第6話 昭和台中市~大正町:商業施設多めの目抜き通り

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第二作、日本時代を舞台にした『昨夜閑潭夢落花』で描かれている、主人公である日本人少女の渡野邊茉莉と台湾人少女の林荷舟による帰り道の道筋。二人は現在の自由路にあたる明治町通と大正町通を歩いていますが、漫画版で背景として描かれている建物は、臺中高等女學校以外、全てが大正町側にあるものとなります。


 バス通りだった大正橋通(民權路)を渡ると、通り名は「明治町通」から「大正町通」に変わります。交差点の南側にまず建っているのが「臺中州立圖書館(現、合作銀行台中支店)」。当初は臨時図書館として臺中知事官邸の二階で大正9年(1920年)に開館。その後、昭和3年(1928年)に図書館庁舎が完成し、翌年に引っ越し完了します。昭和2年当時の書籍目録(国立国会図書館でデジタル閲覧可能)によると収蔵品には吉屋信子作品も二点含まれていましたが、『花物語』は少なくとも昭和2年にはなかった模様。


 この図書館、いかにも茉莉と荷舟が学校帰りに立ち寄りそうな場所ですが、残念ながら当時の女學校は大正デモクラシー時代に比べると校則が厳しめ。特に公立の学校は厳しく、喫茶店などの出入りは保護者同伴、映画など見に行く場合もあらかじめ学校に届け出て許可証取得の上で保護者同伴。学校帰りの寄り道も基本的に禁止されていました。さらに帰宅後の外出も、家から二.四キロ以上離れる場合は通院やお稽古事ですら許可が必要という状態なので、茉莉と荷舟も学校帰りに寄り道するなら臺中公園が精一杯です。またこのため、『綺譚花物語』漫画版単行本で書き下ろされた四コマ漫画に於いて、第一作『地上的天國』の主人公である李玉英(通称、英子)が、もう一人の主人公である幽霊の少女、蔡詠恩に付き合って柳町の教会へ赴くのにも、恐らく学校からの許可が必要だったはず。そして詠恩がミサに出ている間、その帰りを待つために喫茶店へと入った場合、見回りの先生によって発見されたなら相当叱られる羽目になったはずです。


 図書館の向かい、大正町通一丁目の北側エリアは、当時は大正町通に面した全てが大正町一丁目1番地でした。今でも大きなビルが多いこの地域の当時の様子は「臺中州自動車協會」があったという以外、よくわかりません。この協会は昭和4年(1929年)に創立。会員は自動車販売店の他、バスやタクシー、運送会社などでした。このブロックには一ヶ所だけ、当時の建物らしいコンクリートの二階建てが残っています。屋根の形状を見ると看板建築ではなく本格洋式建築だったようなので、当時は本当に、大正町通に面してブロックの端から端まで、大きなコンクリートの二階建てビルが建っていたのかもしれません。幸い残っている三軒にはどれも飲食店が入居しているため中に入れますが、内装から特に昭和の名残りを感じ取れたりはしないようです。


 二丁目に入ると、昭和11年当時、大正町通の北側にまずあったのは店舗長屋。その隣は彰化銀行本店の「仮店舗」です。斜め向かいの三丁目でこの年の11月に着工した「彰化銀行本店」(現存)は、この頃流行りだったギリシャ神殿風スタイルの洋風建築でしたが、雑誌『臺灣公論』の表紙として描かれたイラストマップによるとこの仮店舗は和風な建物だった模様。


 彰化銀行は明治38年に彰化市で創業し、明治42年(1909年)に臺中出張所を設けます。この時、出張所が店舗にするため買い取ったのが、夜間学校「私立臺中共立學校」の元校舎でした。

 当時の台湾というか日本社会全体にとって、中學校入学は狭き門。大半の子供は小卒で就職します。この夜間学校はそんな子供たちのため、明治35年(1902年)に設置されました。その後移転したり、時代によって名称が変わったりしつつも戦後まで断続的に継続。台湾人だけでなく日本人も多く入学したこの学校は、最終的には居仁國中の夜間部になっています。

 仮店舗の裏手には、二丁目と三丁目の間を通る「新盛橋通(通称、スズラン通り。今の中山路)に面してやはり店舗長屋がありました。スズラン通りの商店街の中でもこの部分は、西洋風のモダンなファサードを持つ店舗が並ぶおしゃれなエリアだったようで、着色写真の絵葉書が何種類か出ています。大正町二丁目3番地にあった池田洋服店が左手に見える構図のものが多く、新盛橋通を大正町通との交差点から寶町方向へ向けて撮影していることがわかります。また、大正町通と大正橋通という一字違いの名を持つ通りが交差していたため、当時の人々もしょっちゅう名前を間違えていたらしく、この構図の絵葉書に「大正橋通」というタイトルがつけられてしまっていることもよくあり、おかげで現代の資料でもたまにこの二つの通り名が混同される事態となっています。


