの居城の三分の一くらいだろう。それでも、あの辺境の領主の館くらいはありそうで、僕は、自分の環境の変化にめまいを覚えるだけではすまなかった。


 事実、翌日からの二日間を、僕は、初めての館のベッドで過ごしたのだから、情けない。


 僕の看病をしてくれたのは、母さんだった。


 僕の家族もまた、ここに迎えられた。僕の乳母とその夫、それに、僕の乳兄弟というのが、みんなに与えられた役割だった。館の敷地に小さな家を一軒構えて、みんなはそこで暮らすらしい。


 こんなこと陛下に知られたら、やっぱりやばいかなって思うけど。僕にとっての家族は、どうしたって十三年間一緒に暮らしたみんなだから、僕は、ただ、みんなと別れずにすんでよかったと単純に喜んでいたんだ。それに、兄さんのこともある。兄さんの名前はジーンっていうんだけど、かなり頭がよくって、ちゃんとした勉強をさせたいって、母さんも父さんも考えてたらしいんだ。でも、田舎じゃあ、な。あんま裕福じゃないから都会で勉強をさせるって云う踏ん切りもつかなかったらしい。それに、流れの民って家族は一緒に暮らすんだって云うのが伝統らしいんだよな。僕だって、離れるなんて、考えたことなかった。


 ―――ともあれ、僕の熱は三日目になって下がった。要は、環境の変化に、神経が疲れたって云うことだったから、重病ってわけじゃないんだよな。


 起き上がれるようになった僕のところに、陛下からの使いだってひとが来てさ、僕を陛下の居城に案内してくれた。


 僕のところが一番近いって云ったって、それでも結構歩かなきゃならなかった。

 

 そうして、僕は、陛下にとある部屋へと案内されたんだ。


 ひとの気配の感じられない部屋だった。


 女性のものらしいやわらかな色調で整えられた繊細な部屋の中、咲き初めた春の花がやさしい香を漂わせている。


「后の部屋だ」


 陛下の声は、穏やかだった。


 まるで大切な宝物でもあるかのように、目を細めて室内を眺めるさまに、陛下がどれだけこの部屋のひとを愛しているのかがわかるような気がした。


「オイジュス」


 肩を抱かれるようにして導かれ、連れて行かれたところは、その奥の部屋だった。


 扉ではなく、豪奢な織物が、矩形に刳り貫かれた出入り口にかかっている。


 織物をめくった途端馥郁とたちのぼったその香に、僕は、ほんの少し、めまいを覚えた。


 なぜだろう。もちろん僕には、その匂いをかいだ記憶なんかない。


 なのに、懐かしいんだ。


 胸の奥に熱いものが溜まり、せりあがる。


 部屋の真ん中にベッドがあった。


「そなたは、この部屋で生まれたのだ」


 支柱に支えられた天蓋から垂れ下がる帳はやさしい春の色で、軽やかな刺繍が縫い取られている。


 居心地のよさそうな室内だった。


 まるで今にも帳の奥から、僕の母だという顔も知らない女性が手を差し伸べてくれそうだった。


 そのやさしい声さえも耳の奥によみがえるかのようで、僕は、顔を伏せた。


「そうして、ここから、攫われた」


 陛下が帳を掻き分けると、そこには小さな、それでいてみごとな細工の、ベッドがあった。


 中にはなにもない。


「后は、そなたの帰りを待ちわびて、そうして、やがて、はかなくなった」


 今は、お前の帰還を喜んでいるだろう。


 そういいざま、陛下は太い金糸の紐を引いた。


 ベッドの足元のほうの壁に掛けられた織物が、するすると左右に分かたれてゆく。


 そこに現われたものを見て、僕は、目を見張った。


 そこには、壁一面の画布に女性の全身像が描き出されていた。


「そなたの母、ユゥフェミアだ」


 窓越しの陽光が画布を照らし出す。


 淡い緑色のドレスが、そのひとの印象をやわらかく彩る。


 小作りの白い顔を際立たせる濃い目の褐色の髪はかるいうねりを見せて豊かに流れ落ちる。褐色のまなざしが、春の花の色に塗られたふっくらと小さなくちびるが、僕を見てやさしく微笑む。それなのに、小ぶりの冠も細く華奢な首を取り巻く真珠の首飾りも、手首に巻かれた腕輪さえも、そのひとにとっては、重い枷のように見えたのは、なぜだろう。


 王妃さまといわれてつい想像してしまうような、人目を引く美女ではなかった。一幅の絵だというのに、その全身から漂う穏やかそうな雰囲気が、いつまでもそのひとの傍にいたいと思わせる。


 やさしそうな。


 おだやかそうな。


 心地好さそうな。


 このひとの傍にいたかった。


 その刹那、僕は、育ててくれた両親も兄も忘れていた。


「泣いているのか」


 目元を拭ってくれた陛下の指の感触に、僕は、我に返った。


「暫し待て。お前の屋敷に複製画を届けさせよう」


 陛下はそのことばを忘れることなく守ってくれた。


 あれから一月ほどして届けられた肖像画を、僕は、陛下が言うように寝室に掛けてもらった。


 三年、朝晩眺めているけど、やっぱり、自分の母さんだって思えない。


 髪とか瞳の色は似てるけど、でも、顔が似てるなんて思えない。


 まぁ、僕は、あまり体格がいいほうじゃないけど。うん。母親が違う二つ年下の弟に、負けてるけどな。


 だからって、女に見えるなんて云われたことない。


 オレが陛下の子供だっていう証拠は、陛下が生まれたばかりのオレの首にかけたって云うあの指輪だけなんだ。


 オレは、知ってる。


 オレが本当に陛下の息子なのかどうか、疑ってるひとがたくさんいるって云うことを。


 定住していないってことは、その国に税を落とさないってことでもあるから、どこの国でも、流れの民は、あまり、歓迎されない。


 だから、そんなのはただの嫌ごとだってわかってるけど。


 でも。


 流れの民は装飾品に目がないからな。道端で死んでいた子供の首からでも金目の物を奪って自分のものと言い張ってるんじゃないのか――――。


 聞いたとき、目の前が真っ赤になった。


 装飾品に目がないわけじゃない。普通に定住して暮らす町や村のひとと違って男も女もが少々過剰と思えるほどに装飾品をつけてるのは、それが持ち運びが簡単で換金しやすいからなんだ。そりゃあ、いつも身に着けるものだから、それなりのこだわりっていうのがあるのは事実だけど。


 オレは流れの民の生活を本当に知っているってわけじゃない。けど、そんなふうに謗られるのは、いい気持ちのするもんじゃない。


 陛下が誰よりも先にオレを自分の息子だと認めたってことで、声高に云うってわけじゃないけど、悪口って、やっぱり自然に耳に入ってくる。


 悔しかった。


 オレは、別に、王さまになんかなりたくない。


 王さまに向いてないって、知っている。


 ふさわしくなんかないんだ。


 それは、誰に言われるまでもない。自分で嫌ってくらいわかっている。


 陛下はまだ若くて元気だけど、いつかはオレがあとを継がなければならなくなる―――――なんて、絶対無理だ。


 オレは出来るかぎりはがんばった。


 今だって、がんばってる。


 でも、オレは、木切れを削ったり彫ったり、そんなことが好きなんだ。


 なのに、今のオレときたら、毎日決められた時間割に縛られてて、木切れに触れるのは、陛下と摂る夕飯の後と風呂の前までのほんのちょっとの時間だけ。それだって、勉強や剣やら弓やら馬を習った後は疲れきってしまってて、木切れを握って彫刻のための道具を取ってってやってるうちに眠ってしまってたりするんだ。情けないよな。


