第4話 接点

「羽菜、お帰り。早いのね……?」

 自宅の門を開けようとして、羽菜は周れ右をしたくなった。母が庭から顔を出してきたのだ。目線は直ぐに隣の伊織へと向けられる。

 良くも悪くもお喋りが大好きな母は伊織に何を話すか分かったものではない。羽菜は言葉には出せずとも、母に余計なことは聞いてくれるなと目線を送るが伊織に興味津々で娘に見向きもしない。嫌な予感がする……。


「ご無沙汰しております。羽菜さんと仲良くしていただいている莉子の兄の伊織と申します」


「莉子ちゃんのお兄さん?あらあら!確かお会いしたことあったわよね?」

「はい。莉子が小学生のころ、迎えに来たことが何度か」

「あの時は中学生だったかしら?優しいお兄ちゃんだと思ってたから覚えてるわ」


 あ、そうだったのか。


 だからあの日も迷うことなく自宅まで送ってくれたのだと、羽菜は一人合点がいった。


 探るようだった母の目は、莉子の名前を聞いて普段どおりに……は、ならなかった。何故その兄と二人で家に?どういう関係?と顔中に書いてある。羽菜の母は娘同様、存外分かりやすい。


「僕が最近転勤でこちらに戻って来たんです。だから莉子と羽菜さんと三人で食事に行こうということになって。そうしたら先ほど偶然駅で羽菜さんとお会いしたんです。聞けば自宅に忘れ物をしたとかでご一緒させてもらいました」

 簡潔明瞭な伊織の説明に、母が目を輝かせている。おおよそ素敵ね、なんて思っているのだろう。似たもの親子は好みのタイプも似ている。


「あら、そうなの?だったら、どうぞ上がって?」

「お母さん!」

「いえいえ、そんな……」

 遠慮している伊織をよそに、母は抗議の声を上げる羽菜の腕を引く。嫌な予感が的中した。


「羽菜は早く忘れ物取ってらっしゃいよ。ささ、どうぞ?」

 母の羽菜に対するものと、伊織に対する声のトーンが違う。羽菜が部屋に行っている隙にろくでもないことを聞きそうで恐ろしい。彼氏ならまだしも伊織は親友の兄なだけであり、友達ですらないのだから。


 お客様用のスリッパを差し出す母の背中に、『変なことは聞いてくれるな』と念を送りながら、リビングに二人が消えたのを確認して反対の位置にある階段を音を立てないようにダッシュで駆け上がった。


 * * *


 ありもしない忘れ物は何かと聞かれるといけないので、防寒用にカーディガンをカバンに突っ込んだ。ついでにストッキングを変えて、仄かに香る練り香水を首と手首に付ける。だから然程時間がかかったわけではない。それなのに、すっかり母は色々と聞き出していた。


 リビングに入るなり、

「伊織くんの会社はね羽菜のところの親会社なんだって!」

 と宣った。

「お母さん、失礼よ」という声は音にならず、代わりにヒェッという音なのか声なのか判別つかない小さなものが喉から漏れた。


 親会社?


 だとしたら伊織は上司に当たるのではないだろうか?


「こっちに座る?」


 母を諫めることをすっかり忘れてしまった羽菜は、伊織が指し示してくれるまま、彼の隣に腰を下ろした。


「凄いわねぇ。羽菜は受けることすらしてないわ」

「……もしかして伊織さんのお勤め先って未来電工ですか?」

 目を瞠る羽菜に、伊織はクスリと小さく笑みを落とす。

「そうだよ。それより知ってるかと思ってたよ。まぁ、莉子もそこまでは言わないか」


 確かに莉子から聞いていてもおかしくはない。が、しかし親会社だと知っているのは社員だけということもある。なんせ社名に関連性がないのだから。


 衝撃の事実に驚きを隠せない。


 憧れのお兄さんである伊織のことは、やはりどこか手の届かない存在だと思っていた。しかし現実的にも雲の上の人であったようだ。伊織の会社は全国や海外にも進出している一流企業で、羽菜の勤めるような関連企業は数多にあり、それを束ねる大元なのだ。

