おためごかし

「違う」

 目の前の男は言った。

 その憎たらしい色の瞳が私を責め立てるように、どこまでも真っ直ぐ、真っ直ぐ貫いた。張り詰めた空気が、たまらないと言ったふうに震える。噛み締めた奥歯がぎりりと鳴った。

「あなたのはただのお為ごかしだ。母親のためと言いながらその本質は、愛されたいと言う己の叫びだ!」

 そう叫んだ男の胸ぐらを私は思わず掴んでいた。身体中の血が普段とは倍の速度で駆け巡っている気がする。鼻息が荒い。力を込めすぎて色の白くなった己の拳にもその猛烈な息が触れた。

 男の瞳の中に映った今にも彼に襲い掛からんとするこの獰猛な生き物は、一体なんなのだろう。

 私なのか。いや、私ではない。こんなに醜いはずがない。違う。これは私ではない。この男の瞳に映る私は、常に美しくなければならないのだ。それがこんな、獣のような、出立ちで、立っているなど、あり得ないのに。

「みるな……」

 男から逃れるように顔を覆う。

「私を見るなっ!」

 後ずさった足がもつれて尻餅をついた。上等な燕尾服が、雨でぬかるんだ地面に広がる。

「見ないでくれ」

 湿り気を帯びた声が唇から転がり落ちた。整えたはずの前髪が額に垂れる。シャツの袖口が土色に染まっている。

 ああ、なんと醜い姿であろうか。あの美しく憎らしい瞳に映されたくない。誰か、私をここから隠してくれ。誰か、誰か。

「俺から目を逸らすのはやめてください」

 情けなく項垂れる私に傘を差したのは、他の誰でもない、私をこんなふうにしたあの美しい男であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る