 こんなところにいるのは絶対間違いだって、毎日痛いくらいに感じてて、十六の男が、泣きたくなるんだ。


 十六なんて、町や村にいれば、働いててあたりまえなのにな。


 こんなんじゃ、城の外で暮らすことも無理だ。


 中途半端なんだ。


 こんなオレと比べるんだから、母親違いの弟のジュリオのほうが、よっぽど皇太子らしい。


 彼とオレとを比べる周囲の死線は冷ややかで、オレは消えてしまいたくなる。


 流れの民なんかに育てられたからだ―――皇太子らしくない振る舞いや失敗をするたびに、誰かがそんなことをつぶやく。


 オレが云われるのは、もう、仕方ないって思うけど、それは、同時に母さんたちが謗られることだから、オレにとって、とっても痛い言葉だった。


 だから、オレは、二年前に、決意したんだ。


 十四にオレがなる本当の誕生日に、なにか望みがあるかって陛下に訊かれて、お願いした。


 みんなを城から出してください―――って。


 あの懐かしい辺境に、みんなを帰してください―――――って。


 母さんと父さんとに、この城の生活が、合っていないのもわかってた。オレが失敗するたびに、流れの民を悪く言うことばが母さんや父さんの耳に入るのが、辛くてならなかった。母さんたちにごめん――って、言いたくて、でも、言えなくて。そんなオレを、ジーンが、そっと誰もいないところで、慰めてくれる。昔みたいに抱きしめてくれるんだ。


 ジーンは残ると云ってくれた。オレのためだけじゃなくって、自分が残りたいんだって。


 母さんも父さんも、そうしたらいいと、言ってくれた。


 オレを独り残すのは、辛いから―――声に出しては云わなかったけれど、オレには伝わった。


 ふたりは、いつだって本当に、ジーンと分け隔てなく、オレを愛して育ててくれたんだから。オレも、みんなのことが本当に、大好きなんだから。


 陛下は、叶えてくれた。


 みんなが一生生活に困らないように、色々と心を配ってくれた。


 だから、オレが母さんと父さんとに会ったのは、二年前が、最後だ。


 そうして、オレがふたりに会うことは、なかったんだ。


 ――――――もう、二度と、ありはしなかったんだ。






 4



 馬にはどうにか乗れるようになった。

 

 剣も弓も、形だけなら、な。誰かと対戦するのも、狩りに出かけるのも、苦手だけど、付き合えと云われれば付き合わないわけにもいかない。


 なぜって、付き合えって云うのは、陛下がほとんどで、あとは、ジュリオだからだ。


 忙しい陛下が毎日みたいにオレに会いにきてその日の成果を見たいと云われたら、畏れ多すぎて、断るなんて出来ない。


 ジーンは、ジュリオがオレに近づくのをあまり快くは思ってないみたいだけど、それでも、兄上と云って慕ってこられると、無碍にも出来ない。


 たまに、おしのびで狩りにと誘われると、やっぱり、断れないだろ。


 どう考えたって、オレなんかにふたりが気を使ってくれてるんだってわかるんだから。


 陛下といえば、夕飯以外のときにも、最近はオレを身近に置くようになった。


 結構これがきつくてさ。


 毎日の勉強に加えて、陛下が執務室での仕事や謁見をしているとき、その傍で見ていなければならない。ぼんやりと見てるだけじゃなくちゃんと目や頭を働かせてないと、不意打ちみたいに問いかけてくるから、気を抜けない。


 陛下の家臣の目もあるから、下手なこと云えないし。


 オレがどれだけ神経をすり減らしてるか、わかって欲しい。


 なのに、ジュリオは、


「兄上がうらやましい」


って、云うんだ。


 なんでよって、思った。


 そりゃあオレは今は皇太子なんだけど、その前は、ジュリオが一番その座に近かったわけだ。だから、陛下は、今のオレにしているようなことを、とっくにジュリオにしてるはずだって思ってた。


 けど、違ったんだ。


「兄上が行方不明のあいだも、私は第二王子というだけの存在でしたから。第二王子なんて、父上にとってはいてもいなくてもかまわない存在に過ぎないんです」


 今も昔も―――――


 なんて、寂しそうに云うんだ。


「今も昔も、父上が愛されているのは、お后さまと兄上だけなんです」


 夕飯すら一緒にしたことがないと云って、オレよりも大人びてるジュリオが諦めたように笑って見せるのに、なにが云えただろう。


 金髪で青い目のジュリオは、オレよりも頭ひとつぶん背が高い。南方の血をひいている浅黒い肌は、たくましさを際立たせている。まだ十四なのに堂々とした態度は本当に、彼こそが次の王には相応しいといわれるのももっともだって思ってしまう。


 だから、ジュリオの母親にオレが嫌われてても仕方がない。


 ジュリオによく似た豪華な美女である彼の母さんは、后じゃない。あくまでも、妃にすぎないんだそうだ。王の妃ということは、その、妾ということなんだそうで、ジュリオは、あくまでも妾腹ということになるらしい。


 三年前引き合わされたときの彼女のあでやかな笑みに、怖さを感じてしまったのは、あながちオレの不安ばかりのせいではなかったのだろう。


 そんなことも頭にあったんだって思う。




 ―――ああ、呼称な。突然変わったって、びっくりしただろ。




 うん。変えて一年くらいになる。


 オレは、自分を僕と呼ぶことをやめたんだ。本当なら、私とか気取ったほうがいいんだろうけど。そのほうが、だから流れの民は――なんて眉を顰められないで済むんだろうけど、あの時は、いろんなことに腹が立ってたんだ。


 いくらオレが内にこもるタイプだっていったって、堪え切れなくなるときだってある。


 そう。


 一年前。


 とにかく当時のオレは、必死でがんばってた。


 自分向きじゃないって重々わかってることを――だ。


 それでも、陛下とジュリオとジーン以外は、眉をひそめる。


 だから、オレは疲れちまってて、陛下にお願いしたんだ。


 陛下がオレに甘いってことは、周囲が一番嫌う現実だったけど、背に腹は変えられなかった。


 陛下のことを、オレは、まだ、一度も父上と呼んだことはない。陛下も、別に、気にはしていないみたいに見えてた。でも、なんとなく、陛下がオレを見る視線に、オレの態度に対する苛立ちのようなものがあるって云うことは、うっすらとだけど気づいてたんだ。だからって、呼べるはずもない。オレにとっては、陛下は、陛下なんだ。自分が陛下の血を引いてるなんて、どう考えたって、本当のことのようには思えない。そんなオレを知ってて、陛下は、オレを甘やかすんじゃないかなって、なんとなく、そんなふうに思ってたんだ。


