鏡の世界のあたし

彩瀬あいり

前編

 ぜんぶ、ママのせいだ。

 加賀かが実花みかはひどく不満だった。

 こんなアパートで暮らすことになったのも、生まれ育った町を離れることになったのも。

 ぜんぶぜんぶ、ママがパパと離婚したせいなのだ。



 実花がいま住んでいるのは、二階建てのアパート。一階の角部屋にママとふたりで暮らしている。

 ここは、いままで実花が暮らしていた場所と比べて、田舎だった。もちろん実花だってもう小学六年生だから、いろんな場所があることは知っているけど、とても不便だ。どうしてみんな、こんなところで暮らせるのかわからない。

 まず、電車の駅が遠い。電車に乗るために、バスや車を使うなんて、意味不明だと実花は思う。どこの家にも駐車場があって、車が数台止まっている理由がよくわかった。あれは、お金持ちだからじゃないのだ。車がないとどこにも行けないから、たくさん車を持っているだけなのだ。

 ママは、自転車で駅まで行き、そこから仕事へ通っている。なんでも、会社の別支所に異動させてくれたのだとか。「パートから正社員になれたから、頑張るね」などと言っていたけれど、実花としてはママの仕事は「ださい」と思っている。

 ――だってパパがそう言ってた。


 母親が仕事をするなんて、子どもが可哀想だとは思わないのか。

 おまえは、俺の稼ぎが悪いとでもいうのか。



 実花は私立の小学校に通っていたし、おしゃれな制服に似合った格好を普段からもこころがけていた。まわりの友達もみんなそんなふうで、参観日になると両親が話題になることも多かった。

 実花のママは、他のママたちに比べて地味で、宝石がついたネックレスもないし、髪型だってシンプル。ゴージャスな巻き毛をした、芸能人みたいなママとは違っていることが、とても恥ずかしかった。

 実花ちゃんのママ、かわいいね。

 なんて、くすくす笑いながら言われる気持ち、ママは知らないにちがいない。

 実花がどれだけ恥ずかしい思いをしたのか。もっとちゃんとした服を着て、宝石もつけて、他のママたちみたいに「ちゃんと」してよと訴えても、ちっとも改善してくれなかったぐらい、ケチなのだ。

 両親の仲はよくないのかもしれないことは、実花も薄々は察していた。クラスでも離婚は珍しくなくて、いつのまにか片親になっていてビックリしたものだ。

 そういう子はたいていパパに引き取られていて名字が変わっていなかったし、ご飯を作ってくれるひとが家政婦さんになっただけ。実花のようにママに引き取られて、転校する子なんていなかった。だから実花は、自分はとっても不幸な女の子だと思っている。



     +



 学校から帰ると、鍵を開けて中に入る。玄関は狭くて、入ってしまうとすぐ台所だ。電気のついていない部屋は暗く、廊下に面した出窓から光が入ってくる。シンクには朝食で使った食器がプラスチック製のたらいに浸かったままになっていて、食べカスが底のほうに沈んでいた。

 靴を脱いでスリッパを履く。前の家から持ってきた、ふわふわのあたたかいスリッパはお気に入りだったけれど、この部屋では浮き上がってみえて、わけもなく苛立ってくる。

 誰もいない部屋は寒くて、だけどこのアパートにはエアコンがついていない。外から見ると廃屋のようで、どうしてこんな部屋に住むことにしたのか疑問だった。

 台所をまっすぐ進み、引戸の向こう側が居間となる。六畳の室内、角にはテレビ。反対側の壁際にある椅子と机は、実花の学習机だ。ランドセルを机に置いて、部屋の真ん中にあるこたつに入る。

 スイッチを入れると、ブーンと通電の音が聞こえた。ほのかな熱を捕まえたくて、ヒーターを覆う網に足を押しつける。プリントを取り出して、こたつテーブルに広げた。算数の宿題をやってしまおう。

 無音の中、柱時計がカチカチ鳴る音だけが響く。大きなトラックが道を通ったのか、地震でもないのに窓がガタガタ揺れた。

 勉強は苦手だ。中学受験をするわけではなかったので、塾にも通っていなかったし、それでもいいと思っていたけれど、いまの学校はみんな頭がよさそうだった。

 服はダサいし、髪型だって凝ったことをしていないけど、お勉強はできる。小テストをすると、みんなすらすらと鉛筆を動かしていくから、驚いたものだ。

 ごろんと床に転がる。隣の部屋につながるふすまがすこしだけ開いていることが気になって、立ち上がった。閉めるまえに、クローゼットから体操服を出しておこうと思いつく。あしたは、体育の授業がある。

 観音扉を開けると、右扉の裏についている鏡に自分の姿が映った。実花の全身が見える、縦長の大きな鏡だ。

 学校指定のブラウス姿。

 そういえば、まだ着替えてなかったや。

 そう考えたとき、鏡に映った実花がニコリと笑った。

 ――え?

