第5話 水しぶき
「その娘を
(どうして……!?)
今の里見は、余裕たっぷりに笑っている。猫が喉を鳴らすような、くつくつという振動が、抱えられた千早の身体にも伝わってくる。
「嫌だなあ、私は何もしちゃいませんよ。
里見は空いたほうの手を伸ばすと、
「何なの、あんた──離しなさいよ! 千早……っ」
千早の名を呼んだのは、助けを求めてのことなのか。それとも、この期に及んでも形見の煙草入れを奪おうとしたのか。いずれにしても、里見はお嬢様がもがくのを許さず、首根っこを押さえて抵抗を封じた。どこにどう力を入れているのか、千早も身体をろくに動かせず、里見の高笑いを聞くことしかできなかった。
「この娘の発案ですよ。まったく人間は──というか、女は怖いもんだ。親を捨ててでも、良い暮らしがしたいって言うんですからね。あんまり強欲で感心したから、教えてやったんですよ。吉原での願いごとなら
「お前もその案に乗ろうとしたのか? 千早を攫うのではなく、形見を奪うだけなら見過ごすとでも思ったか……!?」
羽織の裾を翻して、朔が叫ぶ。神様が、焦っているのだ。千早だけではない、寿々お嬢様がいるからだろう。
(どうにか、しないと……!)
気持ちばかりが逸るけれど、里見の腕から逃れることはできなかった。抱え込まれている上に、間近で暴れるお嬢様の手足が、時に千早にも当たって動きを妨げている。娘ふたりの儚い抵抗を見下ろして、里見だけが実に愉しそうだった。
「いいえ、いいえ! 渋江様のご落胤はこの千早って娘ですよ。逃げたほうだと、言ってしまいましたからねえ。実の娘同様に、なんて嘘八百を押し通されたら私の面目丸潰れだ。お稲荷様に祈ってもねえ、今どき何にもならないんですよ!」
「じゃあ、どうして!」
口ならば、なんとか思い通りに動かせる。やっと思い出して、千早は里見を睨め上げた。
(どうして、お嬢様を巻き込んだの……!?)
寿々お嬢様は、熱心にお参りをする人ではなかった。幾ら切羽詰まっていたとしても、千早をどう言い包めるかに注力するほうがこの人らしい。そういう、強い人だった。なのに、見知らぬはずの里見に言われて稲荷詣でをするのはおかしいし、そうさせたのだって意味があってのことに違いない。
「何を、企んでいるんですか……!?」
千早の精いっぱいの詰問に、里見はおかしそうににい、と笑った。細めた目といい弧を描く口といい、人の姿なのにどうにも狐が重なって見える。千早の耳に寄せる口も、尖ってヒゲと牙が生えていそうな──そんな、獣めいた恐ろしげな表情で、里見は猫撫で声で囁くのだ。
「
「里見……!」
厭味ったらしい視線を向けられて、朔が激した。彼の怒りを表すように、狐火が閃いて辺りを照らす──でも、それだけだ。里見が怯むことはもうない。
(私を助ければお嬢様の願いが叶わない。お嬢様を助ければその逆になる──)
だから、朔は動けない。憤りはしても、思い通りに力を振るうことができない。千早の喘ぎによって、彼女が理解したことを知ったのだろう。里見はまた愉快そうに声を立てて笑った。あるいは、朔を嘲った。喉を反らしてけたたましく笑う、その勢いのままに里見は腕を振り上げた。寿々お嬢様を捕まえていたほうの腕を。
「お宅様はもうこの娘の祈りを受け取った。叶えられるかどうかはまあ別として、見捨てたりは、しないですよねえ?」
「きゃ──」
千早の目の前で、お嬢様の長い髪が舞った。彼女たちは、いつの間にか川岸のすぐ傍まで引きずられていた。寿々お嬢様の手が、足が中空でもがく。人形のように軽々と放り投げられた身体が落ちる先は──草むらではなく、隅田川の中ほどだった。
「お嬢様!」
千早の悲鳴に、高い水しぶきが上がる音が重なった。そして、得意げな里見の挑発する声が。
「隅田川に身投げ、なんて昔からよくあったでしょう! さっさとしないと娘が沈んじまいますよ!」
「……待て!」
千早を抱えて跳び退った里見に、朔が叫ぶ。かつてない険しい声と表情に、千早は竦み上がる。そして同時に、隅田川の水面を乱す波紋を見てしまって悲鳴を上げる。
「──お嬢様を助けてください! 私は、大丈夫だから……!」
お嬢様が落ちたことを示す水面の乱れは、どんどん小さくなって川の流れに紛れてしまう。まやかしの術のせいか、助けてくれる者は現れない。見えても、聞こえてもいないのか──それとも、一瞬の水音は喧騒に紛れてしまったのか。
「く──っ」
千早を見て、里見を睨んで。朔が躊躇ったのは一瞬にも満たない間だったろう。彼はこちらに背を向けて、川を目指して地面を蹴った。神様の追手を退けたと確信してか、里見は千早を抱え直して土手へと跳び上がる。彼女の耳元に、くすくすと笑い含みに囁きかけながら。
「健気なことだねえ。あんなに口汚く罵られたのに」
「あなたが、させたんでしょう……!」
寿々お嬢様を巻き込んで、川に放り込んだのも。そうすることで、朔が助けざるを得ないようにし向けたのも。千早が促すことさえ計算のうちだったのだろう。すべては、彼女を渋江子爵に差し出すために。
千早が精いっぱい睨んでも、里見が動じることはまったくなかった。完全に侮られた悔しさに、強く噛み締めた唇を、里見の指がそっと撫でる。そんな顔はするものじゃない、とでもいうかのように。
「良い子にしておいで。爺様と婆様に会わせてやろう。優しくて素直な──可愛い孫娘との感動の再会だ。さぞ喜んでもらえるだろう……!」
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