第5話


紺のワゴンRは店の駐車場を出ると、家とは反対方向へと走り出した。

 

走らせているのは、他ならぬ僕であるが。

 

5分ほど行った先に公園があって、そこに用がある。

 

半分部屋着みたいな格好をした舞がベンチに座り、僕を待っていた。

 

ダッシュボードから大きめの封筒を取り出し、舞のもとへと駆け寄る。

 

則人

「何度もごめんね」

 

「いえ、こちらこそすみません。お手を煩わせてしまって」

 

則人

「舞ちゃん、扶養ギリギリまで入ってくれてたから、いろいろ手続きがややこしくてさ」

 

舞はスーパーを辞めた。

 

僕は店長として、辞めるのに必要な書類を彼女に届けている。

 

そのついでに、少し話をしたり、家の近くまで送ったりしているだけだ。

 

何もおかしなことはしていない。

 

一度に渡せばいい書類を、何回にも分けて渡していること以外は。

 

則人

「ここで待ってたら、蚊に刺されない?」

 

則人

「次はもっと別のとこにしようか」

 

「たとえば、どこですか?」

 

舞は意地の悪い笑顔で、僕に尋ねてくる。

 

「探しに行きません? 次の待ち合わせ場所」

 

×                      ×                      ×

 

夜の海は思ったより人が多くて、いやでも警戒心を煽られる。

 

そんな僕の胸中などつゆ知らず、舞は能天気に伸びをしていた。

 

「ここで待ち合わせるんですか?」

 

「だいぶ遠いですけど」

 

則人

「いやいや、舞ちゃんが来たいって言ったんでしょ」

 

そう。舞が来たいと言ったんだ。

 

「そうでしたっけ?」と嘯(うそぶ)きながら、舞はまた意地悪な笑顔をする。

 

則人

「それで、次の恋は見つかったの?」

 

そう訊く頃には、周りのことなどどうでもよくなっていた。

 

「それが見つかりそうなんですよ」

 

「同じゼミの、一個上の先輩で」

 

「ちょうど彼女と別れたばかりらしいんです」

 

則人

「……そっか」

 

「あれ? 今ちょっとジェラってました?」

 

則人

「……ジェラって?」

 

それがジェラシーを意味することは、さほど若くない脳味噌でも理解できた。

 

「嘘です、そんな人いません」

 

「無理ですよ、店長と会ってるうちは」

 

舞は、波打ち際に沿って歩き出した。

 

追いかけようとして、スマホが鳴る。

 

『まだかかりそう?』

 

もも子からだった。

 

返す言葉は、あらかじめ決まっていた。

 

『ごめん、まだ仕事が片付かないんだ』

 

×                      ×                      ×

 

そこから、卑近で野暮ったい会話を延々しながら車を走らせ、

 

気が付くと僕らはホテルへ雪崩れ込んでいた。

 

日頃のストレスも、不和も、欺瞞も、欲望も、

 

全てを押し付け合うように唇を重ね、ベッドに倒れ込む。

 

柔らかく抵抗する舞をシーツに押し付けて、その化けの皮を思い切り剥いだ。

 

×                      ×                      ×

 

見事に抜け殻となった僕らは、眠るでもなく、ただ朝が来るのを待っていた。

 

暑い。

 

そう思い、エアコンのスイッチを探していた時、背中に風を感じた。

 

振り返ると、扇風機がゆっくりと首を振りながら、部屋の空気をかき混ぜている。

 

次に飛び込んできたのは、舞の声。

 

「嘘だったんですね」

 

「扇風機が好きだなんて」

 

則人

「……いつからあった」

 

「ずっとありましたよ」

 

「部屋に入った時からずっと」

 

頼む。

 

頼むから、さっきみたいに意地悪な笑顔を見せてくれ。

 

則人

「だって、舞ちゃんが来たいって言うから」

 

「私、そんなこと一言も言ってません」

 

則人

「……」

 

「全部このためですか?」

 

「私の気を引いて、突き放して、優しくして」

 

「私のこと洗脳してたんですか」

 

論理の飛躍だ、と叫びそうになる。

 

