第23話 最強の打線
カンザスシティとの三連戦、アナハイムは安定した試合内容で勝利した。
レナードにボーエン、そしてフィデルというローテだったのも、勝てた理由の大きな一つだろう。
そして翌日、一日を移動日及び休養日として、ミネソタへ向かう。
直史はその日、スーツケースを持ってマンションを出た。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「らっしゃい!」
真琴はちょっと、視聴しているものが偏っているようである。
球団の車に乗って、そのまま空港へ。
そして目指すはミネアポリス。
これで訪れるのは、四回目となるのか。
もしポストシーズンで当たらないとなったら、これが最後の訪問になるのかもしれない。
カリフォルニアのアナハイムに比べると、ずっと気温は下がる。
それでも六月のミネソタは、もう野球をするには充分な気候である。
そういえば、と直史はふと気づいた。
アメリカに来てから直史は、ひどい雨中の試合で投げたことがない。
元々カリフォルニアが雨は少ないシーズンに試合をするということもあるが、大介たちのいるニューヨークは、それなりに雨天中止がある。
直史は雨が、感覚的には苦手だ。
それはやはり初めての甲子園での敗戦が、微妙なトラウマになっているからだろう。
一応MLBでも雨の中で投げれば、少しは成績が落ちる。
試行回数が少ないので、偶然と言ってもいいぐらいだが。
このカードも、直史の投げる試合以外でも、雨にたたられるということはなさそうだ。
カリフォルニアに比べれば、陽光の柔らかいミネアポリスで、直史は気分を整えていく。
ホテルに到着すれば、改めてミネソタの打線のデータを確認する。
今年のアナハイムがワールドシリーズに進出するためには、最大の関門となるであろう相手。
既に一度は対戦し、一勝三敗で負け越していた。
最後の四試合目に、直史は「サトー」を達成して記憶を刻みつけたが。
あの試合からもミネソタは、それほど調子を落としていない。
さすがに全くというわけではなかったが、上位打線が三割超えのバッターばかりだ。
既に二桁ホームランを打っているバッターも四人もいる。
特にブリアンは20本に到達している。
強打者であり好打者であるが、ブリアンは大介とは全く違うタイプのバッターだ。
彼の集中力へのルーティンは、神への祈りによってなされる。
人格形成の経歴までざっと読んだりしたものだが、直史とは相容れる価値観ではない。
だが別に、特に敵愾心を抱かせるものでもない。
普通にホームランを打たれた復讐を、淡々と果たしていけばいいと思う。
一番から五番まで、OPSが0.850以上というとんでもない打線。
その中で現在のブリアンは1.2ほどにも達する。
それでも大介には、遠く及ばない。
そして直史の警戒ラインにも到達しない。
本当に危険な存在であれば、おそらく対峙したらそう感じるだろう。
去年から今年まで、今のところはそんな存在ではない。
もっともこの若さというのは、成長が著しいものだ。
一年のみならず、一試合ごとに成長してもおかしくない。
日本ならば甲子園が、まさにそういう舞台であった。
元々おかしかった大介が、本格的におかしくなったのは、甲子園に行ってからであったと思う。
とりあえず新しい要素はない。
ごく普通に、ブリアンは成長しているだけだ。
大介との年齢差を考えれば、全盛期の30歳前後に、下降してきた大介の成績を上回ることはあるかもしれない。
だが大介の絶対値を超えられるとは思えないのだ。
なんならプロ入り直後の大介と比べても、まだ下のような気がする。
ただこれは直史の、無自覚の身内びいきが入っている可能性はある。
ベッドの脇のキャストにタブレットを置き、直史は電気を消す。
いつも通りの先発登板の前日であった。
このカードの先発ピッチャーについては、既に発表がされている。
MLBの予告登板は、ごく普通に行われているもので、NPBと違って前日よりも前、カードごとに発表される。
