第4話 記憶の狭間に揺れる者達

 俺は暗闇に居た…… 深く冷たい暗闇の底に‥‥。


 何も聞こえず、何も見えず、何も感じない、ただ僅かばかりの胸の鼓動が事の終わりを告げようとしていた。この何もない閉ざされた静寂の世界で俺は、不思議と心地よさを感じていた。


(これで楽になれる……明日からは、ずっと眠りにつける)


 すると、遠くから頭に響く声がする。


⦅おい……⦆ 

―――誰だ⁉……


⦅いいかげんに起きろよ……⦆ 

―――これは夢⁉……


⦅しょうがねーなほら……⦆

 

 見知らぬ男が光の輪の中から手を差し出した。俺は必死にその男に手を伸ばす…… これは遠い夢?何処かで見たことのある光景だった。


 ―――何処で……


 ―――――⁉ 

胸が急に苦しくなった―――


「ごぼっ‼ うげええっ‼」


 バシャッと俺は、大量に飲み込んだ川の水を激しく嘔吐し、むせながらも生きる為に空気をむさぼった。


「がっはぁはぁはぁはぁ」


 誰かが俺の胸を押していたようだ。

 

 いまだ目がかすみ、焦点が合わず激しい頭痛に頭がぐらぐらする……。

体中に痛みが有り、まともに動ける状態ではない。俺の身に何が?疎覚うろおぼえで定かではない、確か大滝に……しかし……俺は助かったのか?それとも死んでいたのか?


 仰向けに寝ているであろう俺の横から顔らしきものが現れ、唇を重ね勢いよく酸素を送り込んでくる!


「ぷ―――――っ」

俺はまたむせる……


「がっはっごほっごほっ」


 分る事は、今この人が俺の命を繋いでくれたと言う事実。顔を覗き込みまた唇を重ねる。


「ぷ―――――っ」

またむせる……


「ごほっごほっ」


 頬は膨らむが全然肺は膨らまない。本当にこいつのお蔭なのか? そして大事な事は、もう俺は息を吹き返していると言う事なのだが……


「ぷ―――――っ」


「ごっほっ、ごほっ、あぁすまない多分もう大丈夫だ」

 

 そう言い半身を起こし命の恩人を見て驚いた―――


 「―――――⁉ 」

 

 一糸纏わぬ姿の少女が不安そうな表情を浮かべている。この少女が救命処置を?


(年の頃は同じか若干下くらいか…… )


 流石に動揺したが、怖がらせてはなるまいと平静を装い礼を述べる。

「有難う、君が助けてくれたんだな感謝する、君は命の恩人だ」


 少女は首を傾げる―――


(ん⁉…… 言葉が通じてない⁉ )

 

 ピンク色の頂きを連ねる双丘が魅惑的に震える。


(此処は一体どの辺りなんだ? )

―――どれ位流されたのだろう…… 


(裸族が居るなんて聞いたことが無いが…… )


 辺りを確認しようと、すっと立ち上がると、激しい眩暈に見舞われ突如、ドタッと言う衝撃と共に視界から風景が消えた。




 コトコトと鍋の蓋が踊り、こころよ律動りつどうを奏でながら、馥郁ふくいくとした香りを吐き出して俺の眠りを妨げる。

「うっうぅ……ここは⁉ 」


 部屋を見渡すと直ぐに木彫りの馬の置物が目に入った。天井は低いが伝統木造建築の組木で丁寧に作られ、決して明るいとは言えないランタンが揺れている。壁は半分がレンガ、もう半分は丸太を組んで強度と気密性を高めて居る。


「おや? ようやくお目覚めかのぉ? お前さんはあの子が此処まで運んで来たんじゃよ、礼ならあの子に言うんじゃな、エマーリア、ほれ! 気が付いたぞ」


 風変わりな髪結いをした老人が声を掛けると、部屋の奥からタタタッと足音が近づき、俺の前に現れた先程の少女は―――


 ―――服を着ていた……

(チッ――― )

 

 自分の身体を確認すると、丁寧に怪我の処置をしてくれていたようだ。全身に包帯が巻かれ、所々血が滲んでいる。しかし未だ頭が割れそうだ。


「まぁその怪我は軽く見積もっても重症じゃ、意識が戻っただけでも拾いもんじゃろうて、なに、怪我が良くなるまで此処で静養したらええて」

 

 エマーリアと呼ばれた少女は俺を優しく起こし、水の入ったコップを口元に運んでくれる。


「そろそろ食事にするかのぉ、お前さんはまだ起き上がれんだろうからエマに食べさせてもらえばええ」


「あぁすまない……助かるよ」


「お前さんはエマが連れてきてから3日意識を失ったままじゃったからの、腹が減ってるじゃろ、沢山お上がり、たくさん食べて元気が出たらお前さんの事も聞かせてくれんかの? 」


「あぁ勿論だ」

(3日も……)

 

