第8話
八
夫
「最近沙月さんはどうなんだ? 元気にしてるのか?」
十月になり、少し肌寒さが出てきたころ、私の上司でもある長兄が、彼のいる部長室を訪ねた時に唐突に尋ねてきた。
「ああ、元気だよ。急にどうしたの?」
「いやあ、お袋も親父も沙月さんに当たり強いからなあ。そっちも気を遣ってかこっちの家に顔出さないし、心配なんだよ。タフそうな人ではなかったからさ」
兄は昔からこういうところがある。頭が固く、厳格な両親の代わりに兄弟全員に常に気を配っていた。
「心配してくれるのは嬉しいけど、大丈夫だよ。彼女はうちの家のことはそんなに気にしてないと思う。まあ、これからもあまり訪ねようとは思わないけど」
「お前達は式も挙げてないだろう。再会してすぐの結婚だったし、何か特別な記憶を残しておかないと、夫婦の間に絆は生まれないぞ」
その言葉が少し心に刺さった。私はいつもそうだ。自己完結、自己満足。誰かと相互的に心を通わせたことなど今まであっただろうか。沙月は私をどう思ってくれているのだろうか。
「旅行にでも行け、夫婦で共有できる思い出を作るんだ。ふとした時に思い出せる」
妻
あれから数ヶ月たったが、呉谷と連絡はとれなかった。前に言っていた金策に奔走しているのかもしれない。勝廣とももう会っていないようなので、それに関しては少しほっとしていたが、同時に、自分ではどうしようもないこの状況がじれったかった。
しかし、昨日突然連絡が来た。会いたいという。沙月は食い入るように了承した。
「神戸のMホテルまで来てほしいんだ」
電話口の向こうで彼は少し切迫した声で言う。神戸ですって?
「神戸なんて。夫に気付かれずに行くのは不可能よ」
さらに呉谷の指定した日付は、旅行に行く相談をしていた夫の休暇中だった。
「何とかしろ。君が断れる立場にあると思ってるのか? 宮野と俺が会った話は聞いてるんだろ。あの時連絡先も交換してるんだ。君が犯罪者だってことを知ったら、あいつはどう思うかな?」
本当は呉谷が夫と会った件もこの場で問い詰めたくて仕方がなかったが、今は勝廣がすぐ隣の部屋にいた。あまり声を荒げるわけにはいかない。
どうすれば勝廣の詮索を生まないようにMホテルまで行けるのか、沙月は必死に考えを巡らせた。そして少し間を置いて、こう答えた。
「分かった。ただ、会うのは夜中にしてもらうからね」
沙月と勝廣が相談していた旅行先は温泉地だった。沙月は電話が切れてからすぐ、隣の部屋の勝廣のもとへ向かった。
「ねえ、旅行なんだけど、有馬温泉にしない?」
急に夫の部屋に妻が訪ねてきたことに、勝廣は大いに驚いているようだった。
「いいね。一度行ってみたいと思ってたんだ」
勝廣はすぐ笑顔になった。
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