第15話 昭和台中市~新高町その参:太平路南側今昔

 臺中公園の項のラストで推測した林荷舟の歩行ルート。台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第二作、日本時代を舞台にした『昨夜閑潭夢落花』に於ける主人公の片方である台湾人少女の林荷舟は、臺中公園内の料亭「弘園閣」の前の小道を通って公園から精武路へ出たあと、香蕉福德廟を目指して歩きだします。

 精武路のうち、公園北の部分にはこの頃、道沿いに川が流れていました。これは公園へ流れ込む臺中第一中學校方向からの水の一部です。


 三民路三段を渡った先は、日本時代には墓地でした。今はその敷地がまるまる大型の「花園マンション」になっているため、当時の地形が楽に見て取れます。

 「花園マンション」の呼称は、敷地の真ん中に設けられている豪華な庭園から。中華圏のマンションはかつての四合院のようにブロック外周にぴったりと面した形で居住区を築くことが多く、庭園は日本でいう坪庭のように採光用として四方を建物に囲まれた真ん中に設けられました。なお、ブロック外周にぴったりと建物を添わせるスタイルは小学校などでもよく見られ、この場合は中庭部分が運動場になっています。

 新高町3番地のこの墓地は日本人向けの墓地だったらしく、敷地内には高野山真言宗の臺中布教所である「大師寺」が大正15年(1926年)から建っていました。

 またこの近くでは公園北側の精武路沿い、新高町90番地に昭和9年1月から斎場が設けられています。昭和11年版の『台中市概況』によると、煉瓦造の平屋建てだった模様。

 この頃台中市で亡くなった日本人は、新高町の斎場で葬儀を行った後、梅ヶ枝町の火葬場に運ばれ、最後は新高町の墓地に埋められるという流れだったようです。戦後、日本人が引き揚げる際、問題となったのが遺骨の扱いでした。日本に運ばれ先祖代々の墓に収められるのが領台初期には定番でしたが、五十年に亘る領台の間に、台湾に骨を埋める人も増えてきていたのです。

 引き揚げに際して日本人が携帯を許された荷物の量は少なく、骨壺の持ち帰りは不可能ではないものの、引き揚げ後の日本での生活を考えると現実的ではありませんでした。

 昭和台中市の北の郊外、大字東勢子だったエリアに建つ寺院「寶覺禪寺」は大正末から昭和初期の間に台湾人信徒が建立した臨濟宗妙心寺派の「寶覺寺」だった場所。巨大な布袋様の鎮座する寺として知られるこの寺の日本人墓地にそれらの遺骨一万四千体が収められています。

 そしてここにはそれよりもはるかに多い三万五千体の、第二次世界大戦に於いて日本軍の一員として亡くなった台湾人の慰霊碑も設けられています。


 荷舟は墓地沿いに三民路三段をやや南下し、柳町の教会横を通る福音街から、墓地の西側にあたる太平路141巷を北上していきます。香蕉福德廟が位置するのは、この路地の突き当たり。

 同じ『綺譚花物語』の第四作目である『無可名狀之物』の作中に於いて、この作品の主人公である小説家志望の博識な自称「ニート」の阿貓も言及していますが、この辺りは元々、東大墩郊外のバナナ畑でした。このため「香蕉里」という地名になり、そこにある福德廟にも「香蕉」が冠されています。

 この廟ができたのは清時代の1883年。当時、バナナ畑の中にはガジュマルの古木が立っていたのですが、この機が光を放つという怪現象が起こります。これは吉兆なのか凶兆なのか筊(神意を問うのに使う道具。二枚貝を二つに割った形を模した木片)を投げて住民が占ったところ、この光は土地公の降臨だという答えが出ました。

 これを受けて住民がガジュマルの古木の根元に石を三つ安置し、これをご神体として祀ったのがこの廟の起源だという伝説があります。


 香蕉里は大正の町名改正で臺中公園ともども新高町に組み込まれたため、臺中公園内に祀られている臺中神社の神様が自動的に香蕉里の土地神も兼ねることになり、昭和11年段階では香蕉福德廟の土地神様は言ってみれば会社を吸収合併されてしまった元社長のような不遇の立場でした。

 なおこの土地神様はかぶっている帽子が「宰相冠」と呼ばれるものであることから「福德正神様だ」とわかるのですが、福德正神という神様は生前はおじいさんだった(平均寿命が短い時代のおじいさんなのでそこまでお年寄りではないはず)ので、幼い女の子の姿で現れるというのは相当に珍しいパターンです。


 戦後は再び香蕉里の住民によって熱心に信仰されるようになりました。『昨夜閑潭夢落花』の漫画版で描かれている廟の姿は、実は戦後の1968年と1984年に周辺の土地を寄進されての拡幅工事が行われて以降の姿なので、昭和11年当時はもっとささやかな廟だったと思われます。伝説のガジュマルは戦後になるとかなりの樹齢となって傷んでいたため、1959年に二代目のガジュマルが植えられました。


