第44話


      四十四


      夫


 実際、私は行かなくても良かったかもしれない。私が現地に到着したころには、部下と先方の課長がオフィス内の簡易応接ブースで談笑をしているところだった。

 改めてその課長を始めとした付き合いのある数人に詫びを入れるのを兼ねた挨拶を終えると、私のするべきことはなくなった。だが、その頃にはもう随分と時間が遅くなっていた。

 しまった。遅くなることを沙月に連絡するのを失念していた。私はいつも、少しでも沙月の負担にならないように。帰りが遅くなる時は極力早く連絡を入れるようにしていた。焦って携帯電話を開ける。沙月からの連絡はなかった。

 改めて連絡を入れようかと思ったが、もうここまでくるとあと帰るだけなので、帰ることを優先した方が良いだろう。

 沙月はどんな顔で私を出迎えてくれるのだろうか、はたまた出迎えてくれないのか。小言の一つでも言ってくれるのだろうか。それとも、ただ粛々と夕食を出してくれるのか、夕食すら出してくれないのか。怒っているのか、それとも心配してくれているのか。

 もうすっかり暗くなってしまったため、通り慣れない道に苦戦する。方向感覚がどんどん失われていく。少し脇道に迷い込んでしまい、さらに分からなくなった。

 周りの街灯も少なく、薄暗い道を走らせていると、反対側の歩道を歩く沙月を見たような気がした。こんなところにいるはずもないから、きっと目の錯覚だろう。



      妻


 沙月は見知らぬ道をとぼとぼと歩いていた。もう駅を出てから数時間程経っていたが、自分では全く気付いていない。時間感覚はほとんど失われていた。ほとんど周りも見ずに俯いているのだから、タクシーなど捕まえられるはずもない。

 何も考えられるような状態ではなかったが、様々な記憶の断片がフラッシュバックし、沙月の精神を蝕んでいく。ある時はもう逃げずに警察に届けなければという思いがよぎるが、次の瞬間には、絶対に警察には行くものかと思考が移り変わる。

 こんな不幸な人生で、最終的に前科持ちになどなってしまったら、もう一生人間以下の存在になってしまう。

 だが、これから一生東城たちに追われる人生かと思うと、改めて恐怖が抑えられない。捜索の手が勝廣や母に向かうかもしれない。それでも、もうこのまま消え去ってしまいたいという衝動のみが、沙月を動かしていた。

 涙が一筋、頬を伝った。驚いた。涙は長らく流していなかった。どれだけ辛くても歯を食いしばって耐えていたから。一度決壊すると、そのあとは早かった。拭っても拭ってもあふれ出してくる。勝廣に会いたい。

 周りが明るくなってきた。繫華街はまだまだ盛況だ。一人泣きじゃくりながら歩く沙月を好奇の目で遠くから見つめる人も中にはいるが、大半の人は無関心に通り過ぎる。沙月も、周りのことなど見てはいなかった。

 もう少し歩くと駅が見えた。おそらくあそこから乗れば、今日の電車が動かなくなる前に、もっと遠くへ行けるだろう。

 切符を買い、改札を通る前、沙月は最後に後ろを振り返った。馴染みのない街並みだったが、もう東京に戻ってくることはないだろうと思うと、自然と寂寥の思いが湧く。

 本当はその光景をずっと見ていたかった。しかし、そんな叶わぬ望みにはいつも通り蓋をして、わずか数秒ですぐに改札の方へ向き直った沙月は驚愕した。そこに勝廣がいたからだ。

「どこに行くんだ?」

 勝廣の声はいつも通り冷静だった。ただ少し息があがっている。

「なんでここにいるの?」

 沙月の頭はパニックだった。こんな泣き顔で、もうなんて言い訳していいか思いつかない。何ならもう勝廣と喋ること自体が辛い。しかし、沙月はその場から動けなかった。一度勝廣の姿を見てしまうと、それまで自分を動かしていた何かが崩れた。

 そんな沙月を勝廣は強く抱きしめた。

「ど、どうしたの?」

「君が何をしていたって良い。俺の側にいてくれ」

 勝廣は沙月の耳元でそうささやいた。


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