第2話 差し伸べられた手

 見開いた目に、歪んだ太陽が映る。隅田川の水の流れに遮られて、眩しいはずの輝きが、遠い。


(苦しい……助けて……!)


 こぽり、と口から零れた泡が、水面に向けて虚しく伸ばした寿々すずの手をくすぐった。空気を吐き出した分だけ肺が締め付けられて、喉に侵入した水が鼻の奥に突き刺さる。咳き込もうとすれば、さらに空気を吐き出させられて苦痛が増す。全身に纏わりつく着物が重くて、彼女を水底に引きずりこもうとしているようだった。


(なんで。どうして……!)


 歯軋りした唇の間から、また泡が漏れる。もう少しのはずだった。渋江しぶえ子爵の家紋の入った煙草入れさえ手に入れれば。千早ちはやを言い包めるなんて簡単だと思っていた。女を売って男に媚びる、薄汚い稼業の家と縁を切れると──願いが叶う、ところだったのに。


(お稲荷様にも祈ったのよ。お供えをして、手を合わせて……!)


 どうしてそんなことをしようと考えたのか──朦朧とし始めた頭では、上手く思い出せないのだけれど。


『吉原の九郎助くろすけ稲荷はね、良いご利益があるんだよ』


 あの……洋装の男だ。家を出たところで話しかけてきた、見知らぬ男。胡散臭い物言いは、普通なら耳を傾けずに無視を決め込んでいたはずなのに、なぜか目を向けてしまった。若菜に少し似た、金色の目をしていた。……それとも、あの獣のような目を見たから、だっただろうか。祈れば、願いが叶うだなんて──世迷いごとを、信じてしまった。


(嘘だったじゃない)


 明らかなでたらめを真に受けてしまった自分がおかしくて、寿々は少し笑う。もう、唇から泡が漏れることもない。今だって助けて欲しいと切に願っているのに、彼女は沈んでいくばかり。娼妓が苦界に沈むとはよく言うけれど、寿々も吉原に生まれた女の運命から逃れられないのか。


(もう、良いわ……)


 思い通りにならないことばかりの人生なんて。花蝶かちょう屋とかいう汚れた鳥籠の世話をして暮らしていくなんて。籠の鳥も籠の主人も、どうせ捕らわれの身は同じなのだから。


 諦めて手足の力を抜く──けれど、寿々の身体の下に、「何か」が入り込んだ。小さくて温かいものが、ふたつ。それらは、彼女の身体を持ち上げようと、何やらもがいているような。どうにも非力らしくて、寿々は水の流れとその「何か」に翻弄されるような格好になる。


(何なのよ、もう……!)


 最期に何を煩わせるのか、と。霞んだ頭の隅で地団太を踏んだ時だった。ふわり、という感覚と共に寿々の身体が上へ、水面へと向かう。頼りない「何か」よりも「それ」は力強く、はっきりとした意図をもって彼女を引っ張っているような。それに助けられてか、最初の「何か」も下から後押ししたようで──


 気が付くと、寿々は岸辺で盛大に咳き込んでいた。目も鼻も痛いし、口の中を泥の味が満たしている。濡れて絡み付く髪は首を絞めるようだし、着物が肌に貼り付く感覚も不快だった。でも──とにかく、彼女は生きている、らしい。

 とめどなく滴り落ちる雫を拭い、呑み込んだ水を吐き出し、目を擦り──ようやく人心地ついたところで、寿々は傍らに小さな人影がふたつ、彼女と同じく濡れ鼠になっているのを視界に入れた。濡れ「鼠」というか──猫の耳を頭につけた女の子が、くしゅんくしゅんと小さくくしゃみを連発している。


「な、何よ……その格好。ふざけてるの……?」


 よく見れば、その子たちが来ているのは大昔の禿さながらの派手な振袖だ。濡れて崩れた髪も、元はたぶん桃割れに結っていたのだろう。髷を飾っていたはずの手絡も、質の良い縮緬のようだった。何かしらの仮装なのかもしれないけれど、三角の耳だけがどうにも浮いている。


(尻尾までついてるし……)