 お参りを終えた荷舟は、太平路141巷の、今来たのとは別な路地を南下します。

 その先の精武路は昭和11年にはまだ川沿いの細道でした。

 公園の北側を流れてきた川は、ここで他の幾つかの流れと合流し、それなりの川幅をもって西へ向かい、柳川に流れ込んでいきます。荷舟はここで橋を渡り、福音街を西へ進んで初音町七丁目にあった自宅へと帰っていました。


 しかしここではまだしばらく、精武路の川の北側に留まりましょう。

 まだ細道だった精武路を、川向こうに福音街を見ながら西へ進むと「大湖里」に入ります。


 これまた『無可名狀之物』で阿貓が言及した通り、この辺りは当時は湿地で、大湖仔と言う地名で呼ばれていたため、福德廟にもこの名が付いています。

 大湖福德廟も香蕉福德廟と同じく、台湾が日本領となる前の清の時代、光緒帝の頃に誕生しました。この廟の場合は、土地神様の石像が掘り出されたのがきっかけです。その後、福德正神さまの夫人である土地婆様の石像も作られました。

 とはいえこの頃はまだ小さなお堂に過ぎず、それは日本時代を通しても変わらなかったようです。日本時代のエリア分けでは、ここは正確には新高町ではなく、梅ヶ枝町に含まれていました。

 戦後になって1951年に最初の廟が、大湖橋の傍にできます。この頃はまだ精武路の川が流れていて、大誠街は新高町側と初音町通だった部分がこの橋で繋がっていました。その後、1957年には中華路側に拡張工事が行われましたが、この廟は精武路の川が暗渠となり、精武路と福音街の間が大規模な駐車所として整備される際に立ち退くことになります。

 立ち退き翌年の2001年に地元の人々が駐車場内に場所を確保して廟を再建、その後、2003年に拡張工事が行われて今の姿になりました。

 なお、2002年に行政区の編成が行われたことで、香蕉里と湖北里、湖南里、中湖里、仁和里が合併し「大湖里」となっています。


 初めに廟が建った大誠街から、北西へ向かって斜めに伸びていく「大湖街」。今では中華路二段を渡り中華路二段101巷となったところですぐに途切れてしまいますが、清の時代から日本時代の初期に掛けては柳川を渡り今の太平路のルートを進んで北へ向かう街道であり、東大墩のメインストリートから繋がっている重要路線でした。

 精武路と福音街の間の川の暗渠化と駐車場建設では精武路自体も拡幅されたため、大湖街の一部も精武路の拡幅部分に取り込まれた結果、現在の大湖街は大誠街と精武路の交差点部分からは始まらず、精武路をやや西に進んだ地点から始まっています。


 大誠街を北へ進むと、その道沿いにある「北臺中城隍廟」と、その奥の大誠街131巷沿いの「善修宮(關聖帝君廟)」も虎爺のいる廟。この辺りは日本時代の大字邱厝子にあたります。

 北臺中城隍廟は鹿港の城隍廟「鰲亭宮」から分霊された武神である「聖旨敕封忠祐侯」を主神として祀った城隍廟で、大正8年(1919年)の創建。善修宮は昭和7年(1932年)に彰化永靖醒化宮から關帝様など四神を勧請して建立された、台中では初めての關帝廟でした。昭和7年はそろそろ皇民化による締め付けが厳しくなっていた頃で、善修宮はこっそりと設けられ、人目を忍んで参拝されていたようです。

 戦後、北臺中城隍廟は1980年に彰邑城隍廟から今度は文系の神様である「聖旨敕封忠祐侯」を勧請し、これによって文武両方の城隍神様を祀る廟となりました。更に聖旨敕封忠祐侯は州城隍尊神、聖旨敕封忠祐侯は縣城隍尊神であるため、州と県両方の城隍神様を祀る廟となっています。


 一方、戦後にようやく大っぴらな参拝が可能となった善修宮は、1987年には現在の廟への建て直しが行われ、1994年には法人化して今に至っています。


 いったん、太平路に出た後、東に進みましょう。

 太平路141巷との角には「臺灣總督府農商局食糧部臺中事務所」が大正10年(1921年)から建っています。この事務所は戦後も同じ用途で使われ続け、現在は「農委會農糧署中區分署臺中辦事處」という名称に。

 現役のオフィスなので見学はできませんが、日本時代のままの建物は昨年には築百年を迎えてなお健在です。

 この横の太平路141巷は、昭和8年の火災保険地図ではまだ道がなく、北から流れてきた川があるだけでした。当時のこの辺りはとにかく川が多く、それらの水は全て精武路で一つにまとまり、柳川へと流れ込んでいました。このため精武路の川はかなりの水量と幅があったのです。


