53.狐
何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。
私は死んだのだろうか。
『死んではおらぬ』
誰だろう、なんだか優しそうな女の人の声だ。
この慈愛に溢れた声は処女には出せない。
おそらく経産婦だろう。
女は子供を産んで強く優しくなるのだ。
『そなたは声だけで出産経験までわかるのか。恐ろしい娘じゃ』
真っ暗だった私の視界に小さな光が灯る。
それはどんどん広がっていき、やがてすべての闇が取り払われる。
私の視界を埋め尽くすのは一面に広がる田園風景だった。
稲穂が重たそうに頭を垂れ、あぜ道には子供たちが遊び回る、そんなどこか牧歌的な古き良き日本の田舎といった感じの景色だ。
道の端には狐の石像が祀られており、真っ白なお米で作られたおむすびが供えられていた。
「そうか、これがあんたなんだね」
『そうじゃ。わらわはこの世界とは違う世界、秋津島と呼ばれる島国に祀られておった狐の妖よ』
振り向くとそこには、狐のようなケモ耳と膨らんだ九つの尻尾を生やした平安美人が立っていた。
和服を遊女のように着崩したエロそうな熟女だ。
おっぱいでけぇ。
『長らく狂気に魂を蝕まれておったが、そなたの中の濃密な清浄なる霊力によって正気を取り戻すことができた。礼を言う』
なんだかよくわからないけど私の中にそんな聖なる力的なものがあったとは驚きだ。
もしかしたら気のことかもしれない。
気を込めた武器とかぼんやり光って聖なる武器っぽくなるからな。
『そなた、まさかわからずにやっておったのか。仕方ない、わらわの知識をそなたに与えよう。扱い方を間違えば危険な力だからな』
狐女が私のおでこに自分のおでこをごっつんこさせてくると、見知らぬ記憶が流れ込んできた。
他人の記憶を見るのはこれで2度目だ。
ひろしの記憶のときよりも気分はマシだが、やはり吐き気のようなものはこみ上げてくる。
「うぷっ」
私は口を押えて吐かないように頑張って耐えた。
ひろしのときのように少しすれば落ち着いてきたが、今度は私の目から涙がポロポロと零れ落ちる。
狐から流れ込んできた記憶が、悲しすぎたのだ。
『すまない。余計な記憶まで流れてしまったようだ』
「あんたがなんで狂ったのか、よくわかったよ」
私は狐を抱きしめた。
なんとなくそうしてあげたかった。
この狐は人間を信じたのだ。
だが、人間はいつもこの狐を裏切った。
狐はかなり健気な性格をしているようで、何度も人間を許した。
そのたびに人間は彼女を利用し、そして最終的に裏切るのだ。
この狐、かなりのダメ男キャッチャーな気質と不運に愛される性質を持っている。
たくさんの偶然が重なって、信じられるものが何も無くなってしまったのだ。
そして最後にはこんな異世界にまで飛ばされて、同じく飛ばされた陰陽師の男と戦って、そして恋に落ちて、最後にはまた裏切られて封印された。
ただ悲しくて、悔しくて、でもやっぱり愛されたくて、そしてわけもわからず暴れるだけの存在になり果てた。
『ありがとう。やっぱり人間は、温かいな……』
「当たり前だろう。生きてるんだよ。あんたも暖かいよ」
『そうか』
私たちはしばらくそうして抱き合っていた。
やっぱりおっぱいでけぇ。
すぐにエロに思考がいってしまうのが私の悪い癖だ。
「あんたこれからどうする?」
『わらわは、もう現世に留まることはできないだろう。直に正常な魂の流れの中に戻ることになるだろうな』
「そっか……」
死ぬって、ことなんだろうな。
いや、生物学的な死ならもうずっと前に訪れているのか。
妖が生物なのかはわからないけれど、岩に封印された時点で肉体は朽ち果てている。
だからこそ私の身体に憑依しようと思ったのだろうが、正気を取り戻した狐にはその気はない。
このまま成仏するということなのだろう。
『わらわは、できることなら生まれ変わって人間になりたい。そして誰かを愛して、愛されて、そして子を産んで育てる。そんな人間の普通の幸せを味わってみたい。まあ、生まれ変わりなどというものが本当にあればだがな』
「大丈夫、絶対に生まれ変わりはあるよ。それだけは私が保証する」
『そうか。そなたは、そうなのだな。ありがとう、希望が持てた。わらわの力はそなたの中に置いていく。そんなものを持っていては、普通の人間には生まれ変われないかもしれないからな。迷惑をかけた詫びと、いいことを教えてくれた礼だと思ってくれ』
「わかった」
力っていうのはあの黒いモヤを出すやつのことだろうか、それともユキトの魔力を吸い取ったあの力だろうか。
まあどっちにしても便利なものであることには違いない。
ありがたく貰っておくとしよう。
狐の姿はどんどん薄くなっていく。
私はこの温もりを忘れないように強く抱きしめた。
『そなたの人生に、幸多からんことを』
「そっちも次の人生ではいい人と出会えるといいね」
狐は光の粒子となって消えていった。
そして狐の生み出した心象風景である田園も、同じ場所へと溶け合うように消えていった。
どうか、あの狐がいい人の元に生まれ変われますように。
目を覚ますとユキトが心配そうな顔で私の顔をペロペロしていた。
ずいぶんと心配をかけてしまったようだ。
「ユキト、お腹空いたね。帰ろうか」
なんとなく今日は快楽に耐える訓練はせずにユキトをモフって寝ようと思った。
ああ、股間が冷たい。
そういえばおしっこ漏らしたんだった。
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