第30話

      三十


      夫


 それまでは同じペースで歩いていたのに、急に沙月の存在がすぐ横に感じられなくなった。立ち止まって振り返ってみると、沙月が右手を軽く口元に添え、前方を凝視している。

 その視線に従って前を向くと、黒い、パリッとしたスーツを着た背の高い男がこちらのほうに歩いてきていた。後ろに短髪の男と太った男を従えている。

 この二人もスーツを着ているが、普通のサラリーマンには見えない。沙月がこのような反応を示すということは、知り合いなのだろうか。

 しかし、沙月はすぐに何事もなかったように歩き出した。歩いてくる男達の方も、こちらに対して何も反応していない。すれ違った時、先頭にいた男がハンカチのようなものを落とした。

 ちょうど私のすぐ脇のところだったので、「落としましたよ」と私が拾うと、「ああ、すみません」と本人ではなく、後ろの太った方の男が受け取った。だが落とした方の男もこっちの方を見て軽く会釈をしている。見た目ほど悪い人間ではないのかもしれない。

 彼らはそのまま歩き去った。私はそのあと少しだけ立ち止まってその姿を見ていたが、いつまでも気にしていても仕方ないと思って振り返ると、沙月はまだ彼らの方を見つめていた。



      妻


 東城が落としたハンカチを勝廣が拾っている間に、短髪の方の男が小さな紙切れを沙月の鞄にねじ込んだ。東城はこれを渡すために接触してきたのだろう。それ以外は特に干渉することなく去っていったが、それでもこの三人の姿を勝廣に見られたくはなかった。

 家に帰ってそのメモを見ると、『明日、私達にご同行頂きたい』という枕詞と共に、時刻と場所が記されていた。午前十時に、最寄りの駅前だ。

 なぜこんなに言い訳のしにくい時間を指定するのか。沙月は頭を抱えた。本当はこんなもの、拒絶したい。ビリビリに破いて床に叩きつけたい。全てを忘れて毛布にくるまって眠りたい。しかし、そんなことはできない。もはや引き返すことなどできないのだ。

 沙月は、どうすれば自然にこの時間から出かけられるか、考えを巡らせた。


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