 状況も忘れて指さしてしまうくらいには、その子たちの格好は不審だったのだけれど。眉を寄せる寿々に、ふたりは揃って絵に描いたような心外、の表情を見せた。


「ふざけてなどおりいせん」

「正真正銘の、本物でありんすよ!」


 ふたりが頬を膨らませるにつれて、三角の耳はぴんと立ち、尻尾はびたびたと地面を叩いて雫をまき散らす。……まさか、自分の意思で動かせるはずはないだろうに。


瑠璃るり珊瑚さんご。後をつけていたのか。無茶なことを……!」


 と、ふたりの背後から大きな手がにゅっと伸びて、白と黒の猫耳を寝かせた。というか、叱る調子で頭を抑えた、のだろうけれど、寿々は頭から生えているとしか思えない猫耳から目が離せない。


「だって、猫の匂いがしたのでありんすもの」

「わっちらの妹分じゃ。様子が知りとうて……」


 へんてこな風体のふたりが代わる代わる訴える相手は、あの綺麗な男の人だった。千早を匿っているとかいう、胡散臭い人。千早の身柄に懸賞金がかけられているのも知らないなら、とんだ間抜けだと思っていたけれど。どうせあの娘を騙して売り飛ばす肚だろうと思っていた──思いたかったのだけれど。でも、この人はどこまでも千早を庇っていた。


 寿々が唇を噛んだ時、禿のような子供ふたりが同じ速さでくるりと彼女のほうへ振り向いた。


「主は、三毛を飼っておりんしょう? 匂いで分かるのじゃ」

「三匹いたうち、気に入ったのを一匹だけもらったのであろ」

「ちょっと……若菜わかなを、知ってるの……?」


 飼い猫のことを言い当てられた不気味さに、寿々は怯んだ。でも、同時に頭の中に蘇る声がある。幼く高い少女の声は、かつての彼女自身のもの、花蝶屋の近所の小見世で、子猫が生まれたからもらって欲しいと言われた時のことだった。


『三毛が良いわ。華やかだもの』

『白黒の対はどうだい?』

『二匹もいらないわ』


 ふわふわの毛玉のようだった若菜を抱いて、寿々はさらりと言ったのだ。自分のものになる子猫のことで頭がいっぱいで、自分の言葉の結果は深く想像していなかった。今の今まで、ほとんど忘れていた。


(あ──)


でも、完全に、ではない。その見世の若い衆の、やはりあっさりとした声が耳に蘇る。


『じゃあ、こいつらはお歯黒はぐろどぶに漬けるとするか。勝手に殖えても困るからな』


 目の前の不思議な禿たちの耳と尻尾は、白と黒。あの時の子猫と同じ──それに、目も。あの洋装の男のように、人間にしては大きく、色も金色で、瞳孔も縦に裂けていて。


 あの子猫たちだ、と思った瞬間、寿々は尻で後ずさりしていた。


「あ、あんたたち……仕返しなの!? わ、私のせいで、溺れさせられたから……」


 さっきの苦しさを、きっと子猫たちも味わったのだ。川に投げ込まれたのは、同じ目に遭わせてやろうということに違いない。でも──


「仕返しとは何のことじゃ?」

「主には何の恨みもないぞ?」

「楼主様は優しくて、姐さんたちも綺麗なのに」

「毎日が楽しいのに、のう」


 ふたりは、またも同じ速さで首を振った。そして、にっこりと笑う。


「水を呑んで死ぬのは苦しいからの」

「わっちらもよう知っているからの」


 間に合って良かった、と。子猫の幽霊──だかなんだかは素直に喜んでいるのだと知って、寿々は目を剥いた。そうだ、この子たちは確かに溺れ死んだ猫なのだ。なのにどうして、こんなに無邪気に、嬉しそうに──幸せそうに、しているのか。


(千早も、そうだったわ……)


 不幸を嘆けば良いし、寿々の裏切りを責めれば良いのだ。そうして、寿々より哀れな存在なのだと確かめさせて欲しいのに。そうすれば、彼女は少しはマシな立場なのだと思えるのだろうに。


「間に合うて良かった」

「恩に着るのじゃ」


 なのに、どうして思った通りにならないのだろう。生まれてすぐにお歯黒溝の汚水に捨てられた子猫でさえも、ふわふわと笑っているのに。


(私は、どうして……!?)


