第23話 昭和台中市~若松町、初音町今昔:かつての遊里

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』で、新米土地神が各町内の虎爺をゲットしていく小説を書こうとしている主人公の阿貓が、その小説の主人公である土地神の管轄地として選んだ初音町。

 初音町と、隣接する若松町とには、阿貓ともう一人の主人公である大学院生の羅蜜容が『無可名狀之物』の作中で巡っただろう、合わせて四尊の虎爺がいます。

 そして日本時代にこの二町の中心となっていたのは台中市唯一の公認遊郭である「初音町遊郭」でした。


 日本時代が始まって間もない頃、台湾に渡る日本女性はほとんどが遊里の女性でした。明治29年(1896年)には女性の渡台も解禁されていましたが、赴任する男性たちは安全の確認されていない台湾に女性を伴いたがらず、女性自身も渡りたがらなかったのです。安全確認の取れていない台湾へ行きたくないのは遊里の女性たちも同じでしたが、台湾へ向かう場合は、遠隔地手当や危険手当としてそれなりに支度金が弾まれたため、女性たち自身ではなく、店への借金が溜まっていた「彼女たちの保護者」たちが、新たな借金を重ねるための手段として娘を台湾へ送り込みます。女性の絶対数が少ないため、日本に於いてはあまり稼げない年齢になっていても、台湾へ行かせればそれだけで金になりました。


 『台中市史』によると、台中に日本人移民が初めてやってきたのは明治28年(1995年)の秋。そして翌年に女性渡台が解禁されるや否や、「飲食店、料理店」が開かれます。明治29年2月に起こった抗日武装蜂起では台中も7月に攻撃され、この時「醜業を営みたる婦女五十一名」が臺中州廰に避難しました。

 東大墩集落の内、「小北門外」と呼ばれていた西側の端辺り。臺灣省城の官庁街にほど近かったこの辺りには空き家が多く、また旧官庁街がそのまま日本時代の行政の中心地となったこと、加えて軍の駐屯地にも比較的近いため、ある程度安全も保障されたことから、この時期に来台した日本人は後の錦町の一、二丁目に相当するこのエリアに集中して住みつきます。この日本人街は「新町」と呼ばれ、その後、後の新富町一、二丁目にあたる辺りがやはり日本人街になり「富貴街」と呼ばれました。

 これに対し、東大墩集落の後壠子側の外れにあたる柳町と新富町の四~六丁目辺りは「舊街」「暗街(暗巷)」と呼ばれ、当時は台湾人向けの娼婦街です。

 富裕層は妾を持つことが一般的だった当時の台湾に於いては娼婦の地位はかなり低く、日本の遊女屋のように社交場となることもありません。社交場となるのは歌舞音曲に長けているだけでなく識字率が高くて詩才もある高級芸者「藝妲」のいる台湾料理屋であり、私娼窟は結婚すらできない最下層の男性が性欲を発散しに来るだけの場であって、娼妓に芸や教養などは一切求められませんでした。


 女性の接客を売りにした日本人経営の飲食店は、徐々に日本人街からはみ出し、東大墩集落の中心部へも進出していきます。「臺中稲荷社」の建立は明治30年(1897年)。所在地である台中1295番地及び1296番地は後に新富町通の五、六丁目区間が開通する場所でした。

 これらの店を日本人店も台湾人店もまとめて収容する遊郭の設置が求められる中、明治33年(1900年)に台中を大暴風雨が襲います。当時、後の新富町と錦町の五丁目付近は台湾人と日本人が混在する街並みとなっていましたが、この暴風雨によって発生した洪水により壊滅し、日本人は水害被害のあまりなかった新町方向へと移転していきました。これによって生じた空き地に「常盤町遊郭」が誕生したのは明治34年(1901年)。臺中公園の料亭「弘園閣」のオーナー江頭八重吉さんも、この時に常磐町で料亭「よし川」を開業しています。


 当初は市の郊外扱いだった常磐町ですが、台中市が拡大するに連れて官庁街にほど近い繁華街の地位に昇格。そこに遊郭があるのは望ましくなかったこと、また明治43年(1910年)の大雨、明治44年(1911年)の台風シーズンに襲来した暴風雨がどちらも東大墩周辺に甚大な水害をもたらしたことから、台中市はこのエリアの大改造を決定。

 大規模な埋め立てを伴っての柳川の流路変更、村上町通と新富町通、柳町通の新設、櫻橋通と公園横、刑務所横の通りの拡幅といった計画が打ち出される中で、東大墩集落と新町はその街並みが完全に書き換えられることとなり、常磐町遊郭でも日清樓が立ち退き対象になります。