 川があった当時は墓地の横を香蕉福德廟まで進んだ後は、来た道を引き返すしかありませんでしたが、昭和20年までの間に徐々に川が暗渠化され、141巷は北から南へと伸びていきます。また墓地の北側にも三民路から路地が伸び始め、141巷と繋がりました。この路地は今の三民路三段89巷です。

 141巷は香蕉福德廟の部分で二股に別れるY字路になっているのですが、別れる部分を廟が完全に覆っているため、パッと見ではY字路とわかりません。しかし、二つに分かれた路地をそれぞれ辿ってみると、暗渠と暗渠でできている「大湖仔」ならではのY字路なことが判明します。


 さて、新高町のこの辺り、太平路の南側エリアも楊双子先生がエッセイ集『開動了!老台中(懐かしの台中、いただきます!)』でおすすめしている台中の味スポットの豊富な地域。

 まずは臺中公園の北側へ行ってみましょう。

 太平路を挟んで昭和6年(1931年)まで農事試驗場と向き合っていたこの区画は、日本時代に於いては太平路側に新高町官舎が並んでいた場所。今やそんな様子など偲ぶべくもない、一中街から続く若者向けグルメタウンなこのブロック内には、フライドチキンの胖子雞丁と、泡沫紅茶の老舗な翁記泡沫廣場があります。

 このエリアは様々な食の流行の発祥地であり、それゆえに勝ち残って今に到る店舗はやはりどれも特色ある看板メニューを備えている模様。

 胖子雞丁はささみのフライドチキンが看板メニュー、そして翁記泡沫廣場は兎にも角にもメニューが豊富でなお且つそれが全部美味しいという看板メニューなき看板メニューみたいな状態の店舗なようです。

 春水堂のたまわく、泡沫紅茶の発祥は1983年。瞬く間に台中全土にこれが広がり、猫も杓子も紅茶をシェイカーで振っていた、そんな時代に生まれた店の一つが翁記泡沫廣場でした。

 その後、春水堂が再びタピオカミルクティーを爆誕させて押しも押されぬ名店の地位にのし上がり、そこからはチェーン展開、デパートへの進出、と飲食店の花道を突き進んだ一方で、翁記泡沫廣場は気軽な日常の店舗の地位に留まり続けることで差別化を図り、その日常の店舗にやってくるお客さん達の需要に応じてメニューを増やし続け、洋風メニューも中華メニューも兼ね備えたファミレスか回転寿司の如き豊富過ぎるメニューの全てが看板メニューと化して今に至っているとのこと。

 一方で胖子雞丁はささみ一本を武器に、一中街フライドチキン戦争を凌ぎ切り、その後も次々に出てくる新規の競合店をいなし続けて今に到るというどこかの剣豪のような印象の店。

 全く印象が真逆なこの二つの店は、胖子雞丁がテイクアウトオンリーの屋台を一中街と太平路19巷5弄との角地に、翁記泡沫廣場は精武路と太平路75巷の角に広々とした店舗を構えています。


 そして三民路三段との交差点を過ぎて太平路を太平路141巷に向かって進んでいくと、道沿いにもう一つ楊双子先生お勧めの台中の味が。

 一中商圈傻瓜麵(東記傻瓜麵)の麺は、丼の中に麺と葱と貢丸(塩味の大きなプリプリの豚団子)と少量のスープだけが入った状態で出てくるので、お客が自分で調味料を使って味付けする、というなんだかイギリス料理のようなメニューだそうです。このためこのお店の愛好者は皆それぞれにマイベスト味付けを編み出しているらしい。

 味付け用に置いてあるのは、醤油と黒酢、辣油と辣渣(食べる辣油)。日本人から見ると餃子の味付け用として定番中の定番な調味料なので、醤油が恐らくたまり醤油だという点さえ考慮しておけば、これは確実に美味しく味付けできるはず。

 なお、「一中商圈傻瓜麵」という店名のはずなんですがグーグルマップでは「東記傻瓜麵」でストリートビューでも「東記傻瓜麵」。しかしてその正体はやっぱり「一中商圈傻瓜麵」というややこしい状態になっているようです。どうも店名が変わった模様(『開動了! 老台中』の編集部もわざわざ注記を入れています)。


 楊双子先生が『開動了! 老台中』で取り上げているこのエリアのグルメスポットはこの三ヶ所だけですが、しかし私たちには訪れるべき聖地がまだもう一つ。

 一中商圈傻瓜麵(東記傻瓜麵)の前を通って太平路141巷に入り、香蕉福德廟を潜り抜け、墓地の横だった道を南下して精武路に入ったら、目指すはかつての川向こう、福音街沿いにある「興中街明記豆乳紅茶烤吐司」。


『無可名狀之物』で「廟を出ると私たちは、香蕉福德正神廟の向かいのブロックにある豆乳紅茶冰の老舗に足を踏み入れた。」と書かれ、漫画版でも屋台の姿が描かれている、あのお店はまさにここなのです。

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