しかしそんなことよりも前に、僕の思考回路の方がとうに飛び去っていた。

 

「私がどんな思いで毎日過ごしてたか、分かりますか?」

 

「店長を受け入れたくて、でも難しくて」

 

「それでもなんとか頑張ってたんです」

 

「なるべく多くのものを受け入れて、生きていきたい」

 

「今でもそれは変わりません」

 

「でも、あなたは無理です」

 

舞は、抜け殻になどなっていなかった。

 

朝を待っていたのは、始発の電車で帰るためだ。

 

「この嘘つき」

 

それだけ言い残し、彼女は部屋を出ていく。

 

鏡張りの壁が、腑抜けた裸の男をありのままに写していた。

 

×                      ×                      ×

 

暗闇の中で、自問自答を繰り返す。

 

僕は何をやっているんだ。

 

より強固な「普通」を作ってやろうと息巻いていたはずなのに、

 

こんなありきたりな欲望に、飲み込まれたというのか。

 

……いや、違う。

 

僕だって、あくまで「普通」のレンジを拡げただけ。

 

彼女が居ながら他の女と寝ることを、僕の中の「普通」にしてしまえば、何てことはないじゃないか。

 

それどころか、この拡張した「普通」においては、もも子の性癖だって簡単に飲み込める気さえする。

 

これは退化ではない。進化だ。

 

瞼を閉じることで作り上げていた暗闇をこじ開けると、

 

生温い部屋を颯爽と後にした。

 

×                      ×                      ×

 

昔から約束事は守るほうなので、

 

こんな状況であっても、大智に招かれたイベントにはしっかりと参加した。

 

その大智はステージの上、即興のラップで相手を罵倒している。

 

だがその数秒後には、10個以上も歳の離れた高校生に、言葉のリンチを食らっていた。

 

レフェリーと思われるタトゥーだらけの男が「終了!」と声を上げる。

 

レフェリー

「どちらかヤバかった方に、デッカい声をあげてください!」

 

僕は空気を読んで、高校生の方にそれとなく声を上げた。

 

郷に入っては郷に従うしかない。

 

ここでの「普通」を全うするのが、ルールでありマナーである。

 

大智は負けたにも関わらず、ヘラヘラと笑いながら、高校生と握手していた。

 

……これで4000円か。高いな。

 

なんとか溜飲を下げようとスマホを開くと、もも子からメッセージが入っていた。

 

『最近忙しいみたいだから、文章で伝えるね』

 

『私、今度こそ変わるから』

 

『則人くんを傷つけるようなこと、もうしない』

 

『今日、できたらゆっくり話したいな』

 

最近、もも子とは喋っていない。

 

というより、喋っているもも子を見ていない。

 

帰るとすでに彼女は眠っている。

 

僕の帰りが遅いからだ。

 

それに甘えて、彼女とのことは随分と先延ばしにしていた。

 

向き合うのが面倒だった。

 

だがいよいよ、対峙せねばならない時が来てしまったのか。

 

既読を付けたまま悩んでいると、会場全体がえらく賑わっていることに気付く。

 

顔を上げると、さっきまでステージに居たラッパーたちが、客に混じって大騒ぎをしていた。

 

地面が揺れるほどの爆音で音楽が鳴り響く中、あちこちでテキーラが飲み交わされている。

 

バーカウンターでは派手な格好の男女が囁き合い、連れ立ってトイレの方へと消えていく。

 

二階の部屋では金持ちらしい巨漢が、美女と尻を擦り合わせている。VIPルームというやつだ。

 

どうやらこの騒ぎが、朝まで続くらしい。

 

僕は疎ましく思いながらも、目の前の光景に半ば陶然としていた。

 

なんだ、ここは。

 

こんな空間が、日本に存在していて良いのか……?

 

明らかに普通ではない。

 

でも、ここではこれが普通。

 

じゃあ、普通って何だ?

