第29話 昭和台中市~寶町今昔:日台紳士街

 臺中公園内の臺中神社へ向かう表参道である大正町通の北側に位置し、大正橋通(民權路)を挟んで官庁街である幸町、利國町、村上町と向かい合う寶町、錦町、新富町。この辺りは元の東大墩集落であり、台中市発祥の地でもあります。


【寶町】

 まずは大正町通の一本北側に位置する寶町通(市府路)。この通りの一丁目部分、臺中郵便局と臺灣銀行が向かい合っていたこの場所は、元の「下街」。臺灣省城の小北門内側にできたこの街を東西に貫く寶町通を、臺中公園へ向かって進んでいきましょう。

 寶町、錦町、新富町は日本時代になると新富町二丁目に市場を擁しますが、周辺集落からの街道が交わり合う東大墩集落はそれ以前からも重要な交易地でした。このためこの地域は大正橋通の西側に広がる官庁街とは打って変わって一大商業地域になっていますが、さすがに郵便局と臺灣銀行が町域の大半を占めるこの一丁目では店舗も少なかったようです。

 一丁目と二丁目の境である榮橋通(民族路)の手前、北側の角地に建つギリシャ神殿風の西洋建築は大正3年(1914年)創業の「有限責任臺中信用組合」(寶町一丁目3番地)。

 明治33年(1900年)にロンドンで建てられたイングランド銀行本店が、金融の場でもあったギリシャパルテノンの神殿をモチーフにして以来、銀行や信金の建物と言えばギリシャ神殿風、というブームが世界に沸き起こります。このブームはもちろん台湾にも普及し、神殿風デザインの銀行や信用金庫が各地に誕生、パルテノン神殿に祀られていた女神アテナの象徴であるフクロウも、盗賊除けのお守りとして建物のファサードを飾るポピュラーな存在となりました。


 榮橋通の反対側、寶町二丁目の大正町方向に目をやると、榮橋通沿いに木造の建物が一軒見えます。「韓歩雲律師事務所」は日本時代の和風店舗建築に店を構えるアンティークショップ。そしてよく見るとこの建物を含め、自由路二段35巷の北側に並ぶ寶町二丁目6番地の建物は恐らく全てが日本時代の和風店舗建築をベースとした魔改造です。「韓歩雲律師事務所」は左右の民族路68號と72號の部分も合わせて一棟の店舗長屋で、それが戦後に分割利用され、さらに魔改造が加わって今の、パッと見では同じ建物とわからない状態になったのでしょう。

 その自由路二段35巷の南側、大正町に一番近い一角は、日本時代に「臺中市民館」があった場所。

 この施設の前身は「臺中倶樂部」といい、臺中縣知事だった木下周一さんが明治32年(1899年)に、県庁で働くスタッフたちのリフレッシュの場として初期の臺中縣廰内でオープンさせます。囲碁やビリヤード、雑誌閲覧を楽しめるこの社交場は、残念ながら明治34年(1901年)に臺中縣が臺中廰と改められ、「臺中縣廰」が「臺中廰」の庁舎となった際、発起人である木下知事も臺中縣知事のポストがなくなり日本へ戻ることになったため、自動的に廃止となってしまいます。木下知事は帰国後、埼玉縣知事、大分縣知事を務め、明治40年(1907年)に55歳で亡くなりました。

 民間人を含めた倶樂部会員たちは倶樂部再開を模索し、明治35年(1902年)に臺中知事官邸内で新たな設置場所を確保します。ところが明治42年(1909年)に臺中廰が「臺中州」となると、庁舎が手狭となり官舎も不足したため、臺中知事官邸内の余剰スペースは全てこの補填に充てられることに。かくしてまたもや倶樂部は引っ越しを余儀なくされます。

 最初は臺中共立學校の元校舎に移転しましたが、この校舎は倶樂部が入居した直後、土地ごと彰化銀行に買い取られて「彰化銀行臺中出張所」となってしまいます。やむを得ず会員たちは「新盛閣(鐵道開通式の来賓宿舎にもなった旅館)」(新富町五丁目23番地にあった大規模台湾料理店「新盛樓」の前身か?)へとビリヤード台を運び、ここで細々と活動を続けながら、臺中公園南側の大正町七丁目に倶樂部ハウスを新築します。明治43年(1910年)にこの建物が完成したことで、倶樂部はようやく安住の地を得たかに見えました。

 しかしその後台中市が発展するに連れて娯楽が増えると、やや街外れにあるこの倶樂部ハウスは徐々に利用者が減っていきます。そのため倶樂部は更なる発展を目指して昭和2年(1927年)にいったん解散し、昭和3年(1928年)に寶町二丁目6番地2で、ビリヤード室、図書室、集会用ホールを備えたモダニズム建築の「臺中市民館」をオープンさせたのでした。