 だから、陛下はきっと叶えてくれるだろうって、たかをくくってたのかもしれない。




 ―――なにを言っている。




 低い声だった。


 いつものように、食堂でオレは陛下の隣の席について夕飯を食べていた。


 ぼんやりと、ただ、食べてたんだ。


 味なんかわからない。


 心もからだも疲れてた。


 何をどうすれば、オレを認めてくれるのか。


 頭の中は、混乱しきってたし。


 だから、無意識のうちに、溜息をついてしまってたらしい。


 ワイングラスをテーブルにもどす音が、かすかにした。


「心配ごとがあるのか」


 静かな声だった。


 確認するまでもない。陛下がオレを見てる。


 視線を痛いくらいに感じた。


 返事をしないわけにはいかない。


 そっぽを向いているのも、不自然だし、礼儀にかなわない。


 右斜めを見れば、陛下の黒い瞳がオレを見ていた。


 かすかな苛立ちめいたものは、見えない。ただ、オレを慮ってくれているのが、わかった。


 ふと、辺境にいる母さんと父さんを思い出した。


 焦った。


 二年にもなるのに、まだ、馴染めないのか。


 そう思うだけでこみあげてくるものに、オレは、蓋をしようと、必死になった。


 情けないだろう。


 人前で。


 しかも、食事中なんて。


 限界だったんだ。


 だから、涙を堪える代わりに、云ってしまった。


 絶対に、陛下に向かって云ってはいけない言葉を。


「帰りたいんです」


 刹那。


 温度が下がったような錯覚を覚えた。


 陛下のまなざしがたちまち凍りつくのを、オレは、見たんだ。


 けど、一度堰を切ってしまった感情を押しとどめるすべを、オレは、失ってた。


「皇太子の地位を返上したいんです」


 留まらない。


「僕には、荷が重過ぎるんです」


 だから、お願いです。


 こらえていた涙まで流して、オレは、訴えていたんだ。


 けど――――


「なにを、言っている」


 陛下の声は、氷点下の厳しさだった。


「そなたは、皇太子だ。私が見出し、認めた。私の唯一の嫡子は、おまえだけだ」


「…………ジュ、リオは」


「関係ない」


 冷酷なほどあっさりと切って捨てる。


 椅子から立ち上がり、王が、オレの背後に移った。


 椅子の背ごとオレを抱きしめ、オレの髪を掻きあげた。


「ユゥフェミアによく似た顔をして、私を裏切ろうというのか」


 きつい拘束に、からだが震える。


 怖い。


 忘れていた感情を、思い出す。


「陛下っ」


 瞬間、オレは、激痛を感じていた。


「父と呼ぶようにと、何度言えば覚えるのだ」


 髪の毛を鷲掴みにして、陛下がオレを仰のかせる。


「そなたの父は、私だけだ」


 ごめんなさい―――――と。


 何度も、


 父上、許してください――――そう云って、オレは、謝ったんだ。








 陛下が、怖い。


 あれから、陛下の視線が、やけに、恐ろしく思えるようになってしまった。


 情けないけど、あの時の恐怖があるから、必死で、陛下を父上と呼ぼうとがんばった。


 それで、つっかえながら、どうにか、父上と呼べるようにはなったんだ。


 けど。


 わかるだろう。


 心の中では、陛下は陛下のままなんだ。


 一緒にいた時間が違いすぎるんだ。


 だろう?


 陛下のすっと釣り上がり気味の眉が、が、オレがつっかえるたびに、顰められる。


 陛下の意志の強そうに引き結ばれたくちびるが、何かを云いたそうに引き攣れる。


 また、あんなに怒られやしないだろうかって、オレの背中が、ぴりぴりと逆毛立つ。


 だけど。


 オレはどうしたって、木彫り職人の息子だっていう意識が抜けない。


 木彫りで身を立てたいって、強く思うようになってしまった。


 多分、これは、逃避なんだろう。


 わかってるんだ。


 それでも。


 どれだけ眠くても、木切れと小刀を持たないではいられなくなっていた。


 木を掘りながら、うとうとしていたらしい。


 危ないだろう―――と、ジーンが小さくささやく。


「明日もはやいんだし」


 こっそりとささやく言葉は、あまり昔と変わらない。少し、やわらかな口調になってるけど、それは、仕方ないのかもしれない。誰が聞き耳たててるかわからないしな。あえて変えないようにしてるんだろうと、ジーンのやさしさが、心に染みる。


 声が普通の大きさのときは、ジーンも、丁寧な言葉を使う。


 それが、寂しくてなんなくてさ。


 まだ、ここに来たばかりのときだったから、盛大にごねたんだ。


 こっそりと、離れのみんなの家に行ったときだったけど。


 そのときの約束を、ジーンが忘れないでいてくれるのが、オレにとっての慰めだった。


 はっきり云って、ジーンがいなけりゃ、オレは、きっと、どうやってでも城から逃げ出したに違いないんだ。


 ジーンは、時々オレに勉強を教えてくれている偉い学者先生と対等に話したりしているから、ここで時間を貰って勉強することが楽しいんだろう。


 ジーンの勉強時間は、オレが勉強したり武術の訓練をしている間なんだ。どうも、これって、特別扱いらしいんだけど。でも、ジーンの頭がいいことは、いつの間にかまわりに知られるようになってたから、表立っては誰も何も云われないみたいなんだ。


 あまりオレも邪魔はしたくないけど。


 ジーンは、多分、オレより忙しいはずだから。


 まじめに復習したり予習したりしてるのに、オレの面倒を見なけりゃならないし。いったいいつ寝てるんだろう。


 ジーンが勉強してる間は、オレの身の回りは、別の小姓がみてくれてる。けど、オレがやらないといけないことを終えた後は、ジーンがみてくれる。そういう決まりになっているらしい。


 ジュリオにきいたんだけど、ひとりの王族に小姓は十人近くいるみたいだから、オレの世話をやいてくれる小姓の数が特別多いってわけじゃないんだろう。それでも、オレ、服を着るのも風呂にはいるのも、靴を履くのだって、基本独りでできるんだ。当然だろう、赤ん坊じゃあるまいし。


 風呂なんか、裸を他人に見られたくないって意識のほうが強すぎる。


 オレのからだは、どんなに鍛えても、悲しいかな、筋肉がつかない性質らしくて、まだ、あばら骨が見えるんだ。そんなの、ジーン以外に見られたくない。


 色々あって、結局、オレは、ジーンに頼っちまうんだ。


 甘えてるよな。


 当然って、甘えてる。


 変なところで、オレ、我儘になってるみたいで、なんか、ジーンに申し訳ない。


 でも、そう云ったら、


「俺は、お前の面倒を見るって云うことで、勉強させてもらってるからな。それに、お前の我儘なんかなんてことないしなぁ」


って、笑いながら、答えてくれたんだ。


 オレ、思わず泣きそうになって、


「泣くやつがあるか。まだまだ、ガキンちょだな」


って、ジーンに額をこつかれちまった。


 こんなとこ誰かに見られてたらことだから、こっそりとだけどな。


「おまえが王さまになりたくないって、知ってるけど――。けど、王さまって、悪くないだろ」


 ジーンとオレ以外には誰もいない寝室で、寝る前に飲まされてる薬の準備をしてくれながら、ジーンが小さな声で云う。


「やだよ。オレの一言で、何でもかんでも決まっちまうんだ。今日だって陛下は、罪人の処罰の書類に署名してたけど。あれのうちの何枚かは死刑の決定だった…………。ひとの生死とか決めなきゃなんないなんて、考えられない。そりゃあ、罪の報いなんだろうけど、けど、さ。それに、外交なんて、捌ききる自信ないって」


 銀の盆に銀のずっしりとした杯が乗っている。それを受け取りながら、オレは顔を顰めた。


「軽く考えるっていうのも問題だけど、おまえみたく考えすぎっていうのも、問題だよな」


 ジーンの青い目が、ランプの明りにきらめく。


「まぁ、今の王さまが出来過ぎっていうのもあるんだろうな。お前が、そこまで萎縮してるのは」


 蜂蜜をひとたらしほんのり甘い、けど、癖の強い薬湯を、オレは、凝視する。


「もっと鷹揚にかまえてもいいと思うぞ。オレは、お前じゃないから、こう云えるんだろうけど。そうだなぁ。王さまの周りには、出来のいい相談役とかが何人もいて、王さまは彼らに相談したり任せたり、自分はなんにもしないっていうひとだっているんらしいんだけどさ」


 ――――それでも、いいんじゃないか?


