第46話

      四十六


      夫


 私は沙月を追いかけることができなかった。おそらくこういうところが駄目なんだろうと思う。ただ、身体が動かなかったのだ。まだ私の知らない何かが起こっていることを感じ取ったのもある。

 しかし、実際のところ私を引き止めたのは、自分自身に対する落胆だった。私はついに沙月から信頼されることがなかった。私は沙月にとって本当の夫にはなれなかったのだ。



      妻


 沙月は行き先を決めていなかった。どこか遠くへ、ただその一念だった。この日はもう遅かったので、終点まで到達した後は無人駅のホームで眠った。ホテルなどの宿泊施設に行く気は起きなかった。次の日のバスの始発で、さらに見ず知らずの土地へ向かう。

 雪が降ってきた。もうすぐ三月になるのに、勢いがどんどん増してくる。バスはどんどん山の中に入っていった。終点に着くと、完全に山の中腹で、少し見晴らしの良いところまで行くと、いくつかの農家が並ぶだけの集落が見えた。

 沙月はバスを降りるまで完全に放心状態だったが、いざこの風景を見て、自分のあまりの無計画さを嘆いた。こうなることは簡単に予測できたはずだ。しかしあのバスに乗った時点で手遅れだったのだろう。

 沙月が途方に暮れていると、「あの……」と恐る恐る話しかけてくる声が聞こえてきた。

 ビクッとして振り返ると、小柄で温厚そうなお婆さんが少し先に立っていた。こんな田舎町に住んでいるとは思えない、高級感のある都会的な服装で、周りの風景との違和感が際立っている。

「見かけない顔ですが、道にでも迷われましたか?」

 沙月は動揺して口ごもった。何と答えて良いか分からない。しかし、お婆さんは構わず話を進める。

「まぁ、そんな薄着でこんな寒いところに。貴方が誰を訪ねてきたかわからないけど、私の家がすぐそこにありますから、一度暖をとりにいらしたらいかがですか?」

 沙月は人と関わることが元から苦手だった。特に結婚してからは、あのシン・アライアンス株式会社の連中以外とは、ほとんど誰とも交流していなかった。いつもの沙月なら断っていただろう。

 しかし今はもう他の選択肢は存在しない。沙月の中には願ってもない幸運に感謝する気持ちと、見知らぬお婆さんを疎ましく思う気持ちが混在していた。

 すぐそこと言っていたのに、雪が緩く降り続いている森の中を十分程歩くことになった。「ここよ」とお婆さんが指差した先には、こじんまりとした洋風の一軒家があった。

 怪訝そうに見つめる沙月に気付くと、

「別荘なの。半年ごとくらいで行き来してるのよ」と言いながらお婆さんが扉を開ける。

 中に他の人の気配はしない。だが、室内は暖かかった。居間のようなところに通され、高級そうなソファを勧められる。

 既にお湯を温めていたのだろうか、お婆さんは手早く紅茶を入れると向かいの二人掛けの椅子に座った。

「で、こんな辺鄙なところまで何しに来たの?」

優しい声でお婆さんが訊ねる。

「ええと、色々ありまして……」

「でも、用事がないとこんな何もないところに来ないでしょう?」

「ええと、誰かを訪ねてきたわけではないんですが、気付いたらここにいたというか……」

 とんでもなく不自然なので、本当はこんなこと言いたくはなかったが、他に言いようがなかった。完全に危ない人間だと思われてしまっただろう。沙月は言いながらどんどん落ち込んでいった。

 しかし、意外とお婆さんは怪訝そうな顔はしなかった。

「まあ、人生色々あるものねえ。全部が全部、理屈では動けないわよ」と変わらないままの口調でそう言う。

 今までそのような接し方をされたことがなかったので少し驚いた。沙月は、ろくに事情も知らないくせに訳知り顔で役にも立たない助言をしてくる人間が嫌いで、いつの日にか誰にも自分のことを相談しなくなっていた。

 物事には全て原因と理由があり、理にかなっている行動をとっていないと人は納得してくれない。その思いから、沙月は常に何かに怯えていた。

 お婆さんのその言葉で、沙月は今まで十数年にも渡って凝り固まっていた何かが溶け出し、一気に肩から力が抜けた気がした。今までとは別の種類の涙がにじむ。

 その姿を見たお婆さんは、なお微笑みながら沙月を見つめていた。そして、少ししてから何も言わずに部屋を出ていく。戻って来た時には、いくつかの部屋着のような楽そうな衣服をもっていた。

「行くところがないんだったら、落ち着くまでここにいたら? 私も一人じゃ寂しいの」

 不思議と、今はその申し出を素直に受け入れることができた。普段の沙月ならありえないことだ。

 その後の日々は安らかな気持ちのまま過ぎていった。好きな時間に寝起きし、お婆さんを手伝ってキッチンに立つ。元々両親が共働きだった沙月は、この疑似的な親子関係を楽しんでいた。

 どんどんとこのお婆さんに対して心が開かれていく。この別荘にはテレビやラジオはなく、新聞も届かない。沙月の携帯電話も充電が既に切れていたので、外のしがらみを全く気にする必要がなかった。そして、誰も沙月を追ってはこなかった。



