第9話 一番近くで

「こんにちは!お邪魔しています」


 そう、にっこりと笑いかけられた途端、頭上を天使がくるくると舞い祝福のラッパを吹いた。生まれて初めて異性を可愛いと思った瞬間であった。


 伊織はあまりの衝撃に、なんと返事をしたのか覚えていない。


 彼女が帰ったあとで探りを入れたところ、最近クラスに転校してきて仲良くなったのだ、と莉子は言う。


 莉子の同級生だから十歳……。

 自分はロリコンなのかと一瞬考えてしまったが、しかし両親だって四歳差だ。十代でのその差は大きいが、有か無しかで言えば大いに有りだろう。うんうんと一人頷いた。


 リビングで遊ぶ愛おしい少女を観察したいがために、伊織も自室には行かずに本を読むフリをして留まった。目敏い莉子は何でいるのか、という目を向けていたが既に羽菜しか視界に入っていない伊織は気付かなかった。


 そういうことが数回続き、

「お兄ちゃんって羽菜が好きなの?」

 と単刀直入に尋ねられた。

 聡い莉子だ。そんなことなど想定済みであった為、伊織は羽菜を好きだと打ち明けると共に味方に引き入れることにした。その頃には莉子は羽菜を大層気に入っていることに気付いていたから、羽菜とずっと近い仲で居られるように兄妹で協力し合おうと提案をしたのだった。


 なんだか気持ち悪いと顔を引きつらせていた莉子だったが、概ね伊織の提案には賛成だったのだろう。すんなりと同意した。

 もちろん莉子が羽菜に恋愛感情を抱いていないかの確認は、折に触れて尋ねることを怠ってはならない。味方としては心強いが、敵に回れば一番怖い存在なのだから。


 二人は考えた。


 莉子は羽菜と一生親友として一番近い存在でいたい。

 伊織は羽菜を女性として愛していて一番近い存在でいたい。


 そのためには伊織が羽菜と結婚して、莉子と義姉妹になればいい。そう結論付けたのだった。


 中学生になった羽菜は少女と女性の狭間で揺れて、徐々に羽化する蝶のように綺麗になっていった。それに気付くのはもちろん伊織だけではない。

 同級生の男たちが羽菜への好意を向ける度に、莉子がへし折ってきてくれた。幸いだったのは羽菜自身が誰かに恋することがなかったことだ。


 その時はというと、昔と変わらず家で顔を合わせたら挨拶をする程度の関係であった。気持ちは急くが、莉子を信じて羽菜が高校生になるまでは距離を縮めることをしなかった。今すべきことは羽菜との距離を詰めることよりも、将来彼女を何不自由なく生活させてあげるための基盤づくりだ。

 想いは次々と溢れ出してくるけれど、その都度、莉子からの誕生日プレゼントである羽菜のフォトコレクションを眺めて学業に専念した。


 それから自分で決めたこととはいえ、羽菜と一切会えなくなることに恐怖を覚え、自宅から通える大学に進学をした。

 伊織は自身が女に好かれる容貌だと知ってはいたが、大学生になるとそれが顕著になった。羽菜にしか興味がなく煩わしいので、他所の女が近付かぬように偽名でバイトをすることにしたのはその為だ。そこに気を利かせた莉子が羽菜を誘って面接し、一緒に働くことになっだが、まさか羽菜が働くとは思わなかったから、莉子に偽名を使っていること言わなかったのである。


 顔を合わせた瞬間、気付いたように目を瞠った羽菜だったが、名前が違うことに気付いたのか伊織とは完全に別人だと思ってくれたらしい。騙していることに胸が痛むが、友達の兄としてではなく、新しい関係を築けることに浮かれてしまったのだ。友達の兄としてではなく、ただの男として。


 元々愛想の良い羽菜ではあるが、知り合いに似ていると思ったからか伊織には早いうちから懐いてくれていた。殆ど挨拶しかしてこなかった羽菜が、目の前で、目を見て話して伊織の話に微笑んで返してくれる。長年拗らせた伊織は、それだけで堰を切ったように羽菜への想いが止められなくなってしまったのだ。莉子には焦りすぎだと忠告をされたが、伊織の内情を知っている妹は惜しみなく協力をしてくれた。


 周りを牽制しながらアピールをし、じわじわと距離を縮めていった。いつしか伊織を見る羽菜の目が色めいたものだと気付いたときガッツポーズをしたものだ。それを莉子に延々と話したら、流石に引いていたが知るものか。


 そうして人生最大の勇気を振り絞って、告白。一瞬訪れた沈黙に緊張しすぎて吐きそうになる。嫌だと言われたら、どうしたらいいのだろう。羽菜を諦めるという選択肢はないので、彼女自身が諦めて貰わねばならない。そうするにはどうしたらいいのだろう、という意味だ。


 そして伊織は念願の羽菜とのお付き合いを開始したのである。但しリオとして。

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