 とはいえ平社員である羽菜に関わりはなく、たまに掛かってきた電話を取り次ぐ程度で。


 ……急に入社式ぐらいでしか顔を合わせたことのない上役と同席している気分になった。緊張でやけに喉が渇いた羽菜は母に差し出されたお茶を飲み、脳が糖分を欲するまま目の前にあった大好物の小さな落雁をこっそりと食べた。


「ご結婚されてるの?」

「ぶはっ!!」

 母の質問に思いっきり咽てしまった。落雁の粉が機関に入って苦しいし、「大丈夫?」と背中を撫でてくれる大きな手が誰のものか分かって、その優しさがさらに苦しい。落雁をチョイスした自分を密かに呪う。隣の金平糖にすればよかった。


「いえ、仕事が忙しくて恋人すら作る暇がないのでお恥ずかしながら……」

 お茶を飲んで息を整えていると、背中を撫でる手はそのままに伊織がそんなことを言うものだから、再び咽てしまいそうになる。


 ——お母さん、私をキラキラした目で見ないで!私だって咽ながらも心でガッツポーズしてしまっているのだから。


 羽菜の心の叫びは母に届いたのか。分かっていると言わんばかりに、羽菜を見てウンウンと頷いている。


「い、伊織さん!もう時間だからいきましょうか?」


 羽菜の母の質問が恋愛関係に舵を切ったので、慌てて立ち上がった羽菜は話を遮った。このままだと羽菜を薦めかねない。


 けれど伊織は独身である、という事実には思わずにやけてしまいそうになる。ファンとしてはまだ誰のものにもなってほしくない、という我儘な心が働いただけだ。どうこうなるつもりはない、多分。


 ただ、万に一つ、好きだと言われたら二つ返事で了承してしまうことは分かりきっている。


「あら……」


 残念そうな母を目で制して、羽菜は伊織を促した。上司よりも上司だと思うと、伊織に下世話な話題を振りまくわけにもいかない。どうせずっと彼氏がいないことを言うに決まっている。


「また遊びにいらしてね。莉子ちゃんにもよろしく。お菓子も頂いてしまって、ありがとう。あれ、羽菜の大好物なのよ」

「いいえ、莉子に言ってこちらにお持たせしようと思っていたものなので。直接お渡しできて嬉しいです」


 先ほどお茶と一緒に食べ、そして咽た落雁は伊織が持っていたものらしい。それを断りもなく、さらにはお礼もなく食べてしまったではないか。サッと顔色を青くした羽菜に気づいたのか、

「羽菜ちゃんに食べてもらうつもりだったから何も気にすることはないんだよ」

 なんて、眼鏡の奥の瞳を細めて優し気に微笑まれたものだから、羽菜の頬は今度は急激に赤へと色を変えた。


 ケースも可愛らしい宝石箱のような干菓子は、目にも楽しくて羽菜は大好きだった。今は菓子皿に移されていたが、何度も食べているから間違いない。

「私、これが好きで……。デパートでしか買えないから嬉しいです」

「それは良かった」

 隣に座る伊織を見れば優しい眼差しとぶつかり、再会した日に送ってくれた時の車内を思い出す。熱が籠っているようなその瞳は、いつか羽菜に愛を囁いてくれていた元彼を思い出させた。


 まさか、ただの妹の友達でしかないのに。

 しかも再会して間もないのだ。そんな熱があるはずもない。見間違いだろうと騒ぐ心臓を落ち着かせる。


「さぁ、本当にそろそろ時間だから行こうか。それではお暇します。突然お邪魔してすみませんでした」

「またいつでも遊びにきてね。そうだわ、今度は是非晩ごはんを食べていってちょうだい」

「ちょ、ちょっと、お母さん!」

 手をパンと叩いて、そう提案する母に慌てて立ち上がった。流石にそれは恥ずかしすぎる。そんなのまるで恋人のようではないか。


「そんな、申し訳ないです」

「いいのよ。莉子ちゃんも一緒に、ね?」

「それでしたらお言葉に甘えて……ありがとうございます。伝えておきます」


 遠慮する伊織に少し残念に思い、そして次に誘いを受け入れてくれて嬉しく感じてしまった自分を殴りたい。脳内忙しい羽菜は、玄関へと向かう母の後ろをついていく伊織の後ろ姿の既視感に気が付かなかった。

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