第32話少女の叫び

 時は少し遡る。


 銃声が連続する。戦いは、いつの間にか一方的なものになっていた。


 エルナの攻撃が身を撃ち、激しい痛みを与えてくる。燐火は、できることなら鉛玉にキスでもしたい気分だった。


 観衆の前で、完膚なきまでに叩き伏せられる。それは、前世の燐火が好きなシチュエーションの一つだった。紙面の上で繰り広げられるその場面に、当時の燐火は「なんて屈辱的なシチュエーションか」と身を震わせたものだ。


「ごほっ……」


 鳩尾のあたりに弾丸がめり込み、燐火は血を吐いた。それを見たエルナが、一層笑みを深める。残虐で、傲慢で、嗜虐的な笑顔だった。


「はっ! もっと顔を見せろ!」


 三日前に優香にしていたように、エルナは燐火の短髪を掴んだ。ぐい、と燐火の顔を引き寄せたエルナは、額に銃口をくっつけると、躊躇なく発砲した。


「きゃあああ!?」


 燐火の後頭部が凄まじい勢いで押し出され、床に激突した。

 殺したのではないか、と思ったギャラリーが悲鳴を上げた。

 しかし弾丸は貫通しておらず、燐火の意識は辛うじて保たれていた。あるいは、エルナが気絶させることを望まなかったか。


「そうだ! もっと無様な姿を見せて私を満足させろ!」

「……はは」


 くらくらする頭で、燐火はぼんやりと思考をしていた。そうだ。これこそが自分の望んだ世界ではなかったか。目の前には自分を傷つけ、そのことに喜ぶ女。皆が、自分の無様な姿を見ている。

 そうだ。最初から最強の看板なんて、憧れなんて、信頼なんて、いらなかった。だって自分には、元々価値なんてないのだから。ただ蔑まれ、傷つけられ、最後に殺してくれればそれでよかった。

 銃弾は密度を増し、燐火の体を打つ。四肢を貫通する弾。貫通せず、内臓のあたりを打撃する弾丸。エルナは、人を気絶させずに傷つける手管を熟知していた。

 もういいか、と力を緩める。得物を手放そうとする。



 それでも、今の燐火にはそれを良しとしない人がいた。


「──何やってるんですか! 私の大好きなお姉様を見せてください!」


 その声は、銃声にも負けずに燐火の耳に届いていた。

 優香が、好きな人が、自分の姿を見たいと言ってくれている。期待されている。こんな自分に、期待してくれている。


 ──それは、燐火にとって痛みを感じること以上の幸福だった。


「……なんだ?」


 引き金を引き続けるエルナが眉をひそめる。


 突如として、燐火の雰囲気が一変した。

 躾を大人しく受ける飼い犬のごとき雰囲気から、勇ましい猟犬のような様子に。


「ああああああああ!」


 吼える。燐火の傷だらけの体に、力が漲る。

 見る者に寒気を覚えさせるような恐ろしい迫力を纏う。戦いを見ていた観客は、その異様な空気に思わず息を呑んだ。相対していたエルナも、本能的な恐怖に脚を一歩引いた。


 しかし、エルナが危機感を覚えた頃には、燐火は既に彼女の背後にまわっていた。


「──は?」


 背後に気配を感じた瞬間、エルナはあり得ない、と思った。正確な射撃で標的を撃ち抜くエルナの動体視力は超人的だ。どんな素早い攻撃だろうと、彼女が相手を見失ったことは一度としてなかった。