 がんばって、それでも駄目なら、そういうのだってありだろう?


「<ruby><rb>傀儡</rb><rp>《</rp><rt>かいらい</rt><rp>》</rp></ruby>でいろって?」


 薬を飲む勇気が出ない。


 これは、毒なんだ。


 毒にからだを慣らさなきゃならないんだ。


「ま、それができるようなら、はなっから悩まないよな」


 ――――オレが、相談役になれるようにしっかり勉強してやるよ。


「ほんと?」


「ああ。その代わり、オレがおまえを傀儡にするかもしれないけどな」


「ジーンなら、いいか」


 杯の中で、薬の面が、揺れている。


「馬鹿、冗談だって。まったく。生真面目すぎるんだよな。おまえってば。………あんまり悩みすぎるなよ。さっさとそれ飲んで、寝ちまえ」


 王さまになってもずっと、ジーンが傍にいてくれるんだったら、それなら、がんばれるかもしれない。


 そう。


 いつだって、ジーンは、頼りになる兄さんなんだ。


 けど、いつかはオレの傍からいなくなるかもしれない。父さんと母さんのところに戻って、オレはここで独りっきりになるんだ。――――考えてみれば、そんな不安がいつだってオレの心の底にはあったらしい。


 不安が現実になるのが嫌で、ジーンに面と向かって訊ねることすらできなかった。


 いつか、帰るんだろう? ―――― って、聞いて、肯定されることが怖かったんだ。


 それがオレの単なる悪い妄想なのだったら、だったら、オレも、ジーンが安心して勉強できるように、力になろう。


 ずっと、ここにいてもらえるように。


 陛下が怖いって、云ってられない。


 陛下の跡継ぎに相応しいように、努力しよう。


 なんとなく、久しぶりに胸の痞つかえが取れたような気がして、オレは、一息に毒を飲み干したんだ。




 5



 それから、オレは、少しは変わったんじゃないかな。


 ジュリオにも、そう云われた。


 陛下の表情も、なんとなくだけど、やわらかくなったような気がする。




 久しぶりの休養日だった。


 オレは一日かけて、作りかけの木彫りをやってしまおうって計画を立ててた。


 ジーンはオレの休みに合わせて休みをとってるから、多分庭の離れにいるんだろう。


 遊びに行きたい気持ちはあったけど、ジーンのことだから、勉強してるかもしれないし。


 だから、オレは寝室の外の露台に胡坐を組んで、木を削ってた。


 あたたかい陽射しと、やわらかな風、小鳥たちのさえずり。


 そんなものを感じながら、二年前からずっと滞ってたオオカミの仕上げにかかった。


 どう考えても強度が今一なんだけど、彫ってしまったからな。飾りくらいにしか使えないのはわかってたから、刃の部分も木で掘り出して、柄にくっつけてしまおう。どうせ置物にしかならないんだし、強度はあまり関係なくなるだろうから細かく手を入れてしまえって目論んでいたんだ。


 ああ、やっぱ、オレって、こうやって木を削るのが好きだな。


 いろんなことを忘れられる。


 そうやって、どうにかオオカミの毛並みが満足行く出来になったときだった。


 テルマとかいったと思うんだけど、オレの侍従の中で一番年嵩の男が、声をかけてきたんだ。


「失礼いたします。ジュリオさまがお見えになられております」


 どういたしますか――――と、言外に訊ねられて、オレはしぶしぶ腰を上げたんだ。


「あ、これ、触らないで」


 軽く頭を下げるテルマに、オレは、オレの居間の向こうにある応接室に先導された。


「兄上」


 陶器の碗を傾けていたジュリオが、オレを認めて、椅子から立ち上がった。


 ずんずんと近づいてきて、


「遊びに行きませんか」


って、オレの耳元で悪戯そうにささやいたんだ。


「………どこへ?」


 オレは、ジュリオを見上げた。


 こちらへ――と、オレの手をとって、さっきまで座ってた椅子の向かいにオレを座らせる。


「ああ、呼ぶまでさがって」


 軽く手を振って、ジュリオはテルマをさがらせた。


 命令するのも、さまになってる。


 オレとは雲泥の差だ。

 

