第3話 未知との遭遇

 目の前には、川? 湖? 

 おれを囲むのは、視界の先の奥まで広がる樹木。――森だった。


 水に濡れているためにあまり気にならないが、蒸し暑い。ワイシャツ一枚だが、冬用なので、水が渇けば夏のように暑く感じるだろう。

 やがてじわじわと水なのか汗なのか分からない水滴が、おれの肌の上を流れ落ちていく。


「熱帯雨林……日本、じゃなさそうな感じがするけど……」


 湿っている地面を見るに、水場の近くだからとは言っても、湿り過ぎている気がする。

 流れがあるので、目の前の水場を川だと判断し――ではその川から水が漏れたり染み込んだりして、遠くの地面まで湿っているとは考えにくい。


 辺り一面、均等に湿っているところを見ると、雨だろう。


 つまり、ここは熱帯雨林なのだ。


「……それが分かったからと言っても、場所の特定にはならないか」


 絞り込めることには成功したけど、その上でも難しいだろう。


 棲息している生物や、生えている植物を調べれば、専門家ならば分かるだろうが、生憎とおれにそんな知識はない。

 なにが現れたところで、場所の特定には繋がらないのだ。


「だけど、動かないとな」


 ここはどこなのか、と嘆いていても始まらない。

 ストレスを発散するため、文句を言う相手も傍にはいないし、立ち止まっていたまま助けがくるとも思えない。


 脱いだ学生服を腰に巻き、川とは反対側の背中を目指す。

 整理された道はどこにもなく、おれが草木を掻き分けて進まなければ、前も見えないほどの緑の密集度だ。


 手の届く位置にある大きな扇形の葉を、手の甲でどかして進もうとしたら、日の光を遮る大きな葉を持つ真上の枝が揺れて、がさがさと音を立てる。

 おれが動いたせいで、野鳥が危険を察知し飛んで逃げたのだろう。

 姿は見えないが、翼の音だけが聞こえていた。


 無理もないが、音を立てれば、おれの存在を周りに示すことになる。

 野鳥のように逃げてくれる生物ばかりであればいいが、獲物として、おれを見ていれば、当然襲ってくる生物も中にはいるだろう。


 気づいた途端に、意識が敏感になる。物音一つ、水面の揺れの音にさえ、びくっと肩を震わせてしまう。ふと、後ろを見た。

 ――長い口を水面から出し、陸に上がろうとしていた、ワニがいた。


 鰐……か? 姿は見慣れた鰐、そのものだが、大きさが桁違いだ。知っている鰐とは似ても似つかず、恐竜に近いと言った方が正しい。

 口の長さを考えると、舌の上に大人一人が寝てもまだ余裕がありそうな長さ。そして、水中に浸かっていて見えないが、口から察するに、それ以上の大きさの体が待っているはずだ。


 前足が水を吸った地面に着き、泥となった土は、鰐の重さを表現するように沈み込む。

 大きな足跡を作りながら、一歩一歩と進んでくる鰐を目の前にして、おれの思考は対処法を忘れている。


 対処法を考えることを忘れている。

 こんな巨大生物と出会った時の対処法なんて、知るはずもなかった。


 ……さっきの野鳥は、もしかして。


「おれじゃなくて、こいつが近づいていると察知して……!」


 ……逃げよう。


 幸運なのは、大きいがゆえにこいつの動きは遅い。走って逃げれば、追いつかれないくらいの速度を出すことはできる。だが、草木が密集している道を進むとなると、勝敗は分からない。


 そして、おれにとっては、どこがゴールなのかも分からないのだ。


 不安だらけだ。

 だが、大きな口に挟まれて全身を砕かれる痛みに比べれば、草木に肉を切られる程度、どうってことない。


 鰐の体の三分の一が、水面から陸地に上がったところで、意を決し、おれは背中側へ走り出した。腕をかくようにして草木をどかすこともしないで、片腕を顔の前に出して目だけを守り、草木の中を突き進む。


 おれを追う足音が聞こえる。

 激しく木々をなぎ倒していく破壊音が鈍く響く。後ろを振り向くな、ひたすら前へ進め。


 そう自分に言い聞かせ……、

 そして数分の全力疾走の末に辿り着いた先は――壁だった。


「行き止まり……!?」


 おれが思う壁とは違い、大きな岩をいくつも積み上げた、水の流れを即席でせき止めるような応急措置にも見えたが、行き止まりであることに違いはない。

 平らではないので、ロッククライミングができないわけではないが、見上げても日の光のせいもあるが、壁の頂上が見えない。


 握力が、登り切るまで持つわけがないし、半分まで登れたとして、そこから落ちれば鰐に捕食されるのと結果は同じだろう。……死ぬという結果は変わらない。


 ……死ぬ。


 思えば――、それでも別にいいのではないかと、そう思えてしまった。


 今のおれに、大変な思いをしてまで窮地を乗り切り、生きる意味があるのかと。


 生きて帰ったところで、おれの世界にはぽっかりと空白ができてしまっていると自覚すれば、諦めるまでは早かった。

 岩に指をかけた手を下ろす。

 振り向けば、おれを追っていた鰐が、大地を揺らしながら姿を現した。


 鰐の体に下敷きにされた草木は、地面を這っており、立ち上がる元気もない。……それで道ができたわけだが、おれが使うことはないだろう。……おれは今、ここで捕食されるのだから。