 結局、大正4年(1915年)に常盤町遊郭は新富町から柳町を隔てた北側の初音町と若松町の四、五丁目へとまるごと移転させられて「初音町遊郭」と名を変えました。

 現在は大半が暗渠になっていますが、当時この場所では柳川が大きく南に張り出していて、しかも櫻橋通(臺灣大道)はまだここまで伸びてきていません(櫻橋通の大和橋開通は大正8年5月)。遊郭へ通じる道が干城橋通の柳橋のみで、町の東と南を流れる柳川がいわばお歯黒どぶの役割を果たして遊郭を他の区画から隔てていることも、この場所が移転先に選ばれた一因だったのではないでしょうか。


 その一方で、台湾人向け私娼街だった「暗街(暗巷)」も命脈を保ち続けたようです。戦後の1956年に國民党政府が公娼制度を復活させ、台中市も市内に三ヶ所の「風化區」を設けた際、福音街と名を変えていた柳原教會(元の臺中教會)横の通りの中華路(若松町通)寄りは、元初音町遊郭とその裏手の梅ヶ枝町24、25號、駅向こうで天外天劇場裏手に新たに設けられた東區公娼區とともに、台中市の三大歓楽街となります。台湾の有名な黒社会組織「大湖幫」発祥の地ともなったこの福音街私娼窟は1970年代に隆盛を極めますが、それ以降は、軍隊の高雄移転、福音街及び精武路の拡幅と大型駐車場設置工事などを受けて徐々に衰退していきました。


 稲荷社も新富町通の道路予定地上に位置していたため、この年の7月に臺中1286番地へ仮移転。その後、初音町五丁目4番地で大正11年(1922年)に新たな社が造営されます。

 初音町五丁目4番地は、初音町通に面し、横が柳川。今は成功路306巷と大誠街に面した大きな下駄履きマンションが建っている辺りです。隣接する初音町通(大誠街)と干城橋通(成功路)の交差点角地には初音町派出所がありました。この派出所は戦後になると大誠街派出所と名を変え、その後は南側の柳町五丁目にあった中尊寺境内に移って大誠街分駐所となっています。跡地には消防局の第七大隊中區分隊が入居しました。


 この臺中稲荷社と初音町派出所があったブロックから見て斜め向かいの初音町四丁目には、阿貓と蜜容が訪ねたこの地の廟の一つ、虎爺のいる北極玄天上帝廟靈震宮(臺中大誠街靈震宮上帝公廟)があります。

 この廟の所在地は、日本時代だと初音町四丁目2番地だったエリア。昭和8年の火災保険地図ではこのブロック内に、射的、ソバヤ、台湾料亭の文字が入っています。廟があるのはこの「台湾料亭」の文字のすぐ横辺り。

 北極玄天上帝は、その名の通り北面を司る神様であり、五行では水が相当するため、水神としての性格も備えています。ただしこの廟はなぜか、建立の由来や、いつ建てられたのかといった情報が、少なくともネット上ではまったく出てこないため、たとえば「台湾料亭」の関係者によって日本時代から祀られていたのかといった詳しい歴史はわかりません。


 当時の初音町遊郭は、柳川を渡ってすぐの部分が台湾店エリアで、昭和8年(1933年)の火災保険地図に店名が掲載されているのは四丁目側の川沿いに建つ台湾料理「小西湖」と、五丁目側で川と干城橋通に面している大規模店の「中國樓」。

 初音町通(大誠街)を越えると四丁目側で大誠街11巷の西が日本人妓楼の「浪花楼」、東が「ソバヤと射的、台湾料亭」があるブロック、五丁目側が「鮮月樓」と「朝鮮樓」でこの二店は朝鮮人妓楼です。『台中市史』には詳しい人口データが載っていて、それによると「朝鮮人戸数」は市内で初音町に一戸だけ。男性2人、女性12人がこの二つの朝鮮人妓楼に暮らしていました。

 日本から台湾へ、あるいは朝鮮へ、満州へ、南洋諸島へ、というパターンについ頭が偏りがちなのですが、この時代には当然、朝鮮へ行った台湾人、台湾へ来た朝鮮人、もいたのです。日本時代が終わった後、この人達は喜び勇んでそれぞれの祖国へ戻り、そこで朝鮮戦争に巻き込まれたり二二八事件に巻き込まれたりしたのでしょうか。それとも逆に慎重に現地へ留まりそのせいで巻き込まれたりしたのでしょうか。この二つの朝鮮人妓楼は、昭和16年(1941年)にはまだどちらもこの地にあったようですが、それ以降どうなったかはわかりません。