「どうぞ」


 ジュリオが、手ずから茶を淹れてくれる。


「あ、ああ」


 勧められるまま、碗を手にした。


 ぷんと、お茶のいい匂いが鼻先をかすめる。


「それで、どこに行くって?」


 一口啜ってから、オレは、口を開いた。


「兄上がここにいらしてから、二年になりますよね」


「ああ」


 首をかしげる。


 わかってることだろ。


 何を今更。


「城から出られたことってありませんでしたよね」


と、にっこりと笑った。


 艶然――ってやつかなぁ。


 背中がぞくりとするくらい、色っぽい。


 オレより、二つも下なのにな。


 絶対、知らなけりゃ、オレのが年下に見られるに違いない。


「出たことはないけど?」


 まさか――って、遅まきながら気づいた。


 悪戯そうな笑いの正体を―――だ。


 気分転換とか、たまには外の空気も吸わないととか云われて、その気になった。


 そろそろ昼時ってころだったから、近くの森にでも馬で出かけて、そこで飯を食べるくらいかな――って、承知したんだ。


 けど。


 おしのび――ってやつだった。


 表向きは、たしかに、ジュリオとジュリオの乳兄弟と三人で王宮から比較的近くの森に馬で出かけるということだったんだ。


 その実は、城下にくりだすというものだった。


 ジュリオの友人であるらしい貴族の家に立ち寄って、馬を預けた。


 王宮の馬はどれも立派だから、町に連れてゆけば目立ちすぎるのだそうだ。


 その貴族の厩には、下級騎士が飼うていどの馬というのが数頭揃えられていて、あらかじめそれを借り受けるという話をつけていたらしい。


 服装も、馬に相応しいものを準備してもらっている。


 この手際のよさからすると、ジュリオはおしのびの常習犯らしい。


 カルスタというらしい、ジュリオの乳兄弟が供だった。


 ジュリオよりも五つ年上ということだ。彼は、つねに鍛錬を怠らない騎士の鑑に相応しい、立派な体躯をしている。


 男なら、あんな体格だったらいいのにと、絶対あこがれるだろう。


 むっつりと黙りこくっているのは不機嫌なのか、それとも、元々がそういう性格なのか判断しにくいが、あえて訊ねることはやめておいた。


 こっちこっち――と、こども返りしたかのようなジュリオについて歩きながら、オレは人混みに酔いそうだった。


 気軽に下町に足を運んだジュリオに、オレは、驚いてた。


 いくらおしのびといったって、ジュリオは王子だから、もっと貴族たちと付き合いがあるような町に行くのかと思ったのだ。けど、そういうと、ジュリオは、


「そんなとこ行ったら、ばれちゃうでしょう」


と、砕けた口調で言って笑う。


 そういえば、そうかもしれない。


「兄上とは違って、僕の顔は結構知られてるんだ」


 へらりという。


 贈り物を買いにいったりしてるしね。


「自分で?」


 ―――行ってもいいのか。


 母さんと父さんの誕生日になにか贈ろうと考えてたけど……。


 オレの考えてることを読んだみたいに、


「あ、兄上は、駄目だと思うよ」


「は?」


「僕の場合は、一応父上公認なんだけど、兄上が何か買おうと思ったら、店主を城に呼ぶことになるだろうね」


 父上に聞いてみるといいよ。多分、そう仰られると思うよ。


 そんなことを、さらりと云ってくれた。


 そこで、ふと、思い至った。


「じゃあ、オレがしのびで出たなんて、陛下……父上がお知りになられたりしたら」


 真っ青になる。


 咄嗟に帰ろうかと思ったが、


「知られないためのしのびでしょう」


と、へろりと返されて、なんか、オレの頭の中は、真っ白になってた。




 所詮オレは田舎者だ。


 育ったのは、辺境の森の中だし。


 両側にびっしりと露店が並ぶ細い道に、ごった返す人の群というのには、慣れていない。


 ひととぶつかるたびに謝りつづけ、相手を通そうと同じほうに動きつづけたり、背中に力が入りすぎて、今にも攣りそうだった。


 オレは、やっぱり、屋根の下のほうが合ってる。


 つくづくそう思った。


 ジュリオは難なく買い物したり、店を冷やかしたり、楽しそうだ。


 こんな人混みを掻き分けての買い物なんか、したことない。


 辺境の祭は、はるかにささやかだ。


 こんなひとの賑わいは、ない。


 いったいどこから現われるのか、ひきもきらないひとの群だ。これが、王都の下町の日常なのだという。


 いつの間にか、オレは、ひとごみから外れていた。


 無意識に避けて、こうなったらしい。


 不思議とひとの気配のない路地裏で、オレは、途方にくれていた。


 建物と建物の間ではあるらしいが、勝手口も窓も見当たらない。


 薄暗くまっすぐの、細い道だった。それでも、あちらこちらに脇道が見える。


 これ以上脇道に入りでもしたらどうなるだろう。いやな予想に、オレは、首を振った。


 ぼさっとしていないで、とにかく、元の道に戻らないと、ジュリオにもカルスタにも、迷惑がかかるに違いない。


 方向転換をした。


 そこで、オレは息を飲む羽目になったんだ。


 オレよりも頭ひとつ以上高い位置にある一対の灰色の目が、オレを見下ろしていたからだ。


 それが、まるで、喉元に当てられた白刃ででもあるかのような錯覚に、オレは、その場から駆け出したい衝動と必死になって戦っていた。


 カルスタは、オレを嫌ってるんだろうな。


 漠然とした感覚はあった。


 それが、抜き身の刃とも思えるほどの嫌悪だったなんて、咄嗟に信じられなくて、オレは、どうしたらいいのかわからなくなったんだ。


 カルスタに嫌われるようなことをやった覚えなんかない。


 だいたい、喋ったことさえ、数えるくらいなんだ。


 薄ら寒い沈黙を破ったのは、


「兄上、こんなところにいらしたのですか」


 ジュリオの明るい声だった。


「カルスタ。兄上を見つけたらすぐに戻ってくれないと。時間に遅れるだろ」


 そういうジュリオの手には、花束がひとつ、それときれいに包まれた小さな包みが握られている。


 謝罪を告げる硬い声を聞きながら、オレは、ジュリオに手を引っ張られて、そこに連れて行かれたんだ。




 そこは、町外れの広場らしいところだった。


 らしいというのは、今は大きな、しかし粗い造りの建物がひとつぽつんとあるからだ。


「ここは?」


「劇場です。といっても、王立劇場ではなく、町場の興行主が掛けるものですけどね」


 一緒にきてくれますね?


 訊ねられて、オレはうなづいていた。


 慣れたようすで裏口から入ってゆくジュリオの後に、オレはついて行った。


 仕切られた小部屋に声を掛けて、ジュリオが入る。


 甘い化粧のにおいに、かすかな花のかおりがまじっていた。


 立ち上がってオレたちを、というより、ジュリオを出迎えたのは、ひとりの女性だった。


 二十歳は過ぎているに違いない。目鼻立ちの一つ一つが大きく印象的な、彼女は決して美女というのではなかったが、野性的なという表現がしっくりするだろう。


 恥ずかしいほど少ない布地のドレスは舞台衣装は、その女性らしい肢体を惜しげもなく強調している。


 赤く塗られたくちびるに、


「ジュードさま」


 蠱惑的な笑みが刻まれた。


 年の割には大人びて見えるとはいえ、ジュリオはまだ十四才なのに、ふたりはオレの見ている前で、濃厚なくちづけを交わすのだ。


 目のやり場に困るとは、このことだろう。


 オレって邪魔者。


 カルスタがドアの外で待っている理由がよくわかった。


 けど、だから、オレは、外に出るのがいやだった。嫌われてるって知ってるのに、隣で並んでなんかいられない。だから、オレはこの場で、真っ赤になってたんだ。


 背中は向けてたけどな。


「兄上。もういいですよ」


 笑いを含んだ声だった。


「カリー。僕の恋人です」


 ジュリオと同じくらいの背の高さのカリーの肩を抱いて、ジュリオが紹介する。


「こいびと?」


 衝撃――いや、びっくりっていうのが、しっくりくるか。


 名前すら本名を教えていないっていうのに、それでも、恋人なのか?


 そんな疑問もあった。


「カリー。僕の兄ですよ」


 にこやかなカリーは、


「いつも、ジュードさまにはよくしていただいていますの」


 今日は楽しんでいってくださいね。


 まぶしいばかりの歓迎だった。


 派手な舞台だった。


 もちろん、派手なばかりじゃない。


 観客を楽しませるつぼはすべて押さえているのだろう。


 客たちは、わき目も見ずに、舞台に食い入っていた。


 舞台の中央で、ひときわ人目を引くカリーは、まさに劇場を支配する女王だった。




 熱に当てられた気分だった。


 ぼーっとなって、何をしても身が入らない。


 陛下の目も、ジーンの目も、オレを見るたびに、いぶかしんでいるようだった。


 けど、


 なにがあった――


 聞かれても、オレにも何がどうしたって、わかってなかったんだ。


 いろいろ考えて、ジュリオに連れて行かれた劇場が原因だろうっては思ったんだけど。


 それの何がこんなに気もそぞろにしてしまうんだろう。


 カリー?


 ジュリオの恋人が?


 気に入ったんだろうか。


 好きになったんだろうか。


 弟の恋人を?