それでなくても、直史の登板間隔から、次にどこで投げてくるかは、分かっていたのだ。
ミネソタにとっては、中四日ではなく、よりにもよって中五日の休息をはさんだ状態で。
去年のレギュラーシーズン中、唯一直史が失点を許したのが、ブリアンのホームランであった。
ただその後のまた回ってきたレギュラーシーズンの試合や、さらにはポストシーズンの試合などで、ミネソタはほぼ完全に封じられている。
パーフェクトやノーヒットノーランはされてないぞ、と悲しいことを自慢すべきか。
マダックスは普通にされている。
一年目から伝説的なピッチングをしてきた日本人。
だが二年目は神話的なピッチングとでも言おうか。
一年目はまだしも、31登板で25完封の30勝と、超人レベルの成績であった。
しかし二年目は32登板で31完封し、32勝している。
投げたら必ず勝つというのが、レギュラーシーズンの直史であった。
ワールドシリーズ最終戦ではついに敗北したが、あれはあまりにも条件が悪かったと言える。
あんなピッチングをすれば、燃え尽きてもおかしくはない。
実際にワールドシリーズで酷使され、その後の成績を落とすというピッチャーは少なくない。
だが今年の直史は、さらにピッチングの内容を上げてきているのだ。
三年目の途中で、既に13回のパーフェクトピッチング。
実はパーフェクトを達成しているピッチャーというのは、その後はぱっとしない選手も少なくない。
それよりはノーヒットノーランを二度以上している方が、ピッチャーとしての通算経歴は見事なものになるものだ。
奪三振王ノーラン・ライアンは七度のノーヒットノーラン。
ただ直史の場合は、唯一の複数パーフェクト達成者だった。去年までは。
弟が来て、やはり一年目で二度のパーフェクトを達成してしまった。
ただ武史の方は、むしろ奪三振が注目されている。
シーズン500奪三振など、他の誰が更新できるものか。
もしも去年、ミネソタがワールドシリーズに進んでいたら。
果たしてメトロズに勝てただろうか。
今年のMLBの行方は、アナハイムに主力の故障離脱者がいるため、ポストシーズン進出すら怪しい。
だがナ・リーグのメトロズは四月の不調が終わり、どうにかポストシーズン進出の気配は見えている。
ワールドシリーズ制覇は、ミネソタの悲願である。
ブリアンを筆頭に強打者巧打者がそろい、そしてピッチャーも補強した。
歴代のMLBを見ても、かなり上位に、いやほとんど最強クラスとさえ言える、攻撃力を手に入れている。
実際にこのレギュラーシーズン、110勝ぐらいはするペースで勝ってきている。
しかし最初のアナハイムとの対決は、野球がチームスポーツであるということを、忘れてしまうような結果であった。
ヒット一本に抑えられ、78球で10奪三振。
屈辱的過ぎる内容で、むしろ奮起したバッターもいる。
そしてまた、直史と対決する。
サトー・グレート、などとも呼ばれている直史である。
勝機があるのか、と言われたら難しいところである。
しかし今後、MLBで食っていくバッターならば、少なくともFAまでは同じリーグで対戦することになる。
31歳の直史が、あと数年は全盛期であると考えるのは、ミネソタ陣営にとっておかしなことではない。
「ただ、アナハイムとの契約は今年限りなんだよな?」
「今、資金力に余裕があるのは……ボストンあたりか?」
事情を知らない選手たちは、そんな話をしたりする。
ただ直史を打てなくても、ミネソタは充分にワールドチャンピオンを狙える。
ナ・リーグのチームならどこが来ても、ミネソタの打線で打ち砕けるはずだ。
問題はただ一つ、メトロズとの殴り合いになった場合だ。
武史がいるため、そうそう大量点は取れないだろう。
他の試合を確実に取っていかないといけない。
メトロズも武史がFAになるまでは、投打に究極戦力がいる。
アナハイムもターナーが復帰に間に合えば、一躍優勝候補に復帰する。
