第33話 Welcome

 アナハイムが崩壊したことにより、ア・リーグの勝率は圧倒的にミネソタが首位を走ることになった。

 元々アナハイムとの試合は、今年はもう終わっているミネソタである。

 だが気分というものがあるではないか。

 そして一方のナ・リーグである。

 西地区はサンフランシスコ、中地区はミルウォーキー、東地区はアトランタが首位を走っている。

 メトロズは東地区で僅差の二位。

 だが最大の補強ポイントであるクローザーを獲得した。


 ローテーションピッチャーとクローザー、どちらの方が価値は高いのか。

 色々と言われるが現在のMLBにおいては、ローテーションのピッチャーの方が年俸は高い。

 単純に上位の選手を見れば、ローテーションピッチャーの方が多いのだ。

 ただ直史の年俸は、インセンティブがなければ年間1000万ドル。

 このぐらいの年俸のクローザーなら、MLBには普通に存在する。


 もっとも直史の場合は、インセンティブが大きい。

 ・200イニング登板で100万ドル

 ・200三振で100万ドル

 ・サイ・ヤング賞で200万ドル

 ・ホールド、セーブは一つごとに10万ドル

 ・シーズンMVP200万ドル

 ・オールMLBチームは100万ドル

 ・サイ・ヤング賞およびMVP投票三位以内で100万ドル

 この中の三つは、アナハイムにいる間の成績で取ることが出来るだろう。

 現時点で226イニング293奪三振で、おそらくア・リーグのサイ・ヤング賞も取れる。

 ただMVPというのがリーグが変わってしまったので、難しくはなる。

 もっとも既に25勝しているので、投票では三位までには入ってもおかしくない。

 そしてリリーフとして使われることで、どんどんとそちらが積み重なってくる。

 あるいはサイ・ヤング賞投票でも、ナ・リーグですら三位以内に入ってくるか。

 さすがに二ヶ月のリリーフでは、それは無理だろうと思えるが。


 一応過去にはリリーフでサイ・ヤング賞を取った選手もいる。

 沢村賞と違い、先発投手に限った賞ではないのだ。

 たださすがに二ヶ月の実績で、充分な票を取ることは出来ないだろう。

 もっともこちらも、三位以内には入ってくるかもしれないが。

 現時点での最有力候補は、18勝1敗の武史だ。

 直史が50セーブでもして一点も取られなくても、可能性はない。

 なにせ残りのメトロズの試合は、57試合なのだから。

 ただ武史一人に投票が集中したら、全く違うリリーフの目線で、直史にも三位以内の票が入る可能性はある。

 するとインセンティブが、とっても美味しいものとなるだろう。


 これがプロとしての最後のシーズン。

 ただ直史は今年の自分が、去年をも上回っているのかは微妙だと思っている。

 あのワールドシリーズでのメトロズとの対決。

 バッターの意識の間隙を突くようなピッチングは、またも失われている。

 集中力の限界に達する力を、自由自在には引き出せない。

 そもそもあれを使うのは、寿命さえも削っているような気がする。


