優しき修羅の愛

日向 満家

本編

第1話

 今にも涙があふれそうな顔で私にすがりつく妻の体を支えながら、私は手元の拳銃でなんのためらいなく数メートル先にいるその男を撃ち殺した。

「これで俺も同じだ」


 私達は、修羅の道を生きる。




      一


      夫


 私が妻である沙月の異変に気付いたのは、ある年の六月の中頃、雨の合間に蒸し暑さが顔を出すことが増えてきたころだった。

 その日はもう真夏と言ってもおかしくないくらい、朝から太陽が強く照りつけていた。大きな変化があったわけではない。ただ、その日は沙月とほとんど目が合わなかったのだ。

「行ってくるよ」

 ある朝、会社に行くために靴を履き終え、立ち上がった時に見た沙月の顔は明らかに伏し目がちだった。

「行ってらっしゃい」

 心なしか声にも覇気がない。一瞬見ただけでは分からない程度に少しだけ、壁にもたれかかっている。昨年の冬の初めから一緒に住んでいるが、こんなことは今までなかった、と思う。

 通勤中の車の中でも、頭に浮かんできたのは妻のことばかりだった。新婚である妻にもう少し注意を払っていれば良かった。どこか体調が悪いのかもしれない。近頃は仕事で大きな案件にいくつか並行して入っていたせいで、妻をあまりかまってやれなかった。

 沙月とは高校の時に出会った。部活が同じだったのだ。同じ学年だったが、クラスは一度も一緒になったことはなかった。初めて出会ったのは入学直後の仮入部期間で、体育館の片隅に他の新入生と一緒に集められたときだ。

 最初は恋愛感情などは何も持っておらず、ただおとなしそうな子だなと思っただけだった。私は元々、一目惚れをするようなタイプではない。

 私たちが所属していたバドミントン部はそれほど強豪ではなく、それゆえ練習もそれほどきつくなかった。バドミントンの練習よりも、同期の仲間たちと部室で駄弁ったり、一緒に帰るときに買い食いをしたり、ファミレスで一人一品ずつとドリンクバーで、何時間も粘ってテスト勉強をしていた記憶の方が鮮明に残っている。

 男女が分かれていない部活で、男子三人、女子二人からなる同期たちはとても仲が良かった。あのメンバーで過ごした日々はまさに甘酸っぱい青春そのものだったと言えるだろう。

 そんな中、私は沙月に急激に心惹かれていった。彼女の柔らかな物腰、相手を気遣える優しさ、その中でもふとした瞬間のはじけるような笑顔や、きょとんとした顔、頬を少しだけ赤く染めながら何かに熱中して話す時の顔など、時折見せてくれる豊かな表情が好きになり、彼女の存在そのものがどんどん愛おしく感じられるようになっていった。

 高校二年生の五月。特別な事があったわけでもない、なにげないある日。私から沙月に告白し、付き合うことになった。私は彼女のことをとても大切に想っていた。しかし、初めて付き合った相手ということもあり、私は、自分が好きな人にどう接すればいいのかも分からなかった。

 それまでの約一年間友人関係を重ねてきたこともあって、何回か行ったデートらしきものでも特別なことをするわけでもなく、ただ仲の良い友人二人で遊んだというだけのものになってしまった。

 気まずくなるのを恐れて同期にも付き合っていることは伝えておらず、部活でもそれまでと変わらず接していたことも悪かった。私たちは、付き合っているという名目のみはそこにあったが、その関係性自体は本質的には何も変わっていなかったのだ。

 告白では私の思いのみを伝え、向こうからの好意を示すものはそれに対するイエスの返事のみであったため、それ以降彼女が私にどういう感情を抱いていたかは定かではない。

 私自身もふがいないことに、普段の付き合いの中で彼女に甘い言葉をかけるという文化を最初から持っていなかったので、彼女に対する気持ちを言葉にして伝えることはほとんど出来ていなかった。

 私たちは付き合っていた。しかし、そこにはただ私の感情があっただけなのかもしれない。



      妻


 夫である勝廣を送り出した時も今も、沙月の頭の中は昨晩かかってきた電話で頭がいっぱいだった。

『俺はお前の罪を知っている。Tホテルの505号室に来い』

 どこかで聞き覚えのある男の声だった。日時は今日の午後三時を指定されていた。沙月には、これが何のことを言っているのか、すぐに思い当たるものがあった。約五年前、当時両親とも重い病気になって治療費がかさみ、沙月の生活が困窮していたときに犯した万引きだ。

 元々裕福な家庭ではなかったので、両親とも十分な生命保険に入っていたわけではなく、貯金もほとんどなかった。そのため金銭面における困窮は両親が入院してすぐに訪れ、兄弟もいなかった沙月一人の収入だけでは、治療費を支払いながら自分自身も食べていくのが困難になった。その犯罪は、看病と仕事をしながら食いつなぐため、やむなく行ったことが始まりだった。

 本当はそんなことはしたくなかった。しかし、回数を重ねていくうちにどんどんとその感覚が癖になっていってしまった。確かに食糧があふれる今の日本で、少額しか持っていなくても食いつなごうと思えばなんとか食いつなげられたと思う。実際、当時の状況的にそれができないわけではなかった。しかし、少しの法を犯すだけで、それまでの生活水準を保つことが出来る。その誘惑に勝つことが出来なかった。

 幸いなことに、当時は一度もこの犯罪が露見することはなかったが、これが勝廣にばれたらと思うと嫌な汗がどっと出てくる。勝廣は虫も殺せないような、犯罪とは無縁の人間だ。実家は資産家で、親族も沙月のような貧乏人と結婚することには反対していた。顔合わせの時のねちねちした嫌味の数々、軽蔑の視線は今でも思い出す。

私の過去は、夫の実家には絶対にばれてはいけない。そうなったら、絶対に私は簡単に捨てられる。私だけではない、まだ治療を続けている母の治療費も出してもらえなくなる。この電話に応じないという選択肢は、沙月には初めから存在しなかった。

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