 そんなばかな。


 いくらなんでも。


 気になって、確かめたくて、次の休日、オレは、ひとりで城を抜け出したんだ。


 勇気が要った。


 オレは、ジュリオとは違うから、それとなく助けてくれる友人なんていない。


 だから、服装ひとつ替えるのも大変で。徒歩を覚悟した。


 朝早く、遠駆けしてくると侍従に告げて、出たんだ。


 お供を――って声が聞こえたけど、無視した。


 無視したことが、どんな騒ぎにつながるかなんて、考えてもなかった。




 6



つくづく自分が嫌になるときって、自分がどれだけ情けないか思い知るからなんだろうなぁ。


 自分が、こんなに、方向音痴だなんて、知りもしなかった。


 朝は早めに出かけたのに、どうにか城下にたどりつけた頃には、昼近くでさ。


 オレって、金持ってなくって。


 腹へったなぁって思っても、屋台で焼串の一本も買えなくて。


 何やってんだろうって、思った。


 生まれながらの王子のジュリオのほうが、オレなんかよりよっぽどしっかりしてる。


 みんなと一緒にいたころは、オレ、こんなに情けなくなかったと思うんだけどなぁ。


 相変わらず町は前と変わらない人混みで、オレは、ふらふらしてた。


 と、


「若さま、若さま」って、脇道からオレを呼ぶ声がしたんだ。


 オレを呼ぶというか、誰のことだって見渡したら、声の主と視線が合って、確認したらオレのことだったって云うのが正確かな。


 ふくよかな女将さんが、オレのこと上から下まで観察して、金持ってないんだったらオレが着てる服を買ってくれるって云うんだ。ついでに、代わりの服もくれるって言うから、オレは一も二もなく飛びついた。


 古着屋の女将さんだった。


 たまにあるんですよ。


 なんて、訳知り顔で頷いて、


「お屋敷を抜け出しておいででしょう」


って、つづけるから、オレは、びっくりした。


「こんな立派な服を着てらしたら、そりゃあわかりますよ」


 抜け出すのに精一杯で、金子にまで頭が回らなかったんでしょう。


 そう云われたら、返すことばもない。


 服地は絹だし、縫製もしっかりと丁寧。刺繍は簡単な図案だけどやっぱり絹糸ですねぇ。


 換わりの服が綿というのは申し訳ない気がしますけど、差し引きして、これだけでどうです?


 オレを見上げた女将さんの表情は、しっかりと商売人の顔をしてた。


 オレの手の上には、金貨が三枚光っている。


 金貨三枚っていうと、え? とてつもなく高くないか?


 古着なんだけど。


 金貨が二枚もあれば、オレたちは二三ヶ月くらい働かなくて食ってけたんじゃなかったっけ?


 オレは、懐にしまいこんだ金貨に、ドキドキしてた。


 こんな大金、持ったことなかったもんなぁ。


 で、女将さんに聞いた道の通りに歩いたんだ。


 カリーの小屋掛けを聞くと、にっこり笑って、一見の価値ありますよ――って、教えてくれたんだよな。


 なのに、迷うオレって、どうよ?


 自分が嫌になっても、仕方ないよな。


 けどなぁ。


 女将さんにいわれたことを、反芻してみる。


 ああ行って、こう行って、そうして、あそこの角を曲がる。


 うん。


 合ってるよなぁ。


 なのに、なんで?


 広場のひの字すらない。


 広場どころか、細い路地だ。


 薄暗い。


 この間、ジュリオとはぐれて入った路地なんかよりも、狭い。


 陽射しすら、射さないんだ。


 しかも、ぴたりと人通りすら途絶えてる。


 気が抜けた。


 とたん、足の痛みが、主張しはじめる。


 結局、馬使うのあきらめて、歩いてきたからなぁ。


 ここに来たのと同じだけの距離を歩いて帰るのか。


 今日中に帰れるか?


 そこまで考えて、もしかしてって、青くなる。


 ちょっと、いや、かなり、う~ん、めちゃくちゃ、軽率だったか――な。やっぱり。


 反省だよな。


 帰るか。


 あそこしか、いるところなんかないし。


 そう思ったときだ。


 細い路地に、オレ以外の人影が現われたんだ。


 安い酒の刺激の強い匂いが、鼻を突く。


 あまり身形のよくない男たちだ。


 どっから―――


 振り返ったオレの左右。それに、路地のずっと先に、黒々と口を開いてるのは、どこかの敷地の入り口だ。


 どういう造りになってるんだろう。


 蟻地獄みたいなんだろうか。


 オレがいるところは坂じゃないけど。けど、後ろで通せんぼしてる男たちには、オレを、この路地から出してくれる気なんか、


「通してください」


「………」


 ないみたいだ。


 黙ったまま、ニヤニヤと、オレを見ている。


 喉の奥、痰がからんだような薄気味の悪い笑い声が、オレの耳に入り込む。


 腰に剣を吊ってればよかった。


 下手だけど、脅しくらいにはなるだろう。


 重いからって、嫌がらなければよかった。


 そんなこと考えたって、どうしようもない。


 わかっていても、考えてしまう。


 男たちは、こういうことに慣れてるんだろう。逃げ場を探っても、どこにもない。


 供を――と慌てていたテルマたちの声を思い出す。


 自業自得。


 そんなことばが、頭の中で、回ってた。




 結局、オレは、男たちに捕まったんだ。




 きれいに洗濯しおわった古着が畳まれ仕舞い込まれている倉庫の中に、オレは、手と足を縛られて、閉じ込められてた。


 小さな明り取りの窓は閉められて、時間は、わからない。


 見張りの男が三人、小さなカンテラをのせた木のテーブルを挟んでにぎやかに無駄口を叩いている。


 どれくらい時間が経ったんだろう。


 テーブルの上には、湯気を立ててるスープとパン。


 目が行くのは、しかたないだろう。


 今日食べたのって、朝飯だけなんだ。


 結局、金貨三枚は、使わずじまいでさ。


 こんなことなら、どっかの屋台ででも買い食いしておけばよかったって、悔やんでも遅すぎる。


 なんかオレって、こういうことばっかり繰り返してないかな。


 後悔ばっかりがたくさんあるんだって気がしてくる。


 オレは、明日か明後日になったら、船で他の国につれてかれるんだそうだ。


 そうして――――売られるらしい。


 船の中には、オレみたいに女将に騙されて攫われた子たちが乗せられているみたいだ。


 あの女将の本業は、こっちだったみたいだ。


 男たちの話が聞こえてくるからな。


 それで、そうなんだ――って。


 三枚の金貨は、縛られた後で、男たちに懐から取り上げられた。


 売られるオレには、必要ないだろうってことだけど。


 ため息が出る。


 オレって、いったい、なにをやってるんだろう。


 これから、どうなるんだろう。


 ひとがひとを売る。聞いたことくらい、ある。小さいころは、遅くまで外で遊んでいると、攫われて売られるって、怖がらせられた。


 売られると、酷いことをされるっていう。


 酷いこと。


 ひとであることも、無視されて。


 ただ、自分を買った相手の命令に従う。従わなければ、何をされても、文句は言えない。


 ――――怖い。


 怖い。


 怖くてたまらないんだ。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい。


 どれだけでも謝るから。


 だから。


 だから、誰か助けて。


 辺境の森の中で、静かに、ただ木を彫って歳をとりたかった。


 それだけで、いい。


 若さがないっていわれるかもしれないけど、それが、オレの夢だ。


 なのに、ジュリオに見せられた。


 誰かを好きになるとどんなに幸せなのか。


 そうか。


 カリーが気になったんじゃない。


 カリーとジュリオの関係が気になってならなかったんだ。


 幸せそうなジュリオがうらやましくて。


 ねたましくて。


 だから。


 だから?