 直史はだからこそ、今年で最後と思っていたのだ。

 実際には大介とは、対戦しなくて済むようになったが。

「それにしても……」

「どした?」

「いや、なんでもない」

 セイバーは本当は何を狙っていたのか。

 アトランタを相手としてベンチの中で、直史のメトロズの一員としての試合が始まる。




 メトロズのFMであるディバッツは、直史を最初は普通のリリーフとして使おうと思っていた。

 去年は確かにポストシーズンで、難しいところをセットアッパーとして投げている。

 だが今年はずっと先発で投げてきて、体が先発の体になっているはずだ。

 二三試合楽なところでリリーフに使ってから、本格的にクローザーに使う。

 そう考えれば今日の試合は、ジュニアが先発というのはいいことだ。

 メトロズの先発ローテの中では、二番手の実力を誇る。

 ここまでの試合も11勝3敗と、エースらしい数字を残している。


 メトロズは大介が復帰して以来、ほしい時に点を取る打線になってきている。

 七月はアービングの離脱がリリーフ陣全体に響いたが、最強のピッチャーをリリーフとして持ってきた。

 正直なことを言えば、リリーフとして使うのはもったいないのでは、という気持ちもあったのだが。

 ともあれ今日はメトロズのベンチを体験してもらう。

 さすがに一昨日完封しているピッチャーに、今日も投げろとは言えないのだ。


 一回の表、ジュニアはアトランタを無得点に抑えた。

 そしてその裏、メトロズの攻撃である。

 一番ステベンソンは、今日のアトランタの先発の様子を確認していく。

 リードオフマンとしてはMLBでも五指に入るであろう。

 平凡な内野ゴロに倒れたものの、球種は全て引き出してみせた。

「今日も粘るピッチングだな」

「おうよ」

 ステベンソンから短くピッチャーの出来を聞いて、大介は左打席に入る。


 右打席でも打てたものだが、七月の大介の打率は、0.341にしかならなかった。

 出塁率もわずか0.517で大介としては最悪に近い数字であった。

 それなのに長打率は1.159のOPSは1.676と最高レベル。

 つまり長打ばかりを、特にホームランを打っていたのである。


 15本のヒットのうち、11本がホームラン。

 単打はわずかに一本と、とてつもなくおかしな記録を作ったものだ。

 そりゃあ打率がその程度でも、OPSはお化けになるというものである。

(しかしベンチにナオがいるってのはな)

 もちろん今日は投げないと、分かってはいるのだ。

(上杉さんがいた頃と同じような感覚だな)

 あの年は16連勝などという記録も作ったものだ。

 上杉は自分が投げた試合では、一点も取られなかったのだから。


 最終回に勝っていれば、絶対に勝って終わることが出来る。

 その確信がある大介のスイングは、アウトローのボールを簡単に打った。

 ボール一つ分は外した、渾身のアウトローであったろう。

 しかし大介には、それを狙うだけの読みがあった。

(好き放題に打ってやる)