 興民街を越えると若松町で、ここは「日清カフェー」「常盤樓」「吾妻カフェー」「富士見樓」「八千代樓」「小泉樓」と日本人妓楼ばかりが並んでいました。日清カフェーと吾妻カフェーは、それぞれ貸座敷の日清樓と吾妻樓が一部業態を変えてカフェー営業も始めたもの。若松町通(中華路一段)を渡った先は、もう遊郭の外になります。

 どの店もかなり広々とした敷地に、それぞれ庭と複雑な形の建物を設け、様々な角度で座敷が庭へ面するようになっていました。建物を見る限り、初音町遊郭は確かに一種の「夢の国」だったのかも知れません。


 阿貓と蜜容がこの日に訪ねたもう一つの廟があるのは、日本時代には若松町三丁目だった部分。遊郭との間には幅広な櫻橋通が横たわっていました。

 輔順將軍廟順天宮に祀られている「輔順將軍」とは唐の時代の軍人。馬仁さんという名前だったため、この廟にも「馬舍公廟」という通称があります。戦死した際にも馬に跨ったままで遺体が倒れることがなかったことから、騎兵や軍人、戦馬の守護神として崇められるようになりました。

 日本時代の中頃に現在地への移転が行われる以前の所在地は臺中公園の向かいだったため、清代から日本時代初期に於けるその辺りの地名も「馬舍公街」となっています。

 この廟の歴史は古く、軍人だった藍廷珍さんによって藍興堡の開拓が始まり東大墩の集落が誕生した1700年代初頭からあるのではと考えられているそうです。ただし、歴史が長い分、幾度も戦乱に巻き込まれて廟が燃えたり文物が散逸したりしているため、正確な歴史を辿ることは不可能だとのこと。霧峰林家初代の林石さんが処刑される羽目になった1786年の林爽文事件でも、林文察さんたちが平定のために出陣した1863年の戴潮春事件でも、東大墩の街は前線となり炎上、廟にも被害が及びました。

 日本時代になる直前の1889年に再建工事が行なわれた他、明治39年(1906年)にも再建工事が行なわれています。その後、明治44年の大工事に於ける区画整理では道路予定地にこそ引っ掛からなかったものの小学校建設予定地(現在の光復國小)に指定されたため、吳部爺や林烈堂さんなどが中心となって移転先の土地を寄進し、現在の場所に引っ越すことになりました。

 林烈堂さんは自分も初音町一丁目に別邸を建てている人で、またそもそも台中で「臺灣省城」の建設が始まった時、建設予定地の中で後に官庁街となる北西方面(後の村上町通南側から壽町辺りまで)は霧峰林家の土地です。初音町のこの辺りも霧峰林家の土地だったのかも知れません。またこの傍の初音町三丁目で林朝陽さんという人が材木店を開いていて、この人もひょっとしたら林家の関係者だったのかも知れません(店の名前は資料によって「東盛材木商店」「東興材木商店」「東勝材木店」と一致しませんが、三丁目14番地にあった模様)。

 この時の廟は大正10年(1921年)に完成し、戦後になって1995年に老朽化を受けての再度の建て直しが行われて、現在の廟が完成しました。


 この廟の南側である初音町三丁目の柳川沿いには大正8年(1919年)に「樂舞臺」という演芸場が建てられます。建物は二階建ての西洋風建築でしたが、演目は台湾人好みの歌仔戲や布袋戲、京劇、伝統楽器の演奏会でした。初音町は遊郭の移転先に選ばれるだけあって、当時の台中市の中では街外れ。それでいて東大墩集落だった新富町からも、後壠子などの大字地区からも台湾人観客が訪れやすい位置です。オーナーも台湾人だったため、この演目は当然の選択だったと言えるでしょう。

 戦後は映画上映がメインとなり、日本時代にライバルだった劇場たちが次々と閉業していく中、1990年代まで持ちこたえます。最後は消防検査に合格できなかったことから取り壊しが決定し1994年に姿を消しました。


 阿貓と蜜容が、内容が明示されていない探訪で巡っただろう、残る二つの若松町の廟。一つは若松町四丁目の竹圍福德宮。若松町通(中華路一段)の北側なので、遊郭の外側に当たります。

 この辺りには戦後になると市場ができ、屋台が竹で組まれていたことから「竹管市仔」と通称されていました。この廟もだいたいその頃にできたようです。この市場は1975年に火事になり、1979年に再開する際「竹圍市場」という名になりました。しかし90年代になると他の市場や大型商店に客を奪われ、往時の賑わいは失せていって、今に至っています。