 オレは、ジュリオからカリーを奪ってしまいたかったんだろうか?


 取り柄のないオレに、そんなことができるって、考えたんだろうか?


 自分のことなのに、このへん、もやもやしてて、わからない。


 何をしたかったんだろう。


 本当に。



 7




「おい」


 突然の声に、オレの思考は、途切れた。


 顔を上げると、テーブルを囲んでいた男のひとりが目の前に立っていた。


 いつの間にか、ほかのふたりの姿は消えていた。


「なまっちろいな」


 オレの顎を持ち上げて、逆の手で頬をなぞる。


 ぞっとした。


 酒の匂いが鼻腔を満たす。


 なんだって、一旦ひとのからだに入った酒っていうのは、こんなに不快な匂いになるんだろう。


 飲めないからなのか、ただからだに合わないだけなのか、素の匂いは嫌いじゃないんだけどなぁ。


「酒の匂いがだめってか」


 にやりと笑う。


「お前みたいなのが好きなお大尽がいるんだぜ。酒のにおいには慣れとけよ」


 いちいち眉間に皺を寄せといちゃあ、飼い主のご機嫌を損ねるってもんだ。


 そういって、そいつはオレに、顔を寄せてきた。


 避ける間もなかったさ。


 初めてのくちづけが、男の酒臭いのなんて、屈辱もいいとこだ。


 息苦しい。


 気色悪い。


 吐き気がこみ上げる。


 舌に絡みついてくる男の舌の感触に、オレは、涙がにじむのをとめられなかった。


 噛もうと思った。


 けど。


 顎の蝶番を押さえられた。


 ぎりぎりと力を込められて、痛さにオレはうめき声を上げずにいられなかった。


 涙が糸を引く。


「わからいでか」


 男が口角を引き上げて笑った。


「おまえ、女も男も、知らないな」


 かわいそうにな。


「それは、誰のことだね」


 他人を嘲弄するかのような、氷点下の声だった。


 カンテラの明かりだけの室内に、男の姿は、はっきりと見えない。


 けど、声だけで、充分だった。


 鈍く明かりを反射する鋼が、男の首筋に当てられている。


 それをほんの少し引くだけで、男は血を流すだろう。


「陛下」


 静かな声が、男の仲間を捕らえたと告げた。


「へいか?」


 男が、不思議そうにつぶやいた。


「こちらはアルシード国王グレンリード陛下であらせられる」


 男の首筋に刃を当てた男が、淡々と告げる。


 男の驚愕が、オレの顎を持ったままの男の手から伝わった。


「国王がなぜ………」


「わが王子に、いつまで触れている」


 淡々と。


 しかし、潜められている怒りが、感じられた。


「おうじっ?!」


 引きつった声が、耳を打った。








 攫われたこどもたちは無事に助けられたらしい。


 彼らだけでも助かってよかったって、そう思うしかない。


 男たちは、国王直属の騎士たちに捕らえられた。


 これから彼らがどうなるかなんか知りたくもない。








 陛下に呼び出されたのは、次の日だった。


 あの日、オレを助けた後、陛下はただオレを抱きしめただけで、何も言わなかった。けど、駆けつけていたジーンと、陛下にオレのことを知らせたテルマからは、山のようにお小言をもらった。