 そう思った大介であったが、この日のヒットはこのホームランだけであった。




 敵であった時から思っていたが、メトロズはやはり打撃に優れたチームだ。

 直史はベンチの中で、自軍の打線が点を取るのを、悠々と見ることが出来た。

 今日は投げなくていいと、ローテーションに入っていれば当然ながら分かっている。

 しかし今日はリリーフ扱いで、別に投げさせないのなら、他のピッチャーをベンチに入れていても良かったはずだ。

 それをわざわざベンチに入れているあたり、メトロズの評価を感じる。

 ひょっとしたら直史が、マイナーに落とされない契約をしていると、勘違いしているのかもしれないが。


 ただ今日の試合は、本当に直史の出番はなさそうだ。

 ジュニアは坂本に上手くリードされ、長打や連打を許さない。

 それでも一点ぐらいは入ってしまうが、七回を一失点で投げぬいた。

 残りの2イニングを、比較的弱いリリーフで乗り切る。

 一点は取られたが、それでおしまい。

 7-2という点差は確かに、絶対的なクローザーは必要としないものであった。


 試合の後、直史はFMから、明日はキャッチボールに入るようにとの指示を受けた。

 二日間休んだのだから、短いイニングを試してみたいということらしい。

 直史としては特に問題は感じない。

 大学時代などは土曜日の試合に投げて、日曜日で勝てなかった場合、月曜日に投げていたものだ。

 ただプロのクローザーは、三日も四日も休めるわけではない。

 今のメトロズはいくら連投でも、基本的には二連投。

 三連投はよほどの場合のみ、という体制を取っているらしい。


 試合後に大介たちがどう過ごすのか、直史は興味があった。

 これまでも対戦したカードはあったが、お互いが敵同士であったため、接触は避けていたのだ。

「今はホテルにいんのか? ならうちの客間使ったらどうだ?」

「瑞希が明日には来るから、ホテルにいておきたいんだ。ただマンションに引っ越す前に、一度お邪魔するかもしれない」

 ちなみに直史は、武史のマンションを訪れるのは遠慮している。

 メジャーリーガーの妻というのは、とにかく浪費するだけのトロフィーもいるが、基本的には夫の体調管理に気をつけているのだ。

 ツインズの場合は実妹であるから別として、直史は相手のプライベートゾーンにはあまり立ち入らないタイプの人間だ。

 もちろん恵美理と仲が悪いとか、そういうわけではない。


 ホテルに戻ると瑞希と連絡を取る。

 考えて見ればニューヨークはもう真夜中なのだが、アナハイムとは時差がある。

 そのため向こうでは、まだ就寝するような時間ではなかった。

 明日の夕方までには、瑞希たちはこちらのホテルに到着する。

 そしてその翌日には、車や荷物がマンションに到着するというわけだ。

 アメリカは案外、そういったサービスが発達していない。

 正確にはそういったサービスに、ピンからキリまであるというのが適当だろう。

 やらなければいけないことをチェックしながら、直史はリリーフの役割について考える。


 なんだかんだ言いながら、これまで直史がやっていたリリーフは、ある程度予定が立っていたものだ。

 そしてローテーションについては、調整のための時間があった。

 ポストシーズンは短期決戦であったので、高校時代の地方大会や甲子園のノリで通用した。

 しかしここから約二ヶ月、直史はいつ出番があるか分からない、リリーフをやるわけだ。

 肉体的にも精神的にも、コンディションを整えるのが大変だろう。

 NPBの先発に比べればMLBの先発は、はるかに大変なものではあった。

 だがそれでもいつ投げるか分からないリリーフとは、全く別の資質が必要に思える。

 直史はリリーフには失敗しない。

 だがプロのレギュラーシーズンのリリーフは、これが初めてなのだ。

(出番はない方が楽だなあ)

 それでも1セーブごとに10万ドルという破格の値が、直史のパフォーマンスには払われるのだ。


 わずかな懸念は、心の中にある。

 アナハイムから遠く離れて、予想だにしていなかったニューヨークの地。

 いや、ニューヨークになる可能性は予測していたが、まさかメトロズの方とは思っていなかったのだ。

 明日には出番があるかもしれないと思うと、さすがに緊張するものがある。

 ワールドシリーズの舞台に立っても、別に緊張などはしなかったのに。

(あと二ヶ月だ)

 レギュラーシーズンと違いポストシーズンになれば、直史も短期決戦用に心身を変えることが出来る。

 もしもセーブに失敗するとしたら、この最初の数試合だろうな、と直史は予感しながら眠りに就くのであった。




 翌日、直史は試合前の軽い調整で、坂本相手にキャッチボールをしていた。

 せめて坂本がキャッチャーで良かった、とはさすがに思った。

 また瑞希からはホテルに到着したとメッセージがあり、ツインズや恵美理とも合流したらしい。

 男は男で、女は女で集合するわけだ。

 もちろん大介のところは、子供たちが大変に多いわけだが。


 今までも別に、カリフォルニア以外のところには遠征に行っていた。

 しかしニューヨークが地元となって投げるというのは、感覚が少し違う。

 アナハイムでは気候に注意することなどほとんどなかった。

 だがニューヨークではそこそこ、雨天で試合が中止になってしまう。

 

 七月が終わった時点で、アナハイムとメトロズは消化した試合数が五試合も違った。

 メトロズの方が消化した試合は少なく、ここから直史が投げる試合は多くなる。

 なんだか少し損をした気分だ。

 もしも先発として投げていたとしたら、そして中四日であったら、どれだけの勝利を得ていただろうか。

 甲子園や国際大会と違って、やはり二ヶ月という期間は、短期決戦と捉えるのには無理がある。

 