ミネソタがもっと確実にワールドチャンピオンを狙うなら、この2チームの戦力が、もう少し分散したシーズンになるだろう。
だが現在、リーグトップの勝率を誇っているのはミネソタだ。
ポストシーズンは戦い方を知らない若手ばかりでは、勝ち進めないなどとも言われる。
だが去年も直史という存在がいなければ、ワールドシリーズまでは進めたはずだ。
過去のことをいくら言っても仕方がない。
ただ過去の事実から、今年はどのぐらいを狙えそうなのかは分かる。
そのためにもまずは、目の前の対決から目を逸らすわけにはいかない。
アナハイムとの三連戦が始まる。
ミネソタにとっては、今季を占う最終決戦に近いぐらいの比重がある試合であった。
六月上旬の、過ごしやすい日である。
日本であればもう、猛暑日などになっていてもおかしくはない。
だがここミネアポリスは、何よりも日本に比べて湿度がないので快適だ。
それはアメリカ全体に言えることであるが。
起床してからのルーティンでも、直史は特に異常を感じない。
食事を終えて軽くストレッチをして、関節の稼動域を確認する。
やがて試合前のグラウンドが使える時間になる。
ミネソタのグラウンドでプレイするのは、順調にいってもこの試合で終わりではないはずだ。
ポストシーズンまで進めば、普通にここでの対戦はある。
直史は軽くキャッチボールをした後、変化球も試した。
いつも通りだ。問題はない。
このままいつも通りに、投げればそれでいい。
時間は過ぎていき、ナイターの今日は観客もしっかりと集まってくる。
MLBに限らずアメリカのスポーツ観戦は、途中から来たり途中で帰ったりと、試合の趨勢が決まれば興味を失う観客が多い。
それは日本においても、大差をつけたから風呂にでも行くか、とテレビ中継を切りあがる者が多かったりするが。
そして風呂上りに確認すれば、なぜか逆転されているところまでがセットである。
試合のチケットは完全にソールドアウトしていた。
それでも来れなくなったキャンセル待ちで、スタジアムに人が並ぶ。
ミネソタも去年の大健闘から、観客動員は大きく増えた。
ただずっと満員御礼が続いているのはメトロズである。
大介が離脱した期間も、チケットは売れ続けていた。
そのバッティングにはそれだけの価値がある。
直史もまた、自分のピッチングで満員にならない試合は、ほとんど見たことがない。
ホームゲームだけではなく、アウェイの試合であってもだ。
生きた伝説が直接見られる機会があれば、さほど興味がない人間だって、見られるものなら見たくなる。
スポーツチャンネルが独立したこの時代、普通のニュースでも流れるのが現在のMLBだ。
大介がホームランを打ち、直史が勝利を重ねていく。
果たして直史は、レギュラーシーズン中に負けることがあるのか。
それがもう、目下の話題となってしまっている。
そして試合が始まる。
ミネソタの先発はクルーン。勝ちにいくピッチャーだ。
アナハイムの先攻なので、まずは一点を取っていきたい。
アレクはこの試合、中盤がアナハイムの勝負どころだと思っている。
クルーンの立ち上がりが悪ければ、そこを叩いてもいいのだが。
まずは球数を使わせて、やや球威が衰えたところを叩く。
基本方針通り、最初からゾーンに投げてくるクルーンを、難しいところはカットしていった。
アレクは一応、直史が点を取られる姿を見ている。
MLB以前、高校時代のことだ。
二年の春は見ていないが、二年の秋の神宮。
坂本にホームランを打たれているのだ。
それから後の直史は、まるで打たれていない。
最後の夏の決勝戦は、恐怖に対する耐性の強いアレクでさえ、化け物かと思ったものだ。
20球粘ってから、アレクは凡退した。
ミネソタは今年、ピッチャーの方も先発だけでなく、リリーフ陣も補強しているのだ。
アナハイムはそれなりに、前のカードでも点を取っていた。
なのでこの試合も、それなりに点は取れる計算だ。