 台中市内の名士の社交場となった市民館は、戦後は「軍人之友社臺中分社」によって使用されますが、1970年代に取り壊され、跡地は大型商業ビルとなっています。


 一方、榮橋通沿いに錦町方向を見ると、中山路143巷の手前にも大きな二階建ての木造建物が。

 ここは寶町二丁目の石津醫院があった場所。『台中市概況』によると産婦人科の病院だったこの病院の跡地は、今、台中市の歴史建築「張耀東婦產科」となっています。

 張耀東医師は昭和14年(1939年)に「臺北帝國大學附屬醫學專門部」を卒業した後、日本へ留学して東大で博士号を取得し、1950年代に帰台します。その後、石津醫院の建物で産婦人科を開業し、1962年に病院は今の建物へ建て替えられたとのこと。

 このエリアは日本時代には寶町二丁目1番地で、寶町通側には「愛月旅館」があり、その裏手にこの病院が建っていました。


 日本時代の寶町二丁目では、寶町通に面した南側は全てが6番地。寶町通に沿って和風店舗長屋や閩南式の看板建築が自由路二段35巷まで並んでいましたが、和風長屋店舗はどれも分割利用の果ての魔改造、建て替え、取り壊しに遭っています。自由路二段35巷から先、新盛橋通との角に建つ「1969BLUESKYホテル」は、日本時代の大旅館「蓬莱旅館」だった場所。

 寶町通の北側では、愛月旅館(1番地)、中岡寫眞館(1番地2)、福原銃砲店(3番地)が通りに面して並んでいました。

 新盛橋通(中山路)を挟んで蓬莱旅館と向かい合うのは寶町三丁目19番地に建つ「合資會社肥後屋呉服店」。


 右手の寶町二丁目角地は蓬莱旅館で、当時の写真を見ると建物は西洋風建築。屋上のレリーフには「蓬」の字が入っています。

 同じ写真で左手の寶町三丁目角地に見えている瓦屋根が肥後屋呉服店。

 新盛橋通沿いに、手前右手の寶町二丁目側に写っている「清水本店」は寶町二丁目4番地にあった大型店舗で、明治34年(1901年)の創業。欧米雑貨、室内装飾品、貴金属、楽器、運動具、武術道具、雑貨一式と幅広く扱う、百貨店のような店でした。店主は鹿児島県出身の清水眞二さん。


 寶町二丁目三番地の福原銃砲店の創業は明治34年(1901年)で、店主は岡山出身の福原勇雄さん。ここも日本時代のかなり初期からある店舗です。


 写真に残っている「合資會社肥後屋呉服店」の店の姿は和風の寄棟角地店舗建築。しかしその後、洋風のしつらえに変えたのか、それとも戦後の魔改造なのか、今、この角地に建つ「早安美芝城」はモダニズム風の看板建築です。二階建ての看板建築である以上、日本時代の建物、すなわち肥後屋呉服店だった建物だと思うのですが。


 新盛橋通の両側には大正町エリアから引き続き、日本時代の商店建築がモダニズム看板建築、木造の和風店舗建築のどちらも多く残っています。寶町三丁目側にある路地、臺灣大道一段199巷が大正町との境目。三丁目側ではこの路地との角地にある建物と「早安美芝城」の間は全て建て替えられてしまっていますが、二丁目側は蓬莱旅館までのやはり二丁目6番地に建っていた和風店舗長屋が、分割利用による魔改造を受けつつもどうやら残っている模様。

 清水本店など大型店舗が中心だったらしい錦町方面は残念ながら建て替えが進み、錦町との境になる中山路143巷、臺灣大道一段253巷の手前には、日本時代の建物は残っていません。


 新盛橋通を越えて寶町通三丁目を進みます。早安美芝城の東隣では寶町三丁目20番地の一角だったモダニズム看板建築長屋が三分割利用されていて、美芝城に接する部分はかなり魔改造済み。

 櫻橋通手前の北側角地に建つ三階建ては1948年に建てられたビルですが、入居している書店は日本時代の台中に於ける重要な書店の一つ「中央書局」です。

 中央書局は昭和2年(1927年)に臺灣文化協會のメンバーによって創業。当初の所在地は寶町三丁目15番地で、これは現在だと市府路103號、現店舗の西側に建つ「天主教曉明」と書かれたビルのある場所にあたります。この初期の店舗は木造の平屋建てで、写真を見ると和風な平入の店舗建築でした。

 元々は臺灣文化協會の台湾中部における拠点「中央俱樂部」の建設が計画されていましたが、予算不足に加え臺灣文化協會自体が分裂してしまったことから、書店のみがこの場所に開業します。職業地図で「株式會社中央倶楽部中央書局」という名称なのはこのためでしょう。