 彼女自身、自分の強さは優れた動体視力があるからこそ成り立っているものだという自負があった。


 それが、一瞬で破られた。


「ッ!」


 もはや直感のみを頼りにして、エルナはその場に屈んでいた。わずかに遅れて振るわれた刀が、彼女の金髪を数本切った。

 肝が冷える。自分が恐怖を覚えているという事実に、エルナは驚愕と憤怒を覚えた。


「ふ、ふざけるなあああああ!」


 怒りのままに銃口を合わせ、指を切る。エルナの力の込め方によって威力の変わる弾丸は、その時過去最速を叩きだしていた。

 しかし、燐火の動きはそれをはるかに超えていた。


「……遅い」


 もはや弾くだけにとどまらず、彼女の振るう小太刀はエルナの弾丸を


「がっ!?」


 銃弾が、エルナの柔肌を食い破った。足の辺りから出血する。

 エルナは、自分が鉛弾を受けたことなど一度としてなかった。その新鮮で耐え難い痛みに、彼女の思考は一瞬停止してしまった。


 今の燐火が、それを見逃すはずがなかった。


「おおおおおおお!」


 信じられない速度でエルナに肉薄、逆手に持ちかえた小太刀の峰で、胸部を激しく叩いた。


「こっ……」


 激しい痛みに、エルナが怯む。続けて燐火は、反対側の得物の柄の底、かしらでエルナの顎を叩き上げた。


「ッ……!」


 エルナの脳が激しく揺さぶられる。思考が纏まらない。反撃の手だてを、組み立てられない。

 あるいは、万全の状態のエルナですらも、勝利の糸口すら掴めなかったかもしれない。それほどまでに、今の燐火は圧倒的な強さだった。


「おわりだな」


 燐火の鋭い目線が、エルナを貫く。見たこともないほど苛烈な攻撃をしてくる彼女の存在感は、相対しているだけで膝をついてしまいそうだった。


「ヒッ」


 エルナの喉から悲鳴が漏れ出る。彼女自身、その事実に驚愕する。そして彼女のうちから涌き出てきたのは、情けない自分への怒りだった。


「ふざ、けるな……!」


 やがてそれは、燐火への怒りへと変わった。


「ふざけるなふざけるなふざけるな! なんだその強さは!? 最初は手加減していたとでも言うのか!?」


 燐火は何も答えず、ただ静かにエルナを見つめるだけだった。


「見下していたのか!? ちっぽけな強さに酔い、お前をいたぶることに浸っていた私を嘲笑していたのか!?」


 エルナの言葉には、ともすれば泣き出してしまいそうな切実さがあった。それは、先ほどまでの強気な態度とは全く違って見えた。


「お前も私を見下すのか! お前もお前もお前もお前も、最初から私が負けると分かっていたのか!? ここにいるやつは皆皆私を馬鹿にしていたのか!?」


 燐火に続いて観客の方を指さして、エルナは叫んだ。強迫的と思える物言いだが、エルナは本当にそう思っているようだった。唾を飛ばしながら、必死に叫ぶ。ギャラリーは、その痛々しいに黙り込んでしまった。


「……憐れだね」


 やがて響いた燐火の静かな言葉に、エルナは顔を真っ赤にした。


「ああああああ!」


 もはや、エルナの中にあった畏れはどこかに消えていた。あるのは、憤りのみ。


 人に見下されると、思い出すのだ。母にゴミでも見るような目で見られていた時のこと。ことあるごとに兄と比べられ、出来の悪さを嘲笑されたこと。

 ぼろぼろの服しか与えられず、学校で嘲笑われたこと。クラスの皆が自分を見てひそひそと話していたこと。


 全部全部、エルナの大嫌いな記憶だ。


「死ねえええええええっ!」


 掠れた絶叫と共に、銃弾を撃ちだす。数は6。唸りをあげる弾丸が、燐火のもとに殺到する。


 迎え撃つ燐火は、静かにエルナの元へと駆け出した。

 弾丸が迫ると、彼女は最小限の動きでそれを回避した。首を傾け、身を翻す。まるで流れる水の如き動きに、鉛玉は翻弄されているようですらあった。


「ッ! くるなああああ!」


 慟哭と共に最後の一発。燐火の顔に迫ったそれは、姿の搔き消えた燐火を前に、虚しく空を切った。

 また消えた、と思った瞬間には、エルナの目の前には拳を振りかぶった燐火の姿があった。


「──い、いやだっ」


 暴力を振るわれるのは嫌いだ。幼い頃、母に叩かれたことを思い出すからだ。だからエルナは、他人を見下し、傷つけ、自分を守った。彼女は、そういう方法しか知らなかった。


 目を瞑ったエルナの顔面に、燐火の拳が突き刺さった。

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