 若松町のもう一つの廟、公園路中政福德祠があるのは六丁目。かつて臺中教會横の福音街沿いを滔々と流れていた川、第一中學の裏手を流れてきた後、臺中公園北で三つに分かれ、福音街沿いを流れてきたあの川は、若松町六丁目で柳川に合流します。今ではそのほとんどが暗渠となってしまったこの川が、僅かにまだ姿を見せている、そのほとりにあるのがこの廟です。ただし流れ込む先の柳川はやはり暗渠になってしまっているのですが。

 元は公園路沿いのもっと北側にありましたが、その辺りが駐車場として整備されることになったため、1983年に今の位置へと移転。夜市からは若干離れてしまったことで、信仰が薄れてしまい、やや寂れた印象の現在の状況になっているそうです。

 創建時期は定かではありませんが、恐らくこの中華路夜市が始まった1965年以降のどこかで祀られるようになったのではないでしょうか。


 ここから公園路を臺中公園方面に進んで初音町六丁目に入ると、初音町通六丁目だった大誠街との交差点に一軒の映画館があります。「萬代福影城」というこの映画館こそが、阿貓と蜜容が虎爺探訪の間にやってきた映画館。

 阿貓と蜜容が行きそうな映画館ってどこだろう? 絶対シネコンじゃないっぽいし、恐らく昭和台中市内。日本時代の映画館は軒並み閉館済みだけど、日本時代に○○だった、と判明している場所に建っている映画館、もしくは二人の探訪先に近い映画館というと……。

 と推理を働かせる中で、「特に日本時代に何かあったって訳な場所じゃないんだけれどなんだかこの映画館はものすごく阿貓と蜜容好みっぽい! グーグルマップで見る限り、ポップコーンも売ってるし!」と第一候補に上げたのがここで、「彼女達が好きそう」という根拠と言っていいのかわからない根拠を書き添えて楊双子先生に質問票を送ってみたところ、当たりでした。オタクの勘というかなんというか、ここは実際に楊双子先生が贔屓にしている映画館なのだとか。


 さて「顔も頭も埃まみれになって這い出してきた」阿貓と蜜容が豆花を食べに行く、廟の近くのお店。この豆花のお店は『開動了!老台中(懐かしの台中、いただきます!)』に登場する楊双子先生お勧めの台中の味の一つでもある「阿斗伯冷凍芋」。輔順將軍廟順天宮で虎爺を撮影した後、二人は日本時代の初音町五丁目、「鮮月樓」が建っていた場所の一角にあるこの店に向かっているそうです。

 そしてさらにもう一店、順天宮から新盛橋通(中山路)を北上した、若松町通三丁目沿いの「陳家牛乳大王」もやはり『開動了!老台中』で紹介された楊双子先生お勧めの台中の味。


 芋で作ったアイス?と思ったのですが、「冷凍」は「氷水などでよく冷やした」の意味だそうです。「冷やし芋」な感じだとすると、だめだやはりどうにも想像がつかない。ただ「芋ってこんなに美味しかったの?!」な味だそうなので、気になります! 「冷凍芋」は通年メニューで、豆花は、夏は冷やしで、冬はホットでの提供。阿貓と蜜容の虎爺巡りは秋から冬に掛けてなので、二人は冷たい「冷凍芋」ではなく、温かい豆花を食べたという設定に。

 なお「阿斗伯冷凍芋」が台中に現れたのは1960年代だそうなので、もう日本時代の建物はほとんど残っていなかったと思われます。お店の入居先も、二階建てではありますが、日本時代の建物なようには見えません。


 昭和19年(1944年)の「決戦非常措置要綱」で決定された「高級享楽の停止」には遊郭の休業も含まれていますが、駐屯地がある台中市の初音町遊郭にはそこまで徹底されなかったろうと思います。

 戦後になっても歓楽街としての役割はそのまま維持されましたが、業態はここでもやはりキャバレーやダンスホールがメインとなりました。映画館も複数建ち並び、台中三大遊里の中では最も華やかな街となります。


 「陳家牛乳大王」は中華路夜市を構成する屋台の中でも老舗の一つで、パパイヤ牛乳の元祖店の一つと目されているとのこと。毎日午後になると現れ、メニューはマーガリントーストとパパイヤ牛乳のみという極めてシンプルな店。この味の組み合わせは台湾に駐在していた米軍のもたらしたものだそうなので、まさに初音町の戦後の味と言っていいものなのではないでしょうか。

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