 一方、二丁目の南側は大正通に面した商店街。間口を大きく取ってひときわ目立つのは春田旅館ですが、その左右にはずらりと店が並びます。

 春田館のオーナーは長崎出身の菅藤ヨシさん。この旅館ができたのは明治29年(1896年)だというので、女性の渡台が解禁されて早々に来台し、旅館を始めたことになります。

 当初は初期台中市の日本人街だった新富町方面にあった旅館は、明治39年(1906年)に大正町の現在位置に移転し、翌年には高雄にも支店を出しました。明治41年(1908年)の臺灣縱貫鐵道全線開通記念式典に際しては来賓の宿泊先として、市内に当時五軒あった旅館の中で最大の人数の12 名を引き受けています。

 木造二階建てだったという高雄の春田館はその後オーナーが変わり、第二次大戦中に空襲で焼けてしまいました。跡地に戦後建てられたレトロビル「貿易商大樓」が今では喫茶店の「春田館」として使用されています。

 一方、台中の春田館は無事だったらしく、戦後の空中写真にも姿が写っています。二二八事件の際に外省人の避難先となっていた旅館「民眾旅社」が戦後の春田館だったようです。


 新盛橋通を渡ると大正町三丁目。漫画版では大正町通の南側に建つ「彰化銀行本店」の前を昭和9年か10年の下校時に茉莉と荷舟が歩いていますが、実は本作に於ける現実の時間軸である昭和11年春時点でも、この建物は未着工。

 彰化銀行本店は昭和11年11月に着工し昭和13年(1938年)に完成しました。本店の機能は既に台北へと実質的には移転していますが、本店所在地は今もここ。二階には、彰化銀行の歴史を紹介する「行史館」が設置されています。一方、通りの北側には大型の店舗長屋が並び、商店街になっていたようです。


 櫻橋通(臺灣大道)を渡った四丁目。南側の角地には当時、臺中行啓記念館がありました。大正12年(1923年)の皇太子(後の昭和天皇)来台時、台中市内の各地も視察対象に選ばれます。これを記念して大正15年(1926年)に完成したのがこの建物。一階には「臺中州立物產陳列館」、二階には「臺中州立教育博物館」がそれぞれオープンし、昭和8年(1933年)には屋上に移動式天文台も設置されます。昭和10年(1935年)の臺灣博覧會開催時には地方パピリオンの一つ「臺中山嶽館」となり、様々な特別展示が行われました。


 戦後は臺中市憲兵隊の詰め所として使用されましたが、東側に隣接して建っていた「臺中娛樂館」ともども1961年に取り壊され、現在は商業ビルが建っています。

 やはり漫画版で茉莉と荷舟の背後に登場する臺中娛樂館は、昭和6年(1931年)の年末にオープンした、台湾では初めての常設映画館(それまでは芝居小屋や演芸場で「映画も」上映する状態)。齋藤辰次郎の設計によるこの市営映画館は戦後は「臺中成功大戲院」と名を変えて映画を上映し続けます。しかし1958年に上映中の館内で、手榴弾を使った殺人未遂事件を観客が起こし、それが遠因となってか、1961年に取り壊されました。

 台湾の市街地の建物は「亭仔脚」や「騎楼」と呼ばれるアーケードが歩道の上に張り出し、その上に二階以上のフロアが載っている構造です。このため路肩にぴったりと建物がくっついている状態になるのが常ですが、この時代、劇場などは観客が路上を塞がないよう、建物を大幅にセットバックさせ、観客が並ぶスペースを設けていました。


 一方、大正町通の北側では、櫻橋通との交差点に面して「臺中測候所」が明治29年(1896年)から建っていました。測候所が臺中公園内(臺中神社があった場所の北)に移転したのは戦後の1954年。このため、この辺りの店舗は低層であっても四階建て、全て戦後の建物です。測候所の東側には当時、店舗長屋があったようですが、こちらもビル化済み。


 干城橋通(成功路)を渡った五丁目のランドマークは、当時、通りの南側に聳えていた曹洞宗の「台中寺」。

 明治36年(1903年)に建立された台中寺への当時の参道は、現在の自由路二段70巷。当時は台中エリアに於ける曹洞宗布教の一大拠点な大伽藍だったそうなので、周りの商店越しに屋根が見えていたのではないでしょうか。70巷を入った後、西へ折れた成功路128巷の両脇が当時の境内ですが、既にアパートやマンションに変わっています。戦後、寺は接収され、1951年からは眷村化。現在の状況はその名残りだと思われます。なお、曹洞宗の布教に用いられていた伽藍は当時、台中寺を含めて台中に五ヶ所あったのですが、戦後に接収されたのはここだけで、残る四ヶ所(頂橋仔頭の保安佛堂、後壠子の民德堂、錦町の大覺院、敷島町の臺中佛教會館)はどれも台湾人信徒による創建だったこともあってか今も残り、信仰を集めています。