 痛みの恐怖は、無気力の前ではどうでもいいことへと格下げされた。


 見える牙に噛み砕かれたら、痛みどころではないのだろうな、と、そんなことを考えた。


 皿の上に乗った気分だ。

 幼児に遊ばれる食材に比べれば、今のおれは一口で食べてくれるだけだいぶマシだろう。

 おれは運が良い、恵まれている。


 ――流々がいてくれたから。


 これまでの人生、楽しかったのだ。


「そうだ、もう充分だ」


 脱力して岩の壁に背中を預ける。

 次の瞬間、張った糸が切れたように、鰐の動きが加速する。


 顎が開き、おれを真横から挟むように、大きく開いた口が閉じられる。

 閉じる際に岩壁へ牙が掠っていたのが、少々食べづらい原因になったのだろう……、

 閉じるまで少しの遅れが生じた。



『だから間に合ったのかもね』


 後に、【彼女】は、そう語っていた。



 傷がついても決して崩れない岩壁の頑丈さを目の当りにしたおれの体勢は、時間が戻ったように、空を見つめる大の字だった。


 お腹の辺りに、違和感の正体である重さと温もりがあった。


 おれとそう変わらないだろう年齢に見える女の子は、おれのお腹に顔を埋めていた状態から顔を上げ、ぱちっと目を開けて後ろを振り向く。

 目立たないが呼吸は荒く、自然と彼女の手は心臓の位置に持っていかれている。ぎゅっと握って落ち着かせようと努力しているが、どうやら叶いそうもない。


 女の子の興奮は、まったく収まる気配がなかった。


「間に、合った……助かったっ!!」


 少し距離が離れたここからでも見える鰐は、口を開いたり閉じたり、確かめるように繰り返すが、納得していないのだろう。

 おれという獲物を見失ったことに気づいたようで、近くを探している。だが、鰐が通った道は見やすく開けているが、それ以外は草木に覆われていて、寝転がってしまえば目で見つけるのは困難だ。


「しっ! 喋らないで」


 おれの上で馬乗りになった女の子が、身を屈めて草の間から様子を窺う。


 お互いに息を殺す緊張が続いた。やがて、獲物に元々執着がなかったのだろう、鰐がゆっくりと、きた道を戻ろうと方向転換した。

 寝転がっているからこそよく分かる、地響きが遠くへいくのを体で感じ、それをきっかけにして、精神も肉体も休息に入った。


 いま襲われたらどうしようもないくらい油断しているが、たぶん大丈夫だろう。

 周りを窺っていた女の子も、おれと同じで安堵の息を吐いている。


 一息吐いた彼女が、おれを見下ろし、


「大丈夫? 怪我とか……わわっ! 

 体中、たくさんの傷があるじゃん! 待ってて、すぐに塗り薬を――」


「いや、大した傷じゃ……」


 そう思ったが、どこかも分からない森の中、得体の知れない生物と環境……、清潔とは程遠い場所で傷口を開き続けているのも、如何なものか。


 目を覚まして初めて出会った人間が彼女だ。

 甘えるつもりはないが、向こうがしてくれることをわざわざ拒否することもないだろう。


 彼女は腰に巻いた小さなポーチを探るが、小さいわりに長く探し、あれ? と呟いた。


 詰まっていた中身を取り出して再び探すが、目的のものは見つからなかったようだ。


 あはは……、と冷や汗を流しながら笑みを見せた彼女が、いま取り出したものをポーチに戻す。首に提げている一眼レフカメラから分かったが、固定するための台や、貼り付けるためのテープ、付け替え用のレンズ――手帳や切り出した新聞記事など、趣味でカメラを嗜んでいるわけではなさそうな道具が見えた。


 服の胸元に引っ掛けられている複数のペンや動きやすい格好……、カメラマン、という可能性ももちろんあるが、おれを助けたこともそうだが、首を突っ込むその無鉄砲さは、待つことを得意とするカメラマンではなく、どちらかと言えば、インタビューなどの取材をメインにした記者のようにも思える。


 活発なイメージを、容姿から読み取れる。

 そんな彼女が、頭の後ろで結ばれたポニーテールを揺らしながら、


「今、ちょうど手持ちにないから……ごめんね、ちょっと着いてきて」


 いいでしょ? と、カメラを両手で持ちながら、イタズラな笑みを見せる彼女に不信感を抱いたものの、断るつもりはなかった。


 真上の草から漏れた日の光に照らされたレディッシュ色の髪の毛が、一層際立ち、彼女の絶対に逃がさない、と言い切る情熱を訴えているようにも思えた。

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