 エマがスープを口に運んでくれる、長時間煮込んだであろう黄金色のスープを舌の上で転がし濃厚なこくを味わう。これは旨い!素朴な味だがカラカラの胃袋に優しく旨味が染み渡る。

「あぁ生き返る…… 」


「ほう、気に入ってくれて何よりじゃ、フォーリと言うてな、ラム肉とキャベツを良く煮込んだ簡単な田舎料理のようなもんじゃ、ほれこのパンにひたして食うても旨いぞい」


 少し硬そうなパンには沢山の木の実が練りこまれている。

(こんなまともな食事はいつ以来だろうか…… )


「今日は特別に熊肉のステーキもあるからの、まだ腹を膨らませるなよ?ほら出来たぞい」


「熊肉? すごい御馳走だな、街は近くなのか? 」


「街⁉ お前さんは何を言っておるのじゃ、街なんぞ10日やそこらじゃ着かんぞ? この周辺には人は一人も住んでおらんよ、此処はヒーシの森の奥の更に奥、魔境と呼ばれておる所じゃ」


「魔境⁉ 何だか物騒な名前だな」

俺は少し眉をひそめてそう答えた。


「ははは、儂らがそう勝手に呼んでおるだけじゃ深い意味は無い」


 芳醇な香りに包まれ肉汁溢れる熊肉をエマが口に運んでくれる。

「そうか、じゃあこの熊肉は……? 」


「あぁ、街まで買いになんて行けんからな、この地でエマが一人で仕留めたものじゃ」


 (―――今なんて⁉ )


「少女が一人で熊を? 仕留めたのか? まさか、俺でさえ熊一頭を一人で仕留めるには命懸けだぞ」


 俺の驚きにエマはきょとんとしている……


「ははは、エマは小さな頃、このヒーシの森で儂が拾い育てた。儂はこの地よりもずっとずっと遠い大海を渡った外の国、日下ひのもとと称される東方の国の出自でな、国を追われ、自らの目的の為にこの地に参った。名を金窪かなくぼ兵衛ひょうえいと言う、そこでは武道と言う道を極めておったのじゃよ、それで昔取った杵柄きねづかでっと、わからんか、まぁ、武術をあの子に仕込んだと言う訳じゃ、じゃからこちらで言う戦人か?それよりも手練てだれじゃと思うぞい」


「ぶ……どう? ぶじゅつ? 」

 エマは食事の済んだ食器を下げ興味無さげに席を立つ。


「あぁ、武道とは武士道。理念を持ち武の道を極めし者。そのしるべとなる教えの事じゃ、その中には、柔術、剣術、弓術、馬術が含まれ総じて武術となる」


「剣術と弓と馬はわかるが、柔術とは? 」


「なんだ? お主は問いが多いのう、まあええわい、柔術とは力無き者が強者に勝つ為の教えじゃ、【柔よく剛を制す】無手むてにより相手の力を利用しいなす技じゃ、体術とも似ておるの」


「凄いな…… 異国の武術か…… 」

(俺はまだまだ物知らずで小さな存在だな…… )


「なに、興味が有ればまた話してやろうて、今日はもう更けて来たからのう、そろそろ休むとしよう、そうじゃそうじゃ、このこうくとよいぞ阿芙蓉あふようと言う安息香でな、良く眠れる、虫除けにもなるしの」

 

 そう言うと老人は、俺が寝る鹿の毛皮を紡いだ寝床の横に、陶磁器製の香炉を置きランタンの灯を落とした。


 香の燻煙くんえんに誘われ、俺はまた長い夢を見た、またあの光の輪の中から、見知らぬ男が手を差し伸べる。手を伸ばすが届かない、幾度と繰り返すが…… 手は離れてゆく…… しかし俺は、その手をどうしても掴まなければならない気がした。





「何⁉あの大滝から飛び降りたとな? そりゃ普通死んどるな。まぁ、生きとるってぇ事は、お前さん余程、神様に好かれとるんだろ」


(神―――――⁉ )


 俺は一瞬その言葉を聞き、コップを床に落とす。突然全身に悪寒が走り両腕を抱えながら嘔吐えづき震え、顔面蒼白になり強烈な動悸が耳に木霊こだまする。


「あがぁ…… 」


 ガクガクと激しく身体が拒否反応を示し頭を抱える。エマが直ぐに駆け寄り身体を支える―――


「なんじゃと⁉ おいっ!しっかりしろ? お主まさか…… 大丈夫じゃ落ち着け、落ち着いてゆっくりとじゃ、いいかゆっくりと自分の名を言うてみろ」


「俺の名⁉…… はっはっ…… 名前は⁉…… 名は……」

 

 視界が狭まれ不安が頭をよぎり、血液が上手く身体を巡らずに呼吸が乱れる―――


(わからない…… 俺は…… 誰なんだ…… )