 

大智

「おーい! 則人!」

 

大智が、中心から少し離れた隅のほうで、僕を手招きする。

 

仲間たちに「高校ん時からのダチで〜」などと説明する声が聞こえた。

 

僕が近づくと、大智は何も言わずに一本のタバコを差し出してきた。

 

——ここでは、吸うのがルールか。

 

喫煙に覚えはないが、そんなことは言っていられない。

 

おそるおそる咥えると、すかさず大智は先端に火を点けた。

 

口もとが悪戯に笑っている。

 

意を決して、煙を吸い込む。

 

しかし、程度が分からない。

 

どのくらい吸い込むのが普通なんだ。

 

止め時が分からないまま、どんどん煙を吸い込んでいく。

 

そのうち、大智と仲間たちが「うぉ〜!」と歓声をあげた。

 

どうやら普通を超えていたらしい。

 

驚いて咳き込むと、煙が血管を通って脳に回っていく感覚がする。

 

咳をすればするほど、体内に煙が充満していく。

 

息ができない。

 

丸椅子に座らされてグルグル回されているみたいに、視界が自動で回転を始める。

 

起きながら夢を見ているようだ。

 

いや、実はすでに眠っているのか?

 

自分がどこに居るんだ?

 

どんな体勢をしているんだ?

 

立っているのか? 横たわっているのか?

 

何を見て、何を聞いて、何を感じているんだ?

 

全く分からなくなった。

 

遠くで、いや、すぐ近くで、大智のゲラゲラ笑う声がする。

 

殺意が湧く暇もないほど、視界が、思考が、人生が、流転を繰り返していた。

 

×                      ×                      ×

 

それから、何万回の「大丈夫」を聞いたのだろうか。

 

大智に付き添われながら、タクシーに8時間ほど揺られ、自宅へとたどり着く。

 

家に帰ろうとすると、大智は僕のポケットから車のキーを奪い取り、

 

そのまま後部座席に僕を寝かせた。

 

理由も聞けないまま、ペットボトルの水をちびちび飲んでいると、

 

徐々に心が落ち着きを取り戻してきた。

 

大智

「戻ったか?」

 

則人

「……タバコじゃなかったのか」

 

大智

「ごめん、悪ノリが過ぎた」

 

大智

「でも、あんなに吸うと思ってなかったから……」

 

大智はひどく反省しているようだった。

 

スマホを見て、今の時間を知る。

 

あれからまだ、2時間ほどしか経っていなかった。

 

バッドトリップ。そう呼ぶらしい。

 

大智

「悪夢がループしてるような感覚、あったろ」

 

確かに、タクシーの中で夢を見ていた。

 

則人

「ああ、ずっと同じ夢を見てた」

 

大智

「どんな?」

 

則人

「もも子が扇風機とセックスしてて、それを見て吐き気がして……」

 

大智

「相当、飛んでたんだな」

 

大智

「そこまでの悪夢は聞いたことねえぞ」

 

大智は頭を掻いた。

 

それから体調のことや、やけに疑り深くなっていないかなど質問されたものの、

 

煙の効能なのか、一切耳には入ってこなかった。

 

だが、おそらく一番悪い時間帯は抜けたはずだ。

 

人一倍「普通」に敏感だから、よく分かる。

 

僕は今、至って普通だ。

 

そして僕は、話し始めていた。

 

則人

「夢じゃないんだ」

 

大智

「えっ?」

 

則人

「もも子、本当に好きなんだ。扇風機が」

 

大智

「分かったから、とりあえず水飲め。な?」

 

則人

「だから本当なんだって!」

 

こうなると、目で訴えるしかなかった。

 

僕は祈るような気持ちだった。

 

大麻が普通の世界線に棲む男なら、そして僕を友達だと思うなら、

 

全てを分かってくれるはずだ。

 

どうか、これを「普通」だと共感してくれ。

 

でなきゃ僕は、この悪夢をループすることになるんだ。

 

大智は僕の意識が正常であると悟り、聞く姿勢を取った。

 

則人

「扇風機にしか興奮しないっていう性癖で、俺が相手じゃダメらしい」

 

則人

「俺、結構頑張ったんだよ。もも子を受け入れようって」

 

則人

「でもやっぱり、思うようには行かなくてさ」

 

則人

「気付いたら、バイトの女子大生と寝てた」

 

大智の目の色が、一気に変わった。

 

則人

「浮気なんて絶対しないって思ってたんだけどな」

 