先発が疲れてきて、勝ちパターンのリリーフ陣が出しにくいところで叩く。
それがアレクの計算である。
三者凡退で、一回の表のアナハイムの攻撃は終わる。
そして一回の裏、直史がマウンドに登ると、ブーイングではなく奇妙なざわめきがスタンドを満たした。
大声で叫ぶとか、口笛を鳴らすとかではない。
クラシックのコンサートの開演直前のような、かすかなざわめきであった。
一回の裏、直史のピッチングが始まる。
カーブ、ツーシーム、スルーを打って内野ゴロ。
カットボール、ストレートでキャッチャーフライ。
いとも間単にツーアウトを取って、直史はバッターボックスにブリアンを迎える。
とりあえずブリアンに対して危険なのは、ストレートである。
だからこそ初球にストレートを投げた。
中途半端なスイングは、ボールを詰まらせてしまう。
ファールスタンドにボールが飛び込んで、まずストライクカウント一つを稼ぐ。
そして二球目もストレートであった。
インコースのボールを振って、バックネットにボールは飛ぶ。
一球目よりはタイミングは合っていたが、球威に押されていた。
ブリアン相手に、二球連続でストレート。
舐められているのか、などとブリアンは考えない。
圧倒的な格上からの、上から目線。
これはお互いにとって、当然の配球なのだろう。
三球目もまたストレート、という可能性はあるだろうか。
さすがにないはずだ、と思うからこそ投げてくるかもしれない。
樋口から戻ってきた返球を直史が受け取り、セットポジションに入る。
スタジアムの中から、人の声が消えた。
テイクバックの小さな、直史のフォーム。
リリースされたボールは、ストレートに見えた。
これは打てる。
ブリアンの優れた動体視力は、リリースされた瞬間に、ボールの変化を把握している。
ストレートではなく、これはスルーだ。
沈みながら伸びるボールの軌道を、ブリアンは空中に読み取る。
ホームランを狙うフルスイング。
だが、ボールが来ない。
スルーはスピード自体は、ストレートとさほど変わらない。
つまりこれは、チェンジアップだ。
スイングを止めようとしても、スピードに乗ったそれを止めれば、体を痛めるかもしれない。
落ちていくボールに対して、なんとか待ってカットをしようとする。
しかしボールはワンバウンドして、樋口のミットに収まった。
回転して尻餅をついたブリアンに、タッチしてアウト。
一打席目は三振で、ブリアンの敗北に終わった。
投手戦となった。
だがその内容は、大きく差がある。
クルーンも注意深く投げてはいるのだが、ヒットやフォアボールでランナーを出している。
ただ一点を取られないように、逆算してピッチングをしているように思える。
ランナーは三塁まで進んだこともあったが、そこで止める。
見事なピッチングと言えるだろう。
対する直史は、圧倒的であった。
一巡目を当たり前のように、たった24球で終わらせる。
ミネソタは今季、前の対戦でも、ヒット一本の78球で封じられていた。
下手にパーフェクトなどをされるよりも、圧倒的に少ない球数で抑えられる方が、より敗北感は高い。
今日もこのペースなら、81球未満で抑えられてもおかしくない。
何より今日は、まだ一人もランナーが出ていないのだ。
二打席目のブリアンは、初球のスルーに手を出した。
ピッチャーマウンドで跳ねて、セカンドがそれをキャッチする。
無難にファーストに送球して、内野ゴロアウト。
最初の打席のチェンジアップが利いている。
いつも通りの、点が入る気がしない試合だ。
ただそれでも、こちらも点を入れさせなければ、延長には突入していく。
ミネソタにとって、クルーンは確かに貴重な先発だ。無理をさせるわけにはいかない。
だがそれ以上にアナハイムは直史に無理をさせて壊れたら、今季は完全に終わる。
しかし直史は壊れない。
壊れるとしたら、ワールドシリーズの最後の一球と決めている。
昔からそうやって、壊れてもいい場面を考えてきていた。
甲子園に行けるなら死んでもいい。
