第3話 狐と狸は犬猿の仲?

「御職がふたり、いるの……?」


 千早ちはやが問うと、黒と白、二対の三角の耳がぴんと立った。同時に、同じ色の長い尻尾も。猫が緊張を表す仕草を見せながら、可愛らしい禿たちは声を潜めた。


「あい。おふたりがおふたりとも、互いに決して譲りいせんで……」

「何しろ、それぞれ狐と狸のあやかしでありんすゆえ」

「ああ……」


 犬猿の仲とは言わずとも、狐と狸は化ける獣の筆頭として張り合うものなのかもしれない。葛葉くずのはは、言わずと知れた陰陽師安倍あべの晴明せいめいの母狐の名。芝鶴しかくのほうは──有名な分福茶釜ぶんぶくちゃがまに登場する守鶴しゅかく和尚と、芝居好きの芝右衛門狸しばえもんたぬきを合わせたのだろうか。いずれも高名なあやかしの名を負って恥じないとしたら、さぞ美しい女たちなのだろう。


「ねえ……」


 女同士の鞘当ての恐ろしさと、雅な名前の美しさ。その両方に溜息を吐きかけて──千早は、不穏なことに気付いてしまった。ぴくぴくと動く珊瑚さんご瑠璃るりの耳に口を寄せて、そっと囁く。


「御職の花魁には、真っ先に挨拶したほうが良かったんじゃないの?」


 言った瞬間、ふたりの尻尾がぶわりと膨らんだ。千早の懸念は、どうやら当たってしまっていたようだ。どれほど美しくても、花魁は──女というものは、自分とほかを比べずにはいられない。現世でもあやかしの世でも、それは変わらない業のようなものらしい。


「だ、だって」

「怖かったのでありんすもの」


 ガマの穂のように膨らんだ二本の尻尾が、べしべしと千早の手を打った。珊瑚と瑠璃の怯えと混乱を、訴えるかのように。


「どちらを先にしても、もう片方の姉さんは必ずお怒りなさいんす」

「座敷から出てくださんしたら、成り行きでご挨拶できるやもと思っていたのに」


 ついでや偶然を装って、挨拶することができたら、と。ずるずると後回しにするうちにここに至ってしまったらしい。


(ほかの人から聞いて、面白がって閉じ籠っているんじゃ……)


 百戦錬磨の花魁というのは──怖いのだ。千早もよくよく知っている。禿や新入りを揶揄ったり試したりするのは常のこと。廓勤めの憂さ晴らしでもあるし、ある意味では貴重な教えとも言えるだろう。


 だから、珊瑚と瑠璃も、叱られるなり嫌味を言われるなりは、勉強と思うべきなのかもしれない。見世の同輩もあしらえないようでは、先が思いやられるのだから。でも──へたりと垂れて震える猫耳を見ていると、可哀想にも思えてしまう。


「じゃあ──おふたり同時に挨拶できるように、やってみようか?」


 言いながら、千早はふたりの頭を順番にそっと撫でた。艶やかな髪も、柔らかな耳も、掌に伝わる感触はうっとりするほど気持ち良い。


「え……?」


 思わず目を細めて笑った千早に、ふたりは大きな目をぱちぱちと瞬かせて首を傾げた。


「かようなこと、いかにして……?」

「葛葉姉さんと芝鶴姉さんが一緒に並ぶことなど──」


 そう、確かに。売れっ妓花魁というものは、禿や新造に傅かれて座敷を出る必要などほとんどない。新入りがどちらに先に挨拶するか、今は高みの見物を決め込んでいるところでもあるだろうし。


(よっぽどのことがなければ出てきてくれない、でしょうね)


 廊下の隅に屈んだ千早たちの傍を、見世の者たちが足早に行き交っている。視界に落ちる影の中には、時々明らかに人で「ない」ものもある。珊瑚と瑠璃のような獣の耳、ふさふさとした尻尾、鳥や蝙蝠の翼のような──顔を上げないほうが良い気がして、千早は禿たちと目を合わせることに集中した。


「うん、難しいとは思うんだけど──」


 言いながら、腰を探って帯留めを外す。春が終わり、初夏に向かう季節に合わせた、藤の花のつまみ細工。小さな紫色の花を連ねて、歩くのにつれて揺れるように作ったもの。


(寿々お嬢様にもうひとつ、って言われてたなあ)


 下働きの忙しさゆえ、とうとうその時間を捻出することはできなかった。小さな胸の痛みは押し込めて、千早は小さな飾りを珊瑚と瑠璃の目の前で揺らした。


「千早……?」

「何ぞ、それは……?」


 挨拶の順番で不安に揺れて、今にも泣きそうだったふたりの目が、まん丸く見開かれて、藤の花の帯留めに吸い寄せられる。大きな瞳孔も、花房が揺れるのに合わせて左右する尻尾も、寿々お嬢様の愛猫・若菜わかなにそっくりだった。


(あ、やっぱり猫なんだ……それも、まだまだ子供の……)


 それなら、猫又扱いに憤るのも、毛並みの柔らかさも無理はない。


「うん、『よっぽどの騒ぎ』があれば花魁も出てきてくれるかなあ、って思って」


 猫の遊び相手を務めるのは、花蝶かちょう屋の仕事の中では一番楽しかったかもしれない。若菜を焦らせる技を思い出しながら、禿ふたりの目が爛々と輝いていくのを確かめながら、千早は廊下の人通りを見守っていた。楽器を抱えていたり、酒や料理を運んでいたりする人、というかあやかしが途絶えた瞬間を、待たなくては。


「よっぽど、とは?」

「妙案でもあるのかえ?」


 揺れる藤の花房に目も意識も釘付けになって、瑠璃と珊瑚の問いかけも上の空だ。良い頃合いに仕上がっている。それに、廊下の人通りも、あつらえたようにちょうど途絶えて、階段まで見通せるようになっている。


「それはね──」


(今!)


 顔では意味ありげに笑い、心では気合を入れて叫ぶ。そして、清水の舞台から飛び降りる思いで、千早は藤の花の帯留めを放り投げた。


「にゃ?」

「うにゃっ」


 瞬間、目の前をふた組の耳と尻尾が駆け抜けた。弧を描いて飛んだ帯留めを追って、珊瑚と瑠璃が跳躍したのだ。獲物を狙う時、猫は余所ごとは目が入らなくなるもの。後先も考えずに飛び出せば──


 月虹げっこう楼の建物が、揺れた。大勢の人、というかあやかしが行き来する賑やかさとはまったく別の、地震のような不意の揺れだ。帯留めを追って飛び出した珊瑚と瑠璃が、もつれあって廊下を滑り、その勢いのまま階段を転がり落ちたのだ。


「ど、どうした!?」

「瑠璃と珊瑚か! 何をやってる!?」


 幸い、ふたりの下敷きになった人はいないようだった。器が壊れたり、花魁の着物や飾りが痛んだり、ということも。ただ、とにかく音と振動がものすごかった。すわ何ごとかと、廓中の注目がこの場に集まりつつあった。ある意味では、千早の狙い通りでは、あるのだけれど。


(こ、ここまでの騒ぎになるなんて……)


 震える千早の耳に、襖ががらりと開く音が届いた。それもふたつ、ほとんど同時に重なって。次いで、水晶の鈴を振ったらかくや、というような、鋭くも涼やかな、美しい女の声も。


「何の騒ぎだえ。騒々しい……!」

「見世が開く時だというに、不調法ぶちょうほうな」

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