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仕事を終えて帰宅するなり、ケーコが駆け寄ってきた。おかえりなさいのハグじゃないことは、威圧的な表情ですぐに分かった。そもそも我が家に甘ったるい愛の表現は存在しない。
「遅えよ!」
ハスキーな怒鳴り声に続いて、
見上げると、明らかに暴力を愉しんでいる顔があった。弱者をいたぶる面白さというより、暴力それ自体の衝動に陶酔している。うっとりした目元。口の端から流れる涎。ダブついた顎の肉が、僕を蹴るたびにブルンと震える。イガ栗みたいな短髪は緑色に染まっていて、怪物感をより強めている。
醜い。どこからどうみても。
やがて蹴るのに飽きると、ケーコはさっさと踵を返した。リビングのドアが可哀想なくらい大きな音を立てて閉められる。
彼女の姿が一旦みえなくなっても、僕はしばらく身動きがとれなかった。痛みに加えて、疲労もある。うんざりする気持ちもないではない。ただ、それも一瞬だけだ。僕は立ち上がり、猛獣の待つリビングへと向かった。
ケーコと付き合って五年。同棲するようになって二年が経つ。交際当初から暴力行為はあった。近頃は月に一度くらい暴力の日が巡ってきて、約四日間続く。日増しに激しくなり、五日目の夜に暴力の影が消える。今日はちょうど四日目だった。
暴力は彼女が彼女でいるために必要なものだ。凶暴さが彼女を支えていると思えば、理不尽な痛みの数々も儀式としての崇高さを帯びる。
彼女から暴力が失われるくらいなら、僕は喜んで痛みを引き受けよう。
食後にビンタをされ、風呂上がりに尻を蹴られ、入眠前にラリアットを食らい、ようやく眠りについた。どの暴力も気紛れで、理由なんてあってないようなものだ。邪魔だ、目障りだ、話しかけるな。基本的に罵倒の語彙は少ない。それは彼女が言葉を知らないわけではなく、相手を精神的に追い詰めるつもりがないからだろう。家庭用サンドバッグ。それが僕だ。肉体的暴力だけが彼女の目的を達成する。
寝入りばな、隣のマットレスを横目でみると、彼女はすでに眠りに落ちていた。
寝ているケーコはとても静かだ。鼾はかかない。羽毛布団を肩口まであげて、朝まで仰向けのまま。お手本のような寝姿だ。この静けさだけは非暴力期の彼女と共通している。朝になって再び暴力の嵐に晒されるからこそ、今この瞬間の静謐が際立つ。
眠るケーコの眉が下がった。口元がぎゅっと引きしまる。なにかに怯えているような表情で、僕は少しだけ胸が痛い。きっと彼女は昔の夢をみているのだろう。
翌朝は腹部への衝撃によって目を覚ました。おはようパンチ。あるいはおはようキック。目を開けたときには彼女はすでに寝室を出るところで、後ろ姿しか視界に入らなかった。
今日は土曜日だがお互い休みではない。緑色のキャップを目深に被ってノーメイクで家を出る彼女を見送ってから、顔を洗った。まだ朝の五時だった。
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