 おしのびを止めはいたしませんが、なさりたい時は、供をお連れください。あなたはこの国にとって大切な方なのですから。


 お小言の締めくくりにそういわれたら、ごめんなさい――と謝るしかない。


 テルマが陛下にオレのことを報告に行ったとき、陛下は、鷹揚だったらしい。若者らしいと言ったとか言わなかったとか。


 けど、昼を過ぎてもオレが戻らないとなると、陛下はすぐに騎士たちを招聘したという。


 そうして見つけられたのは、古着屋で売った服だった。


 女将が欲をかいたのが、オレの手がかりを騎士たちに与えることになったんだ。














 呼び出されて通されたのは、お后さまの部屋だった。


 オレが生まれた部屋に続いている部屋だ。


 オレが入ると、扉が音たてて閉められた。


 外の光に琥珀色に染まった部屋の中、窓際にたたずむ王が、ゆっくりと振り返る。


 やわらかくやさしい、居心地のよさそうな室内が、凝りついたような雰囲気に、息が止まるような錯覚を覚えた。


 怒っているだろう――と、予想はついていた。


 オレの行動がどれだけ無謀なものだったのか、どれほど王に心配をかけたのか。


 後になって、嫌になるほどわかってきたからだ。


 オレが、悪い。


 全面的に、オレが、悪かったんだ。


 だから、謝らなければ。


 礼を言わなければ。


 ジーンとテルマとに忠告されるまでもなかった。


 非は認めて、悪いと思ったことは、謝るべきなんだ。


 腹をくくっていた。


 オレは、オレなりに。


 けれど、こんなにも王の怒りが重い――なんて、考えてもいなかった。


 息苦しい。


 王の黒いまなざしが、窓越しの光をはじいて、獣じみたものに見えた。 


 謝罪と礼を。


「こ、この間は……………」


 頭を下げて、しかし、最後まで言い切ることができなかった。


 下げた視線の先、間近に迫った王の足がある。


 昨日、抱きしめてくれた時とは、雰囲気が、まったく違っていた。


 昨夜の間に、なにがあったんだろう。


「オイジュス」


 硬い声で、オレを、呼ぶ


 何かを、抑えつけているかのような、強張りついた声だった。


 オレは、顔を上げることができなかった。


 全身が、ぶざまに震えているのが、感じられる。


 冷たい汗が、背中をぬらす。


「我が、王子よ」


 喉の奥、なにかがからんだように擦れた声で、王が、オレを、呼んだ。


 それでも、顔を上げられない。


 ただ、ひたすらに、怖くてならなかった。


 無言のまま、オレは、ただ、うつむきつづけていた。


 だから、このときの王の表情がどんなものだったのか、オレは、知らない。


 王は、無言のまま部屋を後にした。


 後には、オレが、残された。


 王の心に芽生えた感情も、それゆえの葛藤も、オレが知ることはなかった。


 オレはただ、王のまとう空気に怯えるだけしかできなかったんだ。


 この時の王の決意を、オレが知ることになるのに、それほどの時間は必要なかった。




 それは、思いもよらない形で、オレの身に降りかかってきた。






 Last Episode






 いったい何がいけなかったんだろう。


 考えてしまいそうだ。


 考えない。


 考えたところで何かが変わるわけじゃない。オレの今が、変わるわけない。考えるだけ無駄なんだ。


 呪文のように、つぶやく。


 つぶやき続ける。


 がたがたと窓を揺らす風の音に目をやれば、鉄の格子がつけられた窓の外、雪が激しさを増していた。


 大丈夫。


 今日は、来ないにきまってる。


 盛大に炎が燃える暖炉があってすら、暖かいとは感じない。


 幾重にも床に敷き詰められた毛皮にも、優美な模様が織り出された壁掛けにも、毛皮の縫い取りのある部屋着にも、心が安らぐことはない。


 寒い。


 あれからずっと、オレは、雪原に独りでいるような思いが消えない。


 どっちを向いても雪のほかは何もない。


 寒い。


 このさきずっと、オレは心から笑うことはないだろう。


 心から、安らげる時はこないだろう。


 オレは、罪を犯しつづける。


 オレは罪にまみれて、そうして、いつか、地獄に落ちるのだ。


 オレは、天へはゆけないだろう。


 だれひとり、オレを許すものはいないだろう。


 辛い。


 悲しい。


 自分で自分を哀れまずにはおれない自分が、嫌いだ。


 けど。


 誰が思うだろう。


 実の父親に、塔に閉じ込められている王子がいる――だなど。


 いや、違う。


 オレが望みつづけたように、今では、オレは王子ではない。


 王位継承第一位の王子、オイジュスは、死んだのだ。


 あの夜。


 王に呼び出され、王がオレを置いて去った日の夜だ。


 王子は、前日に受けた傷が思ったよりも深手で、そのために、命を落としたのだ。




 ――――――――




 その実を知る者は、オレのことを蔑み見張る、ここにいる者だけだ。


 ジーンさえも知らない。


 ジーンはいない。


 ジーンはオレが死んだ後の城から去ったのだと聞いた。


 けれど、それでよかったと、オレは身勝手なことを考える。


 今のオレの姿をジーンに知られたくなかったからだ。


 ジーンにまでさげすまれたら、オレは、どうすればいいのかわからなくなる。


 今のオレを、ジーンにだけは、知られたくなかった。


 決して。


 あの時オレは傷を負いはしなかった。


 けれど。


 名前も知らないあの男にされたことが元で、オレは、死ななければならなくなったのだ。


 オレを殺したのは、あの男じゃない。


 オレを殺したのは、王だ。


 王は、あの夜、オレを抱くことで、血の繋がった息子を一人、葬り去った。


 替わって、王は、何を得たのだろう。


 ここにいるオレは、いったい、何なんだろう。


 名前も、魂もない、ただの、人形なのかもしれない。


 涙が流れる。


 オレは、声を、かみ殺す。


 嗚咽に喉が、震える。


 本当に、狂ってしまいたい。


 本当に、狂ってしまえればいいのに。


 それでも、王は、狂っているオレを、抱くのだろう。


 今と同じように。




 全身が震えた。


 からだが、すくみあがる。


 下のほうから、重い扉が開く音が聞こえたのだ。


 塔の急な階段を踏みしめる足音が、響いてくる。


 王が来る。


 ああ―――


 窓の外、格子さえなければ、オレは飛び降りているに違いない。


 吹雪が、幽鬼じみた叫びをあげる。


 いつまでも尾をひきつづけるそれは、まるで、オレの悲鳴のようだった。


 冷たい空気を供に、王が入ってくる。


 後頭部が、ちりちりと逆毛立つ。


 それでも、オレは、気づかないふりをする。


 王などいないふりをする。


「オイジュス」


と、疾うにオレのものではなくなった名でオレを呼ぶ声など聞こえないのだと。

 オレにしゃべりかけてくるのも、オレに触れてくるのも、オレにくちづけてくるのさえ、姿のないなにかなのだと。


 だから、オレは、怯えるのだ。


 こればかりは本当に、心の底から怯え、震え、悲鳴をあげる。


 見えない何かが、オレを、床に横たえる。


 見えない何かが、オレの服を、脱がせてゆく。


 見えない何かが、オレを犯す。


 何度も何度も。


 オレが気を失っても。


 けれど、ここには、オレ以外、誰もいない。


 頑なに、そう思い込もうとする。


 いつか本当にそうなればいいと願いながら。








 こんな毎日でさえ、オレには、まだ、過ぎたものだったのかもしれない。


 何もかも奪われてしまったオレにただ一つ残されたものさえ、持ち主であるオレ自身にすら自由にならない、許されないものだったのだ。








 王が来たのだと。


 そう思った。


 扉に背を向けて、オレは、ただ震える。


 目を閉じて、からだを竦ませていた。


 そんなオレの耳に、鋭い音が聞こえた。


 熱い痛みが、オレを引き裂く。


 背中から切りつけられて、オレは、振り返った。


 そこに。


 オレが見たものは。


 蒼白になったジュリオと、カルスタだった。


 ジュリオの握る剣の先から、オレの血がしたたり落ちる。


「あにうえ?」


 ジュリオが、手にした剣を捨てた。


 まるで、忌まわしいものを振り払うように。


 信じられないと、その青い瞳を見開いて、ジュリオがオレを見ている。


「そんな。ここにいるのは、父上を堕落させて国を傾かせる愛人だって……」


 ああ。オレは、そんなふうに思われていたんだ。


 蔑みの視線の意味を突きつけられて、オレは悲しいというより、おかしくなってしまった。


 笑いだしてしまいそうだ。


 そんなオレとは反対に、呆然と、ジュリオは、オレを見つづけている。


 その青い瞳から、水晶のように涙がこぼれ落ちた。


 ジュリオ。


 呼びかけようと開いた口から、音を立てて血があふれ出した。


 ああ。


 オレは死ぬんだ。


 確信だった。


 助からない。


 ジュリオ。


 オレは、笑っているだろうか。


 笑えているだろうか。


 たとえしたことは褒められたことではないにしても、おまえが、オレを救ってくれたんだ。


 だから、泣かなくていい。


 オレを殺したと、罪の意識など覚えなくていいんだ。


 カルスタ。


 伝えることができるだろうか。


 オレのことを嫌っている男に、オレの最後の願いが通じるだろうか。


 心配は要らない。


 たとえ、オレを嫌っていても、カルスタにとって、ジュリオはこの上なく大切な存在なのだから。ジュリオを守るためなら、オレが言うまでもないのに違いない。


 早く、ここから出て行け。


 何も証拠を残さないように、出て行くんだ。


 たとえ既にこの世にいないはずのオレを殺したのに過ぎないとしても、多分、王は、ジュリオを許さないのに違いないのだから。


 だから、逃げろ。


 カルスタが、オレの前に片膝をついて、頭を下げた。


 最初で最後、彼の心からの、謝罪だった。


 剣を取り上げ血をぬぐったカルスタが泣き叫ぶジュリオを引っ張るようにして出てゆくのを見送って、オレは目を閉じた。


 背中が痛い。


 けれど、それもだんだんわからなくなっていった。


 地獄に落ちるはずなのに、不思議と、恐怖はなかった。


 オレを手招いているのは、あの辺境での日々のように、安らいだ眠りだった。


 なのに。


 その安らぎのときすらも、満足にとれないのが、オレという人間なのだろう。


「―――――ッ!」


 誰かの鋭い叫び声に、オレのまどろみは、破られた。


 誰か――目を開けるまでもない。


 けど、何度も呼びかけられて、開けないではいられなかった。


 最期くらい、捨てておいてくれたっていいだろ。


 なのに。


 オレを見下ろす王の目が、あまりにも悲しそうで、切なそうで、オレはなにも言えなくなってしまったんだ。


「愛している」


 この感情が正しいものでないとしても、ただお前を苦しませるだけのものでも、これこそが、私の真実だ。


 なにも、返せなかった。


 なにが返せるというのだろう。


 オレは、ただ、王の黒い瞳を見返すだけだった。


 王の目からあふれ出した涙が、オレの頬にこぼれ落ちる。


 その熱さが、オレが最期に感じたものだった。


 今度こそ、誰にも邪魔されない静かな眠りの底に、オレは、引き込まれていったのだ。

 









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