冗談のような話だが、甲子園に行けるなら、選手生命はいらない、ぐらいに思っている人間はそれなりにいる。
直史は自分自身はそうではなかったが、どこで自分の力を使い切るかは、ずっと考えていた。
一年の夏、甲子園に一歩届かなかった頃から。
プロの世界では、いつ壊れるかを考えて生きている。
逆に言うとだからこそ、本当の限界の狭間で、投げることが出来ているのかもしれない。
野球で食べているプロであっても、本当に自分が潰れる覚悟をしている人間はそうはいない。
境界線上を歩むからこそ、直史はここまで達したのだろう。
ブリアンの第三打席。
七回の、ツーアウトからである。
つまりここまで、一本もヒットを打たれていない。
そして時速90km/h台のスローカーブから、対決は始まった。
ここまで二打席は抑えられているが、バッターは一本ホームランを打てば逆転勝ちだ。
この試合のように、お互いが無失点の場合は、つまらないエラーからリズムが狂ったり、ホームランの一発で試合が決まったりする。
マウンド上からブリアンを見つめる直史。
(成長してるな)
ブリアンと対決すると、自然とトランス状態になっている自分に気づく。
プロ入りしてから初年の大介との対決も、差がどんどんと縮められていくイメージはあった。
ただそれに対して、自分もどんどんと幅を広げていった。
そして高みを目指していたが、実際はより深いところに潜っていったのかもしれない。
深く潜れば潜るほど、戻れなくなるかもしれない。
その領域にブリアンも足を踏み入れかけている。
スライダーを投げたら反応された。
完全に自分に当たるような角度から、内角のゾーンへと入るボール。
これをわずかに腰を引いて見送ったブリアン。
ボール判定されてもおかしくないのを、樋口は上手くキャッチングしている。
(だが、まだ早い)
10歳ほども若いのだから、まだまだ成長すればいい。
大介が本格的に衰え始める頃に、ブリアンは最盛期を迎えるであろう。
だが、今は今だ。
直史の投げたストレートを、打ったもののショートフライ。
三打席目もまた、無安打に終わった。
七回を投げてパーフェクトの直史。
しかしクルーンもまた、七回を無失点に抑えて、後続のリリーフに継投する。
0-0のまま終盤へ。
このまま九回まで投げるなら、ブリアンを完全にしとめた直史の方が有利だ。
ただミネソタもクルーンが、七回までを無失点に抑えた。
勝つつもりで、勝ちパターンのリリーフを使ってくる。
八回の表も、アナハイムは得点がなし。
こうなってくると、後攻めの方が有利になってくる。
しかし直史は昔から、先攻の試合に強いのだ。
もっとも延長にでも入れば、どんなピッチャーでも心理的には後攻が有利。
ただ直史は、その有利の差がほんの少しであるだけで。
八回の裏、ミネソタはまだクリーンナップの四番から。
一発が出たら終わる試合で、対決したくはないバッターが続く。
ミネソタの五番までは、誰もが長打を狙えるバッターだ。
しかも打率も出塁率も高い。
それでも直史のピッチングは変わらない。
より広いコンビネーションで、変わらずに打ち取っていく。
無失点のまま、11個目の三振を奪う。
スリーアウトチェンジで、まだ球数は71球。
最終回に9球で終われば、サトーの達成だ。
しかしそれも味方が一点を取ってくれないといけない。
とんでもないプレッシャーは、直史の肩に圧し掛かっている、と周囲は思うかもしれない。
だがこの緊張感は、まだまだあの時ほどではない。
甲子園の延長を経験していれば、まだまだ投げられる。
負けたら死ぬ、ぐらいの気持ちでやっている高校球児は少なくない。
だがアメリカに来て直史は、本当のハングリー精神を見た気がする。
日本に比べれば、アメリカでメジャーリーガーになるというのは、貧困からの脱出であるのだ。
日本の貧困とアメリカの貧困は、レベルが違う。
そんなどん底から這い上がるマイナーの選手たちは、確かにハングリーでクレイジーだ。