 当時の台湾に於いては漢文書籍を扱う最大の書店で、他に日本語の書籍や雑誌、文具や運動用具と運動着、洋画の画材、西洋楽器に蓄音機まで幅広く扱い、更には小規模ながら出版も行っています。

 満州事変以降は経営がかなり困難になりましたが戦後まで持ちこたえ、1948年、元の店舗の隣接地に今の三階建てビルを新築して引っ越しました。日本時代には書局の木造倉庫とスタッフ用社宅があった場所です。その後、1950年代からは改めて出版部門に進出。しかし1998年に閉業し店舗建物も売却したため、以降ここにはウェディングドレス店やコンビニ、ヘルメット店などが入居していました。

 2016年、建物の原状回復計画が動き始め、2019年11月からは、独立書店としての「中央書局」がテスト開業。2020年1月からは正式開業しています。


 寶町通を挟んで南側の角地は、日本時代には寶町三丁目21番地の菊屋旅館でした。今、この位置では寄棟の二階建て日本家屋が何分の一かになりつつかろうじて残っていますが、これがその名残りでしょうか。櫻橋通(臺灣大道)沿いは建て替えが進み、寶町エリアで日本時代の建物が残るのは、錦町寄りのみ。中央書局北側の寶町三丁目12番地だっただろう場所に建つモダニズム看板建築な骨董店は、日本時代の二階建てに三階を増築しています。


 櫻橋通を渡って寶町四丁目に入ると、寶町通の北側でブロック真ん中あたりの路地、市府路107巷の手前がアールデコ三階建てビルで、路地の向こうがモダニズム三階建て。この路地は日本時代にはまだないため、路地を挟んで建つこの二棟のビルも恐らく戦後の建物でしょう。

 日本時代の建物があるのは寶町通の南側。和風店舗長屋が分割利用され、魔改造を受けたりビルに建て替えられたりしつつも並んでいて、昭和11年当時の街並みを窺わせます。


 干城橋通(成功路)手前の北側角地、寶町四丁目38丁目だったはずの場所では、恐らく本来はその北側ともども和風寄棟角地店舗だったはずの建物が分割利用された結果、今では、寶町通沿いの部分だけが三軒分まとめて割と和風にリフォームされていて、という物件があり、更に、その北側の干城橋通に面していた部分は、どうやら日本時代の和風寄棟角地店舗の一角だった部分に三階を増築していて、そのためにこの和風リフォームには加われなかった代わりに、壁には南京下見風のパネルを貼りつけ、窓を和風に直した上、昭和レトロな看板に加えて「昭和宝町」とタイトルを入れた壁画も装着していたのですが、手前リフォーム部分がつい最近建て替えられてしまいました。

 この建物の更に北側、錦町との境目になる臺灣大道一段258巷の手前、寶町四丁目28、30番地だっただろう成功路159、161號は、たぶん閩南式モダニズム看板建築の魔改造。


 干城橋通沿いでは大正町方向へ目をやると、寶町五丁目側に「臺中市合作社聯合社」と看板の出ているモダニズム看板建築があります。その隣もモダニズム看板建築長屋が一棟あって分割利用中。それぞれ日本時代は寶町五丁目45、46番地あたりに該当するはず。寶町五丁目の干城橋通沿い、大正町寄りの部分には昭和7年(1932年)まで台中座の別館で映画専門館だった「大正館」がありました。この二棟の建物のどちらかは、「大正館」跡地に建っているのかも知れません。

 「高砂演藝館」として明治44年(1911年)に建てられたこの芝居小屋は、臺中公園の料亭「弘園閣」のオーナーだった江頭八重吉さんが当初のオーナーでしたが、その後、台中座に売却され「寶座」、「大正館」と名を変えて、映画の常設上映館になります。

 その向かい、寶町四丁目側に二棟並ぶ二階建ても、和風店舗長屋の二分割利用魔改造のような気がするのですがどうでしょう。寶町四丁目60番地だったあたりです。


 干城橋通を越えて寶町通五丁目を進むと、通りの南側にモダニズム看板建築が三棟分並んでいます。これは寶町五丁目50番地あたりで、背後の建物は恐らく和風店舗長屋(三階部分の屋根が壁面の外側にかぶせられていることから推測)。その脇の路地は本来なかったので、路地の向かいの閩南式アールデコ看板建築(寶町五丁目51番地あたり)が本来は二棟並んで建っていて、半分を取り壊された状態なのかもしれません。


 六丁目との境になる光復路沿いは、大正町通との角地以外、日本時代の建物は一切残っていない通り。そして臺中公園と向かい合う六丁目部分は大正町を含めて、臺灣電力社屋や初代臺中市武徳殿、初代市民プール、市長官邸、新富尋常小學校、台中婦人病院といった公共性の高い施設が並ぶブロックでした。このため、寶町通と錦町通では、店舗などの商店が並んでいるのは五丁目までとなります。


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