 凝視すると、鏡の中の実花はふたたび笑って、手を振る。

「こんにちは。わたしはミカだよ」

 声が聞こえて、実花はあわてて扉を閉じた。

 ――なに、いまのなに?

 じいっとクローゼットを見つめて、もういちど扉を開けてみる。そこにはやっぱり女の子が映っていて、実花を見ると笑顔になった。

「ひどいよ。やっとおはなしできると思ったのに」

「……あんた、なに」

「ミカだよ」

「実花はあたしだもん」

「でも、わたしもミカだよ。ほら」

 鏡の中のミカは、制服につけてある名札を鏡面に押しつけた。

 加野かの美香みか

「美しい香りって書いて、ミカだよ」

 鏡の中のミカが笑い、実花はおなかのあたりがモヤモヤした。

 前の学校の、となりのクラスにいた女の子が、同じ字をつかうミカちゃんだった。雑誌モデルをやっていて、顔もおとなっぽくて背も高くて、すごく有名な子。

 美しい香りのミカちゃん。

 それに対して自分は、花の実のミカ。

 どうして実花の名前はオシャレじゃないの!? って、ママに文句を言ったものだ。

 転校して、あの美香ちゃんと比べられることがなくなって、実花はホッとしていたのに、ここにもまた美香がいる。それがとても、いやな気持にさせられた。

 鏡の中にいる美香は、おしゃべりだった。小学六年生で、母親とふたりぐらし。よく似た環境だ。

 実花は、むかし読んだ本を思い出す。鏡合わせの世界で、あっちとこっち、それぞれ自分が存在している物語。主人公の女の子はある日、倉庫の中から古い鏡を見つけて、もうひとりの自分と話をするのだ。

 ――この美香はきっと、鏡の世界の「あたし」なんだ。

 そう思って見てみると、鏡の中の美香は、自分に似ているようで違っている。

 ブラウスはちょっと古ぼけていて、スカートも毛羽立っているようだ。髪の長さは同じぐらい。でも、一部分だけ短くなっている。それを指摘すると、「失敗しちゃったんだ」と美香は笑った。

「美容院にちゃんと言ったほうがいいよ」

「お店でやったわけじゃないから」

「シロウトがやったの? それともまさか、自分で切ってるとか?」

 実花が訊くと、鏡の美香はあいまいに笑った。

 ――なんだ、この子、ビンボーなんだ。

 実花のもやもやは、すこしだけうすくなった。実花だってこんなボロアパートに住んでいるけど、髪の毛はちゃんと美容院でカットしてもらう。それが当たり前だし、常識だからだ。

 鏡の世界はどんなところなのか。実花は、訊ねる。

 やっているテレビはちょっと違うみたい。番組のタイトルも知らないものばかりだし、芸能人の名前も知らなかった。でも、住んでいる場所は同じだからおもしろい。

 違っているとしたら、鏡の世界のアパートは、実花が住んでいるところよりもしっかりしている点。車が通っただけで、窓がガタガタ揺れることはないらしい。だけど、エアコンがないところは一緒。他の部屋にはちゃんとひとが住んでいて、管理人さんが時々ご飯をくれるらしい。

 どれぐらい時間が経っただろう。ガチャっと音がして、実花は玄関のほうに顔を向ける。

「どうしたの?」

「ママが帰ってきた。そっちのママは?」

 鏡の世界の自分だ。実花のママが帰ってきたのなら、向こうのママも似たようなものじゃないかと思う。

 すると美香は、首を振った。

「帰ってきたなら、お手伝いしなきゃだよね。またおはなししようね」

 ただいまーと声が聞こえて、実花はあわててクローゼットの扉を閉めた。と同時にママが顔を出し、声をかけてくる。

「どうしたの?」

「体操服、出そうと思って」

「そうだ。名札、取れかけてるって言ってたよね」

 ごめんね、と謝りながらママがクローゼットに手をかけて、実花はあわてて扉を押さえた。けれど、それよりもはやく扉を開けてしまう。

 鏡にはママの姿が映っていて、それを止めようとする実花がいる。髪の毛がちゃんとして、ブラウスもきれいな女の子。正真正銘の実花自身。

「……実花ちゃん?」

「なんでもないの!」

 あわてて離れて、こたつに逃げこんだ。

 机に置いたままだったプリントをランドセルに仕舞っていると、ママがテレビをつける。夕方のニュースが流れてきて、それを聞きながらママは台所へ向かった。

 その背中を見ながら、実花は大きく息をついて、テレビの画面を眺めた。



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