だからこそ、高校野球は凄まじいのだろう。
野球の道具を考えれば、底辺の貧困層が手を出すスポーツではない。
実際にアメフトのプロテクターなども、高価なものである。
それに比べるとまだしも、バスケやサッカーの方が、敷居は低い。
ストリートでも出来るスポーツであるからだ。
それでも日本で大金を獲得できるスポーツは、野球が一番ではなかろうか。
そんなプロまでを目指しているわけでもないのに、壊れるまでやってしまうのが高校野球。
あの異次元の時代を、日本の選手はほとんどが経験している。
九回の裏が終わった。
お互いに無失点の、0-0のまま延長に突入する。
27人80球丁度で片付けた直史であるが、まだパーフェクトは成立していない。
味方が点を取って、勝利して初めて、パーフェクトは成立するのだ。
もっとも今の時点で、ミネソタの打線は既に、完全に心は折られているだろうが。
9イニングを投げきって、ベンチに戻ってきた直史。
何度同じことを経験するのか分からないが、チームメイトからの畏怖の視線が多い。
(これで10回に、またブリアンに回るわけか)
もしも10回の表に点を取れず、ブリアンにツーアウトで回ったら。
そこでホームランを打たれたら、パーフェクトどころか負け投手だ。
球数から考えて、まだ限界はずっと先にある。
ピッチングコーチのオリバーも、一言確認してきただけだ。
10回の裏も直史が投げる。
おそらく今年の対決の中では、最も敗北の可能性が高い試合と、開戦の前には思われていた。
しかし事実を見れば、またも九回をパーフェクト。
これでパーフェクトのみならず、負け投手にまでしてしまったら、アナハイムの首脳陣への批判は大きなものになるだろう。
ただこの10回の表は、アナハイムは上位打線に回ってくる。
得点にまでは至らずとも、アナハイム打線はランナーを出してきた。
それによって五打席目がもう回ってくるのだ。
もっともミネソタも、ピッチャーは交代してくるので、ボールに慣れてはいない。
だが相手の立場に立ってみれば、どちらが追い詰められているのか。
一本のヒットも、味方が打ってくれていない、この試合。
ピッチャーにも強烈なプレッシャーがかかるのは間違いない。
アナハイムはワンナウトから、アレクの五打席目が回ってきた。
当初の予定と違い、試合の中盤で先取点を取ることが出来なかった。
直史との投げあいで、クルーンが頑張りすぎたというのは予定外だ。
本当にメジャーリーガーというのは、勝利に対して貪欲だ。
ここで負けてしまっても、七回一失点ぐらいなら、全くその評価は変わらないであろうに。
バッターボックスに入るアレクを見ながら、プロテクターを外した樋口も、思考を切り替える。
ちゃんとリードしながらミネソタを抑え、バッティングでも成果を出すというのは、確かに難しいことであろう。
だが樋口は、自分がそれをするべきだと、己に課している。
だから打てないのは仕方なくはない。
ここで打って、試合を決めてしまおう。
ベンチの直史は、この後の試合の展開を考える。
球数はまだまだ余裕があり、体力的にも消耗していない。
あとは思考力と集中力の問題だが、これも特に消耗していない。
ミネソタはクローザーまで出してきているので、11回になればおそらく一点は取れる。
そしたらそこからスリーアウトを取って、試合を終わらせてしまえばいい。
失点する可能性などは考えない。
ただ目の前のバッターを、淡々と打ち取る。
そのためだけの存在に、直史は変化している。
ゾーンを維持しながら、自由にトランス状態にも入る。
完全に舞台が整ってしまって、直史は目指すべき領域に入ってしまっている。
そして己の限界のラインが、まだ遠くにあることまで分かっていた。
あと3イニングは、フルパワーで投げても問題ないだろう。
魔王の支配する時間はまだ終わらない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます