那由多の彼方のニルヴァーナ
沖田ねてる
前編
私に“神”の天啓とも呼べるものが下りてきたのは、道すがらにあったコンビニで買った“チョコレート”をかじった時だった。“雨雲”が通り過ぎ、湿ったアスファルトを照らす日の光が差し込み始めた明るい空。
雫に濡れた車が走りながらそれを振り払っている傍らで、甘いチョコレートの欠片を口内に入れ、歯で砕き、唾液でもって溶かし、飲み込もうとした瞬間。不意に、何の前触れもなく、それは私に降ってきた。
『人を幸せになさい』
それは舞い落ちる花びらの一片が、偶然にも手のひらに乗ったかのような感覚だった。風が吹けば飛んでいってしまいそうな、儚いもの。私はそれを落とさないように、壊さないように、そっと握りこんだ。落としてはいけないものだと、解った。ふと目に留まったのは、ガードレールにとまっていた黒い“蝶”だった。
私はすぐに動き出した。特に思い入れも何もなかった仕事を辞め、使うアテもなかった貯金と僅かばかりの退職金を持って社宅を出て、ボロアパートに引っ越した。その後はボランティア活動に勤しむようになり、同時並行でYouTube等のSNSにて布教活動を始めた。
「人は幸せになるべきだ」
私は一貫してそれを訴えた。ボランティア活動に従事しつつ、SNSでの発信をずっと続けた。もちろん最初から上手くいく筈もなく、しばらくの間は全くの鳴かず飛ばずだった。それでもと自分を奮い立たせて、私は活動を続けた。
そんな私に、転機が訪れる。元々そんなにお金がある筈もなく、段々と貧乏になり始めていた頃。SNSを通じて一人の男性が、私に声をかけてきたのだ。
「私にも手伝わせてください」
初めて解ってくれた人だった。私は嬉しくなり、すぐに彼と連絡を取った。程なくして彼と出会うことになり、活動は二人になった。この頃、また黒い蝶を見かけた気がする。
それを切っ掛けにして、私の周りには段々と人が集まり始めていた。長く続けていたことでボランティア活動団体にも認知されており、自分がSNSで色々と発信していたことにも興味を持ち始めてくれていた。
「困っていることがあるんです」
お悩み相談なんかも受けるようになった。当然、そんな経験もなかった私は四苦八苦することになったが、親身になって話を聞いたことが幸いし、何とか解決の方へと向けることもできた。相談者は笑顔になり、私は誰かを幸せにできたと実感した。
やがて口コミで私の活動が広まっていったのか、SNSのフォロワーも増え始め、最初の男性以外にも私個人に興味を持って会いに来てくれる人が増えた。この頃には、私の活動は既に個人的なものの範疇を超えており、団体と呼べるレベルになっていた。更にはSNSでの活動が実を結び、収益が発生する段階へと上がっていた。
「私は神の啓示を受け、人を幸せにする為に活動しております」
そうなってくると、私自身の活動内容も変わってきた。SNSでの発信や誰かとの対話なんかがメインとなり、ボランティア活動に参加する日が少なくなっていった。収益以外にもお金が発生するようになり、最初に私の元に来てくれた彼が会計役を担ってくれた。
「法人化しましょう」
団体の規模が大きくなり始めた頃、彼の提案によって宗教法人を立ち上げることになった。まさか宗教を作るなんて思ってなかったので、私はなかなかに面を喰らってしまったものだが、色々と手続きをしている内に実感を持ち始めていた。
名前を決める際になって、私は要所要所で見かけていた黒い蝶を名前とし、団体のシンボルにしようとしたが、不吉な意味もあるのでやめようと却下された。結果、私が神の啓示を受けたことから天啓教という名前になった。また、窓の外に黒い蝶を見た。
「天啓教は人を幸せにする為にあります」
そうして立ち上がった天啓教は、思いの外上手く進んでいた。信者もSNSでのフォロワーも順調に増えていき、活動規模が広がっていった。大きなホールを貸し切りで講演会をしても満席になるくらいで、私は一気に天啓教の教祖として持ち上げられることになった。
数々の人が私の話を聞いて救われました、心の支えにしていますと感謝を述べてくれる日々。誰もが感謝と尊敬の目を向けてくれ、それがずっと続いていく。いつしか私が住んでいたボロアパートは始まりの聖地とみなされるようになり、人が殺到する事態に。チョコレートを食べていた際に天啓を受けたというエピソードも広まり、聖食物として扱われるようになった。なおその頃、私はもう新居へと引っ越していたし、あまりチョコレートも食べてはいなかった。
そんな日々が続いた結果、私の心は段々と横柄なものになっていった。
最初は出来心だった。信者の一人の女の子が私の好みであり、彼女ともっと仲良くなりたいと思ってしまったのだ。だから私は彼女を呼びつけて、少しの嘘をついた。
「私の傍にいるようにと、天啓があった」
正直なところ、拒否されると思っていた。何しろ言い分が、スケベ親父そのものだったからだ。この頃には私も良い年になっていたが、あの日からずっと活動に勤しんできていた結果、全くと言って良い程に女遊びをしていなかった。少しくらい、という欲が顔を覗かせていた。
しかし私の予想に反して、彼女は言った。
「どうぞお傍に置いてくださいませ」
私の目が点になった。まさか即断即決で頷かれるなんて、思ってもみなかったのだ。それから彼女は、私に尽くしてくれた。いつも一緒にいて、講演会の資料作り等までこなしてくれる彼女。そんな彼女に本気で惹かれてしまった私。
しかし女性経験のなかった私がそれを素直に言うことも出来ず、遂には持っていたものを振りかざすしかできなかった。即ち、自分が天啓教の教祖である、という権力を。
「私の妻になれと天啓があった」
これを口にした時の私は、内心で酷く震えていた。小心者が権力を振りかざしていたのだ、当然であった。だが彼女は、それが神の御導きならばと、私の妻になってくれた。
そしてこれが、私の中で何かが外れた瞬間だった。私はまた、窓の外に黒い蝶を見た。
私は彼女を貪るように抱いた。彼女がそれを拒否しなかったからだ。自分の思うままに好みの女性を抱く興奮。それを実践できる自分の力。それは私にとって、麻薬のような心地よさがあった。
更には金だ。天啓教はどんどん大きくなっていき、強制こそさせていなかったが、お布施も増えていた。SNSでの収益も大きく、私の手元には見たこともないくらいの金があった。これがダメ押しとなり、私は乱れた。
「天啓があった」
いつしかこれが、私の口癖になった。天の神よりお告げがあったと言えば、誰もが私の思う通りに動いてくれる。好みの女の子を傍に置くことも、豪勢な食事を食べることも、それこそ土地を買って建物を建てることすらもできるようになっていった。更には信者が増えて伝手ができたことで、非合法なものすらも手に入れることができた。
私は有頂天だった。自分の為だけの楽園があるような、そんな気がしていたのだ。相変わらず講演会やSNSその他の活動はあったが、自分が昔言った内容をすでにまとめてくれたカンペすらも作らせた為に、大した手間でもなくなっていた。片手間に雑務をこなし、後は好き放題遊び惚ける日々。天国とは現世にあったのかと、本気で思っていた。
しかし、この頃からだろうか。周囲が私を見る“目”が変わってきたのは。
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