第21話

      二十一


      夫


 午後四時五十分、家に着いたが沙月はいなかった。この状況に何度目かの既視感を覚える。まだ夕方だ。妻が家にいないことは何も不自然なことではない。しかし今までのことを考えると、妙な胸騒ぎがする。

 以前、昼間に家に帰った時、有馬温泉の深夜、私が加藤達との会合を終えた後、沙月はいなくなっていた。結局、毎回きちんと戻ってきたが、後の二つは完全に不自然な状況だった。

 沙月のことは信じている。しかしいずれもろくに理由も教えてくれないのは不可解だ。一度、沙月とじっくり話さなければならないのかもしれない、夫婦なのだから。

しかしそのきっかけが難しい。少なくとも今日は無理だ。夕方家にいなかったということだけでは弱すぎる。かといってもう一度沙月がいなくなるのを待つわけにはいかない。今度はもう帰ってこないかもしれない。沙月が何か危険な目に合うかもしれない。

 休みをとって良かった。彼女とじっくり話す時間を、この間に何としてでも設けなければならない。



      妻


 沙月が意識を取り戻した時も、まだ車の中だった。走行に伴う揺れは、より大きくなっている。睡眠薬でも嗅がされたのだろう。これも行き先を知られないための方策だろうかと思った沙月の甘い考えは、隣から聞こえる大柄な男の言葉で粉々に崩れ去った。

「なあ、そろそろ良いだろう? 俺もう我慢できないよ」

 運転席にいる男も次のように答える。

「まだだ。車の中でヤるのはリスクが高い。大体俺に運転させておいて、後ろで変な音を立てようとするな、胸糞悪い。もう少しで着くから待ってろ。抜け駆けしようとするな」

 沙月は恐怖のあまり、動くことが出来なかった。しかし、そのおかげで目覚めたこともまだ男達には知られていないようだ。おそらく行った先に東城はいないのだろう。

 彼は一度も沙月に対して性的対象として扱ったことはなかった。それに沙月の身体を求めるのであれば、彼ならもっと前に実現できたはずだ。

 仮にここで身体を差し出しても、東城を止めることはできない。沙月は何とか隙を見つけて逃げ出しかった。

 まだ心の整理がつかない状態で、時間をかけながらそこまで考えをまとめ上げた沙月のその決心がちょうど固まったとき、車が速度を急激に落として左折した。波打つような大きな揺れがあったことから、どこかの敷地内に入ったのだということが分かる。

 停車して扉が開かれた。大柄な男が沙月を抱え上げようとする。眠らせておくだけで十分だと判断したのか、特に手足は拘束されていなかった。

 完全に担ぎ上げられてしまったら逃げられない。そう思った沙月は、脱力の状態から重心が下がることを利用して、座席から下に落ちるように移動した。丁度四つん這いの姿勢になったので両脚に力を込め踏ん張り、そのまま男の腹を両手で突っ張って強く押し出す。

 沙月が意識を失っていると思っていた男は不意を突かれ、うわっ! という声を挙げて軽くよろけた。外に出られるだけの隙間ができたので、沙月はそこから勢いよくそこに飛び出す。

 しかしすぐに体勢を立て直した男に足首を掴まれた。足を持たれて引きずられながらも、うまく仰向けに体の向きを変えることができたので、もう片方の足で何度も男を蹴りつける。

 偶然そのうちの一発が男の股間に直撃し、男の手が緩んだ。同じところにもう一撃を加え、沙月は何とかこの男の手を振りほどくことに成功した。

 しかし、立ち上がって走り出そうとしたその瞬間、いつの間にか近づいてきていたもう一人の男に腹を殴られ、沙月は再び意識を失った。



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