 ちょうど五日経った日の深夜、沙月は唐突に目を覚ました。わずかだが、物音がしたのだ。凄く嫌な感覚。切り捨てたはずの外界の〝何か〟がこの聖域に入り込んできたことを感じた。

 沙月が寝起きする客室は二階にある。ただ、この家の隣にある納屋や薪の山に雪が深く積もり、その部屋の窓からでも十分に外に出ることができた。

 逃げようか? いや、そんな大ごとだろうか。ここまで奴らが来るわけはない。ここに私がいることは誰も知らないはずだ。ただ、入り込んできた〝何か〟の、物音を殺してじんわりと迫ってくる感覚が、沙月を総毛立たせていた。

 そんなわけないという理性よりも、ここにいてはいけない、という直感がどんどんと上回っていった。なんでまだ私はこの部屋を出ていないんだろう?

 沙月は小さなクローゼットにかけてある、ここに来た時に着ていた自分のコートを取り出して羽織った。他にも元々持っていた最低限の手荷物を持つ。

 窓を開いて入ってくる冷気に身を縮めながら、沙月は身体を外に乗り出した。慎重に窓枠をまたいで完全に外に出ると、雪に深く埋もれながら傾斜を下っていく。雪の下に何があるかは分からないが、今のところは急に落ちたり、何かが刺さったりはしていない。

 雪のせいで違いはよく分からないが、ちょうど地面に行き着くくらいの高さまで降りて、一階の窓から中の様子を窺う。やっぱり、誰かいる。あのお婆さんではありえないような、大柄な黒い人影。だが窓ガラスが内側から曇っているのでよく見えない。

 沙月はしばらく同じ窓から覗き込んでいたが、あまりの冷たさに身が震えた。特に足だ。この別荘は洋風だが靴は脱がなくてはならず、沙月は今、薄いスリッパ一つだった。

 雪に覆われた両足は、鋭くとがったいくつもの針で絶えず突き刺され続けられているような感覚だった。靴だけでも取りに行きたい、沙月の表情がどんどん歪んでいった。

 こっそり扉を開け、靴を回収できないだろうか。いやそんなことをする必要もない。普通に堂々と取りに行けばいいのだ。そもそも、中の人影も沙月には何の関係もなく、ただのお婆さんの知り合いではないのか。

 そうだ、そうに決まっている。大体何を早とちりしてこの吹雪の中、二階の窓から外にでるなどという馬鹿な真似をしたのか。私は本来、そんなことをする人間では絶対にないのに。

 あまりの寒さについに耐えきれなくなって、沙月は扉の方に吸い寄せられていった。しかし中から男の怒鳴り声がして、その歩みを止めた。恐怖のあまりその場でしゃがみこむ。

〝あいつ〟だ。なぜ? なんであいつがここにいるの? なんであいつにここが分かったの? 考えが追いつかない間に扉が勢いよく開いた。

 沙月は反射的にすぐ脇に生えていた木の陰に隠れた。距離は数メートルしか離れていない。絶対に気付かれると思ったが、周りが暗いこともあり、気付く様子は無い。

 扉から漏れる明かりではっきりと見えた。間違いなく沙月を何度も犯した、丸刈りの男だった。

「本当に嘘はついてないんだろうな」

 男は中を睨みつけながらそう言った。

「まさか。嘘をついてまでこんなところにお呼びはしませんよ」

 お婆さんの声がする。今まで聞いてきたような、上品で穏やかな口調ではない。

「くそ! へましやがって。こんな雪山の中をまた探さないといけないじゃねえか」

「ベッドはまだ温かかったですから、そんな遠くまでは言ってませんよ」

 やはり、沙月を探しているのだ。

「携帯電話は抜いてあるんだろうな。万が一誰か助けでも呼ばれたら厄介だ」

「ええ、ここにありますよ」

 それを聞いた沙月は急いで自分の小さなハンドバッグの中を見た。いつも入っている携帯電話がそこにはなかった。

 ここに来てから一切使ってなかったので気付かなかったが、いつの間にか抜き取られていたようだ。

 今までは何かの間違いだと思っていたが、沙月はここにきてやっと、このお婆さんは私を陥れるために近付いてきたのだと納得するしかなくなった。でも、なんで?

 沙月が本当に久しぶりに、心をほんの少し許しても良いかなと思った相手。過去の自分を知らない相手。その人に裏切られたことで、沙月はどんどん外の気温と自分の体温が同じになり、この自然の中に自分が溶け出してくような感覚に陥っていった。

 沙月はその場から動けなくなった。周りの雪に音を吸い取られながら、その場に崩れ落ちる。だが、男は近くにいるそんな沙月に気付かないまま、どんどんと家から遠くに離れていった。まさか逃げた沙月がこんな近くにいるとは考えもつかなかったのだろう。

 それから一時間ほど経っても、沙月は微動だにしなかった。身体もすっかり冷えきって、傍目からは死んでるようにも見えた。ただその目は開かれており、たまに瞬きをすることも確認できる。

 もうそろそろ目を閉じれば死ねるだろうか、そう思った沙月が本当に意識を失いかけた瞬間のことだった。

「沙月、沙月!」という声とともに沙月は揺り起こされた。朦朧とする意識の中で、それは勝廣だということだけが、沙月にははっきりと判った。



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