 調整のための練習をして、ついに試合が始まる。

 ナイターの試合であるため、空は既に夕暮れ。

 この季節だとまだまだ、日は長いのだが。

 これまであちこちを遠征してきたが、本拠地が変わるというのは、確かにどこか勝手が違う。

 本日もまた対戦相手はアトランタで、メトロズの先発はオットー。

 今日は直史のリリーフの出番が、あるかもしれないというオーダーだ。


 試合前にそこそこ、坂本のミットには投げてみていた。

「珍しう緊張してるがか?」

「お前は俺をなんだと思ってるんだ。人間なら緊張もする」

「……」

 そうだったのか、という顔を坂本はしたものである。

 ひどい。


 この試合もまた、メトロズがリードした展開になる。

 メトロズの先発オットーは、打線の援護も確かにあるが、もう三年も二桁勝利をしている安定したピッチャーだ。

 今年でFAになるが、おそらくどこかとは契約出来るだろう。

 ただメトロズは契約を更新する動きは見せていない。

 最もはっきりとしたデータを持つメトロズが、オットーの評価を平均よりやや上程度と見ているのだ。

 実績から考えて、高額年俸を提示しなければいけないだろう。

 そこまでの価値はない、とメトロズは考えていて、オットーの代理人は他の球団でのステップアップを考えている。


 確かに日本だと、FAは行使しないこともあるな、と直史は思う。

 日本と違ってアメリカは、条件を達成すると自動的にFAとなる。

 そしてそこまでの条件を達成した選手は、必ずどこかのチームが獲得する。

 日本の場合はFAの権利を得たとしても、中途半端な成績であると、行使せずにそのまま残ることがある。

 なおFA権を行使したものの、獲得する球団が出てこなかった、ということもあった。

 また球団との契約により、あえて行使しないという選択もあった。


 このあたりも国民性の違いなのかな、と直史はぼんやりと考える。

 ただ日本の場合は、球団によって資金力や待遇が違いすぎる。

 NPBとMLBの、FA権を獲得するための期間。

 そういったものも日本はあまり、流動的でないと言える。




 色々と考えてはいるが、試合は関係なく進行する。

 オットーは六回までを投げて、三失点のクオリティスタート。

 打線は五点を入れていて、有利な展開ではある。

「サトー、ブルペンへ行け」

「イエッサー」

 直史がベンチを出て、ブルペンに向かう。

 それだけでスタンドからは大きなざわめきが聞こえた。

 何人かのファンが、Welcome To N.Y と書いた紙を直史に向かって振ってくる。

 少なくともブーイングはなかった。


 去年はともかく一昨年は、直史はほとんど一人でメトロズの連覇を阻んでしまった。

 それに対して複雑な心境を持つ、ファンがいるのではないかと思ったものだ。

 チーム内はあくまでも戦力として、直史に期待はしている。

 だがNPBなどでは移籍したりすると、裏切り者扱いされることがある。

 FA選手に満足な条件を提示できない、球団の方が悪いのだが。


 とりあえず楽な場面で、と本来は思っていたディバッツである。

 だが二点差で試合終盤となれば、そう甘いことも言っていられない。

 ブルペンで直史は肩を作り始める。

 とは言っても普段のような、キャッチボールに毛が生えた程度のものなのだが。


 ブルペンのキャッチャーは、本当にこれがあのサトーなのかと不思議にも思う。

 今季ア・リーグで25勝を上げている無敗のピッチャー。

 メトロズには大介が伝説的な存在として君臨しているが、それでも直史相手には分が悪い。

 去年のワールドシリーズなど、一人のピッチャーに三勝もされて、さらに四勝される直前だったのだ。

 そんな状況で打った大介も、もちろん化け物なのであるが。


 七回、アトランタは無得点で、その裏にメトロズは一点を追加。

 ブルペンとベンチは連絡を取り合いながら、誰を使っていくかを考える。

 八回の表、アトランタは一点を獲得。

 これで6-4と二点差となった。


 八回の裏のメトロズの攻撃で、追加点が入ったら直史は使わなくてもいいだろう。

 だがもし二点差のままであったら、九回の表は直史に投げてもらう。

 ブルペンで直史は、コントロールとスピンの調整をする。