「はぁはぁはぁ…… ぜぇぜぇ」


「もうええ、わかった、わかったから少し横になれ、少し休むんじゃ、今茶を淹れるでの」





 老人はエマを大滝付近に向かわせた。付近に何か俺の身元を明かすものが無いか、それと当時、大滝付近で何が有ったのかを、その痕跡を探らせに行かせた。


「なに、3日で帰って来いと言っておる、あの子であれば大丈夫じゃろ」


 老人は俺の横に腰掛け話を始めた。俺の精神は何者かに触れられ、精神的外傷を負ってしまっている事と、その尋常ならぬ恐怖から身を守るため、自分で記憶に蓋をしまっている事―――


 ―――そして……


「エマと同じじゃよ……」


「エマと⁉ 」


「お前さん気が付かなかったか⁉ あの子は口がけんのじゃ、

目の前で親が生きながらに獣に食われての、その地獄の様な凄惨な惨状を声を殺し目に焼き付けてしまったようじゃ、儂が保護した時にはもう既に心を壊し虚空を仰ぎ放心状態じゃった」


 心的外傷。強い精神的衝撃を受けた事が原因とされ、感情の喪失、記憶の混濁、関心の減退、言葉の喪失、意欲の喪失と陰性感情が溢れ文字通り心が壊れてしまう。


「今の俺もそうだと⁉ 」


「頭を強く強打したのも引き金じゃろうが、それ以前に精神に負荷を負っていた可能性も否めぬ…… だが、お前さんは記憶の全てを失った訳ではあるまい? 先ずは記憶の欠片を、そして糸をゆっくりと紡いで行こうかの、焦る事は無い、僅かな切っ掛けが紐解く事も有ると聞く、どこまで覚えておるのか話してくれるかの? 」


 狩人だった事、父を何者かによって殺された事と、何か大事な人物を探し旅をしていた事、そして何かに追われ自ら大滝から身を投げた事を話した。


「母の名は言えるが、村の名前も場所も…… ダメだ、思い出せない」


「焦る事は無い、お前さんはまだ良いほうだ口が利けるからな。恐らく探して居た人物と言うのは、親父さんをあやめた相手であろうな、その敵討かたきうちの為にそやつを追って旅に出たのであろう」


「…… 」


「殺めた者の特徴は? 男か? 女か? どんな風体をしていたか分かるか? 些細な事でも構わんぞ? 」


「すまない…… 」


「そうか、致し方あるまいて、辛い事を聞いてしもて悪かったな」


「ただ…… 」


「何じゃ? 」


「手も足も出なかった、何も出来なかった。それだけは覚えてる、そして強く成らなければと」


「そうか……」

⦅親の仇は、かく討つぞか…… 未だに耳から離れんわ⦆


「しかし今のままでは叶わぬのではないか? 」

老人は立ち上がり部屋が暮色ぼしょくに包まれる前にスッとランタンを灯した。


「兵衛殿…… 迷惑なのも十分理解している。助けて頂いたご恩も必ずお返しする。だから迷惑ついでにもう一つ俺の我儘を聞いてくれないだろうか? 兵衛殿の言う通り、今の俺の実力では、敵討ちなんて到底無理だ、返り討ちにされるのが関の山、情けない話だが教えをう師も居ない。どうか俺に、俺に武術をご指南しなん頂けないだろうか? 」


 老人は俺が話し終わる前に声を張り上げた―――


「駄目じゃ、ならん! 命の取った取られたは堂々巡り、終わらんのじゃよ、復讐が怨恨えんこんとなり報復がまた意趣いしゅとなる。不倶戴天ふぐたいてんを抱いてはならぬ、死の連鎖を生むだけじゃ、指南は出来ん! 今は記憶を取り戻す事が先決じゃ、敵討ちの事は諦めろ、今日の話は此処までじゃ、儂は離れにおるでの、少し頭を冷やし考え改めるのじゃ、よいな? 」


「…… 」

 

 俺は返事をしなかった、いいや、返事が出来なかった。彼が示唆しさした事は疑うべき余地も無く正論だったからだ。敵討ちで失われた父が帰ってくる訳ではない、俺を待つ人達を更にまた危険に晒すかもしれない、でも……


 風は時折カタカタと木枠の窓を叩き、隙間風がランタンを揺らす。

俺は身体を横にしランタンの灯に揺れる天井を見つめていた。





≪あんたも昔はそうだったじゃないか≫

―――老人の頭の中で女が語る……


「何じゃ、アナベルか呼んではいないぞ」


≪ご都合主義で呼ばれたんじゃたまったもんじゃないからね

これはあたしの意思だよ≫


「何の用じゃ? 」


≪話は聞かせてもらってたよ、何であの子を拒むんだい? まさか今更になって自責の念って訳じゃないだろうね? ≫


「…… 」


≪ラシード、あんたはまた殺人鬼を生むのが怖いだけだろ? フィダーイアサシンの偉大なる父よ、この過去は変えられないんだよ≫


「ああそうかもしれんな、じゃがな…… 」


 そう言って老人は深いため息をついた。

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