 光復路を渡ると六丁目。大正町通の北側は「臺中武徳殿(大日本武德會台灣地方本部臺中支部演武場)」があったところ。これは都市計画のため昭和5年(1930年)に解体され、その後は員林に運ばれて「金鳳山員林寺」の本堂へと改築されました(1995年に寺の改築のため再度解体され、現在は彰化の台灣民俗村で保存されています)。このブロック内の寶町側には、武徳殿に隣接して、台湾初のプールだった大正8年(1919年)開業の「臺中市營プール」がありましたが、老朽化を受けて昭和3年(1928年)に昭和天皇即位記念事業の一環として新高町の水源地に新しい市営プールができると、こちらも取り壊されます。昭和11年の時点でこのブロックのほとんどを占めていたのは臺中市長公邸で、五丁目と向き合う光復路沿いにのみ民間の建物が並んでいたようです。

 この臺中市長公邸は戦時中に焼け落ちでもしたのか、戦後の台中市では新高町にあった宮原武熊医師の屋敷が市長公邸として使用されています。公邸があったはずの部分は大型のビルになり、光復路沿いも既に戦後の建物ばかりですが、空き地部分に見て取れる当時の壁の名残りから推測すると、平屋建ての看板建築がどうやら並んでいたようです。

 南側は裏手の榮町側も含めてブロックまるごとが当時は臺灣電力株式會社の敷地でした。このため現在もビル化はされたもののブロック全てが臺灣電力公司台中區營業處の敷地となっています。

 台湾の独立書店の一つである「聚珍臺灣」によってカラー化された古写真の一枚に、昭和10年(1935年)に台湾初の市会議員と街庄協議会員の普通選挙が行われた際の台中市を写したものがあります。この写真は大正町五丁目から七丁目方向にカメラを向けて撮影されたもの。つまり右手に写っている建物が、六丁目の臺灣電力社屋の当時の姿です。


 公園路を渡ると北側は臺中公園なので、大正町七丁目は大正町通の南側ブロックのみとなります。臺中公園内には臺中神社があったため、大正町通及び明治町通はその全体が「臺中神社の参道」と見做されていました。このため、公園路の手前には大正町通を跨ぐコンクリート製の巨大な鳥居があり、明治町側から臺中公園方向を見た時にはこれが一番のランドマークでした。


 茉莉たちはここで公園へと入っていきますが、大正町七丁目に目を向けると、まず公園路との交差点に建つのは大正9年(1920年)に創業したカフェー巴。臺中公園内の東屋「雙閣亭」を意識したようなとんがり屋根を持つ建物で西洋料理を提供していたこのカフェーの東側には、大正7年(1918年)に臺中公會堂が完成しました。煉瓦造で一部が二階建てのモダンルネッサンス様式。六百人が収容可能だった中央のホールでは、臺灣文化協會の重要イベントなども行なわれています。大正12年(1923年)には州の補助を得て更に増築。戦後は「中山堂」と改称され、引き続きホールとして利用されていましたが、1980年代に取り壊されました。


 そして昭和11年にこのブロックで建築工事中だったのが、六丁目との境の通りに面した「臺中州教化會館」。単なる市民の公徳精神育成だけでなく「日本国民としての意識」を育むことを目的として思想教育にまで踏み込みがちだった臺中州の「社会教育」は、これ以降「皇民化教育」に突き進んでいきます。

 昭和11年は昭和モダン台湾が歪み始める時期、もしくは、内包していた歪みが表出し始めた時期でもありました。


 教化會館の建物は壁式構造の一種で、鉄筋コンクリートの柱と梁を煉瓦壁と強固に一体化させて耐震壁とする「加強磚造」。二階建てのこの建物には、戦後、國民党軍の空軍が入居し、二二八事件では台中市に於ける主要な戦闘の舞台ともなりました。1975年に空軍が退去した後、再開発されて今は「台中公園大廈」になっています。


 カフェー巴のその後は特に伝わっていません。戦争が始まると台湾へのコーヒー豆輸送も途絶え、カフェーは商売が成り立たなくなったため、この時期に消えてしまったのかもしれません。カフェー巴があった場所は現在では四階建ての雑居ビルになり、公會堂跡地にも大型商業ビルが建っています。

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