則人

「世の中、分かんないもんだわ」

 

僕はあえてヘラヘラと笑った。

 

大智

「……そうだったのか」

 

いくらでも言葉を選ぶ時間をあげようと思っていたが、その必要はなかった。

 

大智

「お前の事情はよく分かった」

 

大智

「でも、浮気だけはダメだろ」

 

則人

「……え?」

 

大智

「そこだけは、どんなことがあっても踏み越えちゃいけねえ」

 

則人

「いやいや、大麻吸ってる奴がなに言ってんだ?」

 

大智

「……確かにな」

 

大智

「俺だって褒められた人間じゃないし、全部が全部正しくあれとは思わない」

 

大智

「でも愛する人を悲しませるようなことは、絶対にしちゃダメだ」

 

則人

「カッコつけるなよ!」

 

則人

「先に浮気したのは向こうなんだぞ?」

 

大智

「相手は物だ、浮気じゃない」

 

則人

「じゃあ想像してみろ」

 

則人

「目の前で自分の婚約者が、扇風機とセックスしてるんだぞ」

 

則人

「お前だったらどうするんだよ!」

 

大智はまっすぐに僕を見据えた。

 

大智

「そのままで良いから、そばにいてくれって言うよ」

 

自分とは真反対のコイツと、友達で居る理由。

 

それがようやく分かった。

 

則人

「お前、普通の奴だったんだな」

 

則人

「変わってるって思われたいだけの、普通の奴じゃねえかよ」

 

僕は無意識にそれを嗅ぎ取っていた。

 

だから安心してたんだ。

 

だが大智の目はもう、僕を捕らえていなかった。

 

大智

「自分が普通だって思いたいだけのクズに、言われたくねえよ」

 

僕をバッドトリップさせたまま、大智は去っていった。

 

もう誰も、僕を普通へと引き戻してはくれない。

 

なぜだ。

 

なぜみんな、僕の普通を拒む?

 

僕はこんなにも、お前らの望む普通を提供してやっているというのに——。

 

そう思った時、スマホが鳴った。

 

『まだかかりそう?』

 

気が付くと僕は、嘘をついていた。

 

『ごめん、まだ仕事が片付かないんだ』

 

×                      ×                      ×

 

カチャンという音すら鳴らないほどゆっくりと鍵を回し、

 

自分の家に侵入する。

 

これは抜き打ちテストだ。

 

ミシミシという音すら鳴らないほどゆっくりと歩を進め、

 

リビングと廊下を隔てるドアの前に立つ。

 

そして、家に帰ってきて初めて音を出した。

 

ガチャッ。

 

目に飛び込んできたのは、目にも鮮やかな肌色のもも子だった。

 

荒い息を立てながら、正座の状態で扇風機と対峙している。

 

もも子は僕に気付くと、口よりも先に首を動かした。

 

もも子

「違う、違うの」

 

僕は廊下を引き返した。

 

もも子が追ってきて、僕の手を掴む。

 

もも子

「待って!」

 

僕は言われた通りに待って、

 

則人

「何? どんな言い訳してくれるの?」

 

と訊いた。

 

もも子

「練習してたの!」

 

もも子

「エッチな気分にならないための練習!」

 

則人

「で、どうだった? 上手くいった?」

 

もも子

「……」

 

僕はもも子を押しのけてリビングへ向かい、

 

能天気に首を振る扇風機を持ち上げ、思い切り地面に叩きつけた。

 

この家で一番の音が出た。

 

それでも風で煽ってくる「男」を、何度も何度も地面に叩きつける。

 

ついには馬乗りになって、男の「顔」を何発も殴りつけた。

 

途中、もも子が僕を押さえつけに来たが、たぶん払いのけた。

 

夢中になりすぎていて、よく覚えていない。

 

気が付くと、ボコボコに凹んだ「顔」と、血だらけの拳が目に入った。

 

殺した——。

 

そう思った矢先、後頭部に強い衝撃が走って、

 

そのまま僕はリビングに倒れ込んだ。

 

朦朧とする意識の中、最後に目に飛び込んできたのは、

 

血塗られた花瓶を持って震えている、もも子の姿だった。

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