 千早を逃がしたのは、咄嗟の判断にしては上出来だったはずだ。父に、身代わりのことを提案して了承させたのも、千早と再会したのを幸いに、形見を差し出させるのも。彼女は頑張ったし、もう少しで成功するところだったのに。


「三人、掬いあげるのは難儀だったぞ……」


 地面についた手で、草の葉を握りしめた時──溜息混じりの男の人の声が、思いのほかに近くから聞こえて寿々は目を上げた。すると、例の美形の顔が間近に迫っていて悲鳴が漏れそうになる。この人もやはり水に飛び込んだのか、艶やかな黒髪は濡れていっそう艶を増し、身体に貼り付く紬が身体の線を見せている。水も滴る、なんて陳腐極まりない表現が頭を過ぎった。


 しかも、彼の深い色の目は、ひたと寿々を見つめている。釘付けにされた思いで固まる彼女に、その人はゆっくりと、丁寧な口調で語りかけた。


里見さとみ──さっきの男は、渋江子爵に会いに行くはずだ。貴女は居場所を知っているか? 千早を取り戻さなければならない」


 また千早か、と思った。綺麗な男の人と並んで綺麗な着物を着ていても、どうせ売られるまでのことだからそれほど羨まずにいられたのに。


(あの子を助ける気なんだ、この人……)


 彼女を助けたのだって、子爵の居どころを聞くためだけなのだ。自分の存在がそのていどだと思うと面白くなくて、寿々はふいと顔をそむけた。


「……なんで私に聞くの。貴方、千早の情人いいひとでしょう。私は、あの子を──」

「貴女は千早が子爵令嬢になるのを望まないのだろう。それとも、千早にとって不本意な結果になるなら何でも良いのか? ……そうではないと、思うが」


 ──けれど、辛抱強く寿々に語り掛ける声は、思いのほかに真摯な響きを宿している……かも、しれない。きっと、千早を案じているからなのだろうけど。まるで、寿々の昏く淀んだ心の中まで見透かされているようで──落ち着かなくて。ちらりと、その人のほうを横目で見てみる。


「貴女の願いも叶えたい。さっき、助けてと言っただろう。水の中から、というだけではないと思うが」

「そんなこと言ってない!」


 本当に、口に出しては言っていないはずだった。何しろ溺れている最中のことだし。でも、その人の目は、嘘偽りを言っているようには見えない。ひたすら真っ直ぐで、優しくて。


(女を騙す男はみんなこうなのよ。息をするように嘘を吐けるんだから……!)


 花蝶屋の女たちが馬鹿な恋で借金を重ねていくのを、それを舌なめずりして眺める父の姿を、寿々はずっと見てきたのだ。


「俺には聞こえるんだ。その、聞こえた感じだと……貴女の願いと千早のそれと、同時に叶えられそうな気がする」


 まして、こんな訳の分からないことを信じられるものではない。世迷い事を真に受けるのは、神頼みだけで十分だ。そう、心に念じるのだけれど。


「……たぶん……うち、だわ……」


 固く結んでいたはずの唇から、言葉が漏れ出ていた。自分でも気づかないうちに、自分のものではないような掠れた声で。


「うち?」

「花蝶屋よ。子爵様が、来ているはず……」


 寿々を、迎えに来てくれるはずだったのだ。今日からは、彼女は子爵家のお屋敷で寝起きできていたはずで──でも、その想像をしても、もう不思議と胸が弾まない。


(千早は、そうなっても笑ってるんだわ、きっと)


 あの鈍さを思うと、今でも苛立ちが込み上げてくる。泣かせてやりたいと思ってしまう。──でも、そんなことをしても寿々の気は晴れないだろう。彼女はもう、気付いてしまっていた。


(じゃあ、どうしてくれるってのよ!?)


 偉そうなことを言った相手を思い切り睨みつけると、その男はすっと立ち上がった。


「そうか」

 濡れそぼった男の身体が炎に包まれた気がして、寿々は目を瞠る。いや、男だけではない。炎は彼女の身体も舐める。


(え? え?)


 熱さを恐れて髪や腕を払う、ほんの数秒のうちに炎は幻のように消えた。すると、彼女の肌も着物もすっかり乾いていた。


「瑠璃と珊瑚は見世に戻りなさい。応援を連れてくるんだ。俺は、この娘と花蝶屋に向かう」

「あい」

「直ちに」


 振袖の裾を乱して走り出した猫の禿たち──その耳も尻尾も、陽だまりにいたかのようにふんわりとしていた。手を繋いで駆けるふたりの背は、それこそ猫が四つ足で走るように素早いから、すぐに視界から消えたけれど。


「では、行こうか」


 呆然として座り込んだままの寿々に、男の人は手を差し出した。そうするのが当然だとでも言うかのように、彼女が同行することを、疑ってもいないかのように。あまりに自然だったから、思わず──本当に、思わず──寿々もその手を、握り返してしまった。

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