 本当にこんな肩の作り方で大丈夫なのかとも思うが、実際に敵として対戦した時は、こんな投球練習しかしていなかった。


 八回の裏、メトロズは無得点で終わる。

 そして九回の表、直史がマウンドに送られる。

 FMのディバッツが、右手を叩きながら審判に交代を告げる。

「サトー、GOだ」

 ブルペンコーチに頷いて、直史はマウンドに軽く駆けていった。

 背中を押すのは、スタンドからの大歓声。

 マウンドで待っていた坂本と、軽く会話をする。

「点を取られなければいいんだよな?」

「まあそうやが」

 クローザーとしての直史というのは、二年前のポストシーズンで、セーブを記録したぐらいか。

 映像としては去年のミネソタとのポストシーズンで、セットアッパーとして火消しをしていたが。


 直史はややナーバスになっている。

 本人もそれを隠さないのだが、それでも坂本にとってみれば、他のどのピッチャーよりも安定していると思える。

「今日はアシが組み立てるきに」

「頼む」

 無表情な直史が、冷静なのか緊張しているのか、坂本には判断が難しかった。




 アトランタは去年、インターリーグで直史のいたアナハイムと対戦している。

 しかしそこでは、直史は投げなかった。

 他のチームから移籍してきた選手の中には、もちろん対戦した経験のあるバッターもいる。

 だがどうやったら打てるのかというと、まるで見当がつかない。

「初球から積極的に打ちにいったらゴロを打たせられるし、見ていこうと思ったら簡単にストライクを取られる」

 まるでこちらの心の中を読んでいるようだと、彼らは証言した。


 リーグが違うとこれが初めての対戦となるバッターもいる。

 NPBと違いMLBは、同リーグの同地区のチームでさえ、年間19試合しか試合がない。

 同リーグの違う地区では3~4試合。

 そして違うリーグのチームは、三年に一度3~4試合といったところなのだ。


 ただ直史のピッチング自体は、散々に研究されている。

 MLBデビューの一年目から、30勝もしていたピッチャー。

 パーフェクトをそのシーズンで何度も達成するピッチャー。

 いざ対峙してから対応しようと思っていたら、間に合わないのが分かっている。


 対戦経験のあるバッターを送ればいいのか、それとも経験がない方がいいのか。

 普通ならばピッチャーというのは、対戦成績が多くなればなるほど、バッター側が有利になるものだ。

 だが直史の残した数字を見ていれば、そういう常識では測れないのは分かっている。

「代打だ」

 この試合に限っても、もちろん勝利は目指していかないといけない。

 だが残りの試合数を考えれば、クローザーとして出てくるこのピッチャーは、なんとしてでも攻略しなければいけない。

 アービングが離脱する前、メトロズはアトランタを勝率で上回っていた。

 なんとしてでも地区優勝し、ポストシーズンを勝ち進んでいかなければいけない。

 クローザーとして初登板の直史を攻略すれば、メトロズは大きなダメージをこうむるだろう。

 この試合は負けたとしても、一点取れれば充分に価値はある。


(そんなことを思ってるんだろうなあ)

 久しぶりに直史の背中を守る大介は、自分の守らなければいけない範囲が、狭まっているように感じる。

 元々直史はフィールディングに優れていて、雨でも降っていない限りは、エラーなどもしないピッチャーであった。

 今日のニューヨークは特に雨も降ることはなく、湿度もほどほど。

 直史が失投する要素はないように思える。


 そんな大介の守備範囲に、いきなりボールが飛んできた。

 逆シングルで捕球して、そのまま切り返してファーストでアウト。

(いきなりかよ)

 高校時代を思い出す。

 とりあえず大介のところに打たせておけば、ヒットにはならないであろう。

 直史のあの頃の思考である。


 今の直史は、変化球のバリエーションも増えて、球威も上がっている。

 また大介に対してやったような、タイミングをずらすピッチングもしている。

 もちろん対戦する相手も、高校野球とは比べ物にならないほどの強者たち。

 だが直史のピッチングの精度やバリエーションは、対戦相手のレベルの上昇よりも、はるかに高いところに達している。


 二人目のバッターも、大介の守備範囲内に打ってきた。

(わざとか!)

 飛び込んでキャッチしてから、セカンドへとグラブトス。

 そこから一塁に送られて、見事なファインプレイとなった。


 大介の好守備が連発した、と言うべきなのだろうか。

 直史は確かに、大介の守備範囲内に打たせているように思う。

 技巧派のピッチャーであれば、それが可能だと思われていたのは幻想である。

 実際にはゴロを打たせるのが精一杯で、それがアウトになるか内野の間を抜けていくかは、あくまでも結果論なのだ。


 まさか最後の三人目も、と思っていたところ、直史が打たせたのは平凡なサードフライ。

 問題なくキャッチして、これでスリーアウト。

 直史は最初のセーブをたったの五球で達成した。




 クローザーというポジションには本来、奪三振力が求められる。

 そのために必要なのは、スピードと空振りの取れる変化球だ。

 本質的には打たせて取るピッチャーは、クローザーには向いていない。

 奪三振こそが、最も事故の起こりくいアウトであるからだ。

 ただ直史に言わせれば、クローザーというのは最も短時間で消耗するポジションでもある。

 なので出来るだけ少ない球数で、打たせて取ったほうがいいのだ。


 やや沈むボールで、ゴロを二つ打たせた。

 大介がぎりぎり処理できるところだったので、三人目は少し工夫した。

 高めにボール一つ外れるストライク。

 93マイルのストレートで、内野フライを打たせたのだ。


 今日のヒーローはやはり、先発で勝利投手のオットーであるだろう。

 しかし移籍後初めてのマウンドで、一人のランナーも出さずに抑えた直史。

 三振も取れるはずだが、一つもなかった。

 打たれた瞬間には、首脳陣の胃にはダメージがいっていただろう。

 それでも結果は無失点どころか、ランナーさえも出なかった。

 大介のファインプレイがなければ、あれは間違いなくヒットであったとしても。


 試合後にインタビューを受けた直史であるが、おおよそいつも通りの塩対応。

 ただ直史にも言い分はある。

「自分の技術を説明するのは、手の内を明かすことになる。引退するまではちょっと、話せることじゃない」

 技術で金を稼いでいるのだから、それを公開するか隠すかは自由である。

 直史にとってみれば、自分はチームを優勝させるためのパーツだ。

 ヒーローになるつもりはない。それは大介に任せている。

 実際に思っていたよりも、はるかに疲れてしまった。


 そしてホテルに戻れば、瑞希や子供たちと合流する。

 食事などもセットになっているが、そちらはもう瑞希たちは済ませた。

 明日にはマンションに荷物が到着する。そのあたりの手配もほとんど瑞希に任せっきりになる。

「佐藤選手、初めてのレギュラーシーズンでのクローザー体験、どうでしたか?」

「思ったより疲れたな」

 ベッドの中で直史は、眠気をまといながらそう呟く。


 直史でも疲れるときは疲れる。それは当たり前のことだ。

 無表情で淡々とアウトを積み上げるマシーンのように見えても、瑞希にはその心の深いところが分かる。

 強靭であり、柔軟であり、変幻するもの。

 それでいて直史は、根本的には肉体のスペックはそれほどでもないのだ。

 技術と投球術の洗練による、直史のセーブ。

 今日はたったの五球で、10万ドルを稼いだことになる。

 一球投げただけで2万ドルと考えれば、とんでもない話だとは思うが。


 ただクローザーは、もう後ろに誰もいないポジションだ。

 九回ツーアウトで、自分の打順が回ってきた、バッターにも似ている。

 先発で最初から、最後までを組み立てて投げるのとは違う。

 短期決戦ならともかく、あと二ヶ月はレギュラーシーズン。

 テンションをどう保っておくかは、直史にとっても重要な問題だ。


 ベッドの中で、珍しくも瑞希が手を伸ばしてきた。

 普段は直史が抱きしめることが多いのだが、今日は瑞希が抱きしめる。

「大丈夫、きっと上手くいくから」

「昔の映画のタイトルで、そんなのあったな」

 集中力と緊張感の、ほどよいバランス。

 直史は暖かでささやかな胸に抱かれ